20 秀吉の策

 以下は秀頼の語るところである――


 忠栄の正室、豊臣完子さだこ乳母めのとは、豊臣秀次の侍女であり愛人であった。

 秀次は美女好みで、公家の娘から大名の姫まで、ありとあらゆる美女を囲っており、乳母もご多分にもれず美女で――しかし他の愛人たちとは、ちがった立ち位置にあった。

「そなたは、そなたは……わが安らぎじゃ」

 そのようなことを言われて、秀次から愛されていたらしい。

 侍女という、身の回りの世話をするという役割が、秀次にとってはそういう心理作用をもたらしたのではないか、と乳母は思っている。

 ただいずれにしろ、乳母自身も秀次のことを憎からず思っており、何度か抱かれた。

 抱かれた結果、子ができた。

「悪いが、その子を豊臣の子にすることはできぬ」

 秀次は言った。

 秀次は豊臣秀吉の後継者と目されており、その秀次が子をすということは、充分、政治的行為だった。

「公家や大名のむすめならまだ良い。されど、そうではないそなたの子となると……」

 他の秀次の側室らから、を買い、最悪、殺されることもあり得る――とも、言って来た。

 しかし捨て子や女郎までもが側室となっているのに、そんなことがあろうかと乳母は思っていた。

 こうして生まれた子は四辻家へ貰われていった。のちに与津子と名付けられるその子は、乳母と「死に別れた」という扱いにされ、二度と会うことを禁じられた。

 やがて、乳母自身も、完子の乳母として、聚楽第から離れ、大坂城で暮らすことを余儀なくされる。

 が、あとで思えば、本能的に、妻妾、子どもまでも皆殺しにされる運命から、乳母とその子どもを、守りたかったのだろう。

 豊臣秀吉の側室・茶々が、から。



「……それが、余じゃ」

 秀頼は、力なく笑った。

 さきほどから、秀頼の顔は、否、彼そのものが、力というものが感じられない。

 言うなれば、虚無。

 そうなってしまうのも、無理がない。

 今まで信じて来た、「秀吉の子」であるということが崩れてしまったのだから。

「いや、秀吉の子でないということは、この場合、余はよみすべしだと思う」

 ここで、秀頼の目に力が感じられた。

「秀吉は、悪鬼じゃ」

 秀頼の目が、黒くなる。

「豊臣というを残したいだけのために、破倫を為した。人を殺した」

 そのを受け継がせたいと思った、豊臣の子――秀頼のために。



 豊臣秀吉は、その欲望もあったろうが、政治的なおこないとして、茶々を側室に迎えた。

「これで、わしは信長さまの縁者よ、後継ぎよ」

 そう、言いたかったのであろう。

 何しろ、茶々は戦国の覇王・織田信長の姪。

 かつて織田家の足軽あるいは下人だったと言われる秀吉が、やはりかつての上役や同僚より「上」と見せつけるのに、これほどわかりやすい「めとり」は無いであろう。

 付け加えて言うと、茶々は絶世の佳人。これだけでも、秀吉の権勢の象徴となる。

「わしももう、年齢とし年齢とし。こうして、権威づけが必要じゃて」

 何も主筋の美女を抱きたいという欲だけではない。

 秀吉は彼なりに、今後の豊臣政権の先を見据えていた。

「こうして信長さまの縁者の、しかも美しい女性にょしょうを手に入れておけば、わしが『一番』と誰もが思う……されど、こうも思うはずじゃ、『なんだあの成り上がりは』と」

 秀吉は狡猾だった。

 姉・ともの息子である秀次を引き上げ、後継者に擬した。

 そして秀次には公家の娘をあてがった。

 多くの大名、小名の娘を、側室として迎え入れさせた。

「これで秀吉わしが反感を買う分、『秀次なら』という者が増えよう」

 成り上がりも二代目になれば、それなりの「伝統」となる。

 ましてや、秀次には公家や武家の娘がそれぞれ妻として迎え入れられており、そのあたりの「声」を聞いてくれるだろうという「期待」が集まる。

「これでわが豊臣の家は、豊臣の子――秀次によって、受け継がれ、盤石となろう」

 わがこと、成れり。

 秀吉おのれの死後、秀次の治世がどのようなものになるか知らないが、石田三成のような能吏をつけておけば良い。

 何ごとも、問題はない。

 ……問題はない。

 そのはずだった。

 しかし。



「子が?」

「はい」

 ある日、茶々は懐妊した。

 秀吉は茶々を抱くは抱いていたが、あまり若くもない彼は、そこまでしつこくはしていなかった。

 というか、今までの女性経験からして、おのれの子ができることは、そうそうあるまいと踏んでいた。

「……ほんとうに、わしのたねか?」

 とまでは言わなかったが、秀吉は茶々を慰労し、それから侍女や護衛役にそれとなく聴き取りをしたようだ。

「……ふむ。どうやら、ほんとうらしい」

 いかに天下の美女とはいえ、天下人の愛人である。無理矢理など、もってのほかであるし、合意の上にしても、それならそれで、侍女たちの目まで掻い潜れることなど、まずないだろう。

「では、豊臣の胤は、茶々となら子をすのか。それなら……」

 そこでふと、秀吉は思いついたことがあるが、茶々の子──すてが生まれたことにより忙殺され、それについて考えることは、しばらく、無かった。



「……死んだか。さもありなん」

 棄は二歳と少しで亡くなった。

 生まれた時から体が弱く、こうなることは、秀吉にとっては予想できたことだった。

「やはり、わしのたねではか」

 

 これではだ。

 ……秀吉は、父親というより、天下人である方が、やはり強いのであろう。

「さて、どうするか」

 その頃になると秀吉は、棄の出生の際に思いついたことを、実証に移し始めていた。

「茶々の妹、ごう。この江を、わが姉(「とも」という女性、のちの瑞龍院日秀)の子、秀勝に嫁がせてみよう」

 江自身は厭がっていたが、言うことを聞かないと、茶々や初(江の次姉)の命を取ると脅すと、悄然として嫁いだ。

 二人の間に子ができた。

 豊臣完子である。

「でかした」

 秀勝自身は文禄の役で病没してしまったが、秀吉にとっては──彼の抱きつつある「策」にとって、瑕瑾かきんにもならなかった。

「……ではひとつ、しかけるかのう」

 秀吉は、甥の秀次を呼んだ。

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