17 ふたたび、京

 方広寺鍾銘事件で揺れる豊臣家。

 徳川家もまた、揺れる。

 ただしその揺れは、馬が蹄で地をこする仕草にも似ていた。

 ――さあ、走り出すぞという仕草に。


「……結局、文英清韓どのは、『家』と『康』が離れているのは、家康どのを呪っているわけではなく、むしろとして、家康どのを尊崇している、と言われたそうだ」

 京。

 九条邸。

 夏の京の暑さに、涼を取るため、風鈴を軒先に下げている。

 といっても、この時代の風鈴は硝子製ではなく、金属製のもので、最初は魔除けの「風鐸」というものだったが、法然が「風鈴ふうれい」と名付けて愛して、そして広まっていたものである。

「そうですか」

 完子さだこは風鈴の音に耳を傾けながら、茶を置いた。

 忠栄ただひではその茶を手に取りながら、つづきを話した。

「徳川家は、五山ござんに確認を取ったが、五山は、『名乗りを離して』記したことは誤りではあるが、呪いとまでは言えない――と」

 五山、すなわち、東福寺、天龍寺、南禅寺、相国寺、建仁寺である(少なくとも、この事件の答申をした寺院はこの五つ)。

 この時の五山は、家康のいみなを離すのは誤りであるとして、徳川家の主張に対して一定の同調を示した。が、だからといって、呪うという積極的な悪意とはとらえられないとした。

 そこに、五山としての政治的な立ち位置や、あるいは何者かに対する遠慮があるのかもしれないが。

「どちらにせよ、徳川家は豊臣家を追い詰めるつもりだと思う」

「……せっかく、四辻与津子の件で、豊臣家は『かかわりがない』と言質を取ったのにですか」

「そうだ」

「…………」

 完子は小野お通の邸での、茶々との対面の内容について、早速に実母・ごうに対して、ふみを送っていた。

 結果、江からは「茶々どのとの話、その様子を伝えてくれて、秀忠どのはいたく喜んでいる」旨の返書は来たが、それきりであった。

 便りが無いのはよい便りであろうと、忠栄は完子を慰めもしたが、それにしても、この流れ――方広寺鍾銘事件――は、無いと思う。

 たとえ、家康の独断によるものだとしても、それを伝えてくれても良いと思う。

 さて、実際にはこの書状は、江が、秀忠の茶々に対する反応を推し量るための試金石とされた。

 江としてはそれで秀忠の執着の相手が茶々と判定できたため、以降、茶々を救う方向へと動くことはなく、当然ながら、完子への返事をすることもなかった。

わたくしが何もしなくとも」


 ──それはまるで、おのが娘といえども、邪魔になるなら不要と言いたげな、ひとりごとだった。



「事ここに至っては、ぜひもなし。やはり、秀頼ぎみに会おう」

 なぜ秀頼が乱行に走ったのかは、まだわからない。

 わからないが、もう止めておかないと、今、片桐且元らが方広寺鍾銘事件の「解決」に奔走していることが、無駄になる。

「乱行の理由について、おぼろげながら、見えて来ている。問題は──それをどう秀頼ぎみに認めさせるかだ」

 そう、忠栄には、自邸における「謹慎」期間において、完子の話、高台院の書状、四辻与津子との邂逅、そして小野お通の邸における完子と茶々の会談のことを考え、考え、考え尽くして、そしてこの方広寺鍾銘事件という事件が出来しゅったいしたことと、見えて来るものがあった。

「結局のところ、秀頼ぎみが猫の死で思い出すのは乳母の死。そして乳母の死により、乳母自身それ自体に囚われていた……囚われ過ぎていた」

 ことは、もっと単純であり、そのような、乳母の出自やら失われたはずの子の行方を「調べて」わかることではないのだ。

 秀頼は、豊臣家内では実権を持っていない。

 実権を握るのは、茶々であり治長であり、そして片桐且元である。

 その秀頼が人を使って調べるというのは、到底できそうもない。

 できることは。

「そう……乳母の死の直前だ。あの、完子の嫁入りの前夜に、豊臣家の内々の宴。あの時、何があったのか、だ」

 それを思い出し、何事かに思い至って。

 秀頼は狂った。



「完子」

「何でしょうか」

「もう一度……もう一度、あの時の、乳母どのが亡くなるあの夜の、そなたの嫁入り前の、あの豊臣家の面々との内々の宴……あれを思い出してくれぬか」

「は、はい」

 あの夜。

 完子の乳母は、完子の九条家嫁入りを前にした夜の、宴の場にいた。

 その宴は、完子が豊臣の子でなくなり、九条家の正室になるため、その別れを――名残を惜しんで、催されたもの。

 そのため、内々、つまり完子、茶々、秀頼、千姫、それに乳母という、ごく限られた、近しい者たちだけで、酒食を共にしようという宴だった。

 その場において、まず、酒が出されて、皆の気持ちがほぐれて来て……感極まったのか、乳母は言った。

 ――いろいろありましたが、これでようやく報われたように思います。

と。

「そこからだ」

 忠栄は、その夜の話を、完子から何度も聞いた。

 最初はわからなかったが、そこから、何らかの違和感を感じた。

 その違和感はやがて大きくなり、正体こそわからなかったものの、そこからの、「ある人物の反応」こそが、その引っかかりを生んだ――ということに気がついた。

「そこからだ、完子……そこから、?」

「な、なぜって」

 完子は周章する。

 たしかに、あの宴の場、茶々は黙りこくってしまった。

 千姫が語りかけても、無反応だった。

 無表情だった。

「それは……」

 乳母が何か、しゃべったからだ。

 乳母は、何と言った。

 それは。

 ――それに……いま改めて見ましても、秀頼どのの、まこと見事な男ぶり。これは……お父上の、関白さまを見ているようでございます。

 と。

「そうだ」

 忠栄は、今まで完子から聞かされた話と一致するとうべなった。

「それが、何か」

 完子は不得要領だった。

 今の台詞の何が、茶々をして黙ってしまうことがあったのだろう。

 それに、茶々自身も言ったではないか、そうですね太閤殿下に似ていますね、と。

「……あっ」

「そう」

 それこそが、茶々が黙りこくった理由。

 乳母は何故、秀頼の父を関白と言った。

 それはもしかしたら、言い間違いかもしれない。

 でも、忠栄のいう「ある人物」――茶々は、黙りこくってしまったのだ。

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