17 ふたたび、京
方広寺鍾銘事件で揺れる豊臣家。
徳川家もまた、揺れる。
ただしその揺れは、馬が蹄で地をこする仕草にも似ていた。
――さあ、走り出すぞという仕草に。
「……結局、文英清韓どのは、『家』と『康』が離れているのは、家康どのを呪っているわけではなく、むしろかくし題として、家康どのを尊崇している、と言われたそうだ」
京。
九条邸。
夏の京の暑さに、涼を取るため、風鈴を軒先に下げている。
といっても、この時代の風鈴は硝子製ではなく、金属製のもので、最初は魔除けの「風鐸」というものだったが、法然が「
「そうですか」
「徳川家は、
五山、すなわち、東福寺、天龍寺、南禅寺、相国寺、建仁寺である(少なくとも、この事件の答申をした寺院はこの五つ)。
この時の五山は、家康の
そこに、五山としての政治的な立ち位置や、あるいは何者かに対する遠慮があるのかもしれないが。
「どちらにせよ、徳川家は豊臣家を追い詰めるつもりだと思う」
「……せっかく、四辻与津子の件で、豊臣家は『かかわりがない』と言質を取ったのにですか」
「そうだ」
「…………」
完子は小野お通の邸での、茶々との対面の内容について、早速に実母・
結果、江からは「茶々どのとの話、その様子を伝えてくれて、秀忠どのはいたく喜んでいる」旨の返書は来たが、それきりであった。
便りが無いのはよい便りであろうと、忠栄は完子を慰めもしたが、それにしても、この流れ――方広寺鍾銘事件――は、無いと思う。
たとえ、家康の独断によるものだとしても、それを伝えてくれても良いと思う。
さて、実際にはこの書状は、江が、秀忠の茶々に対する反応を推し量るための試金石とされた。
江としてはそれで秀忠の執着の相手が茶々と判定できたため、以降、茶々を救う方向へと動くことはなく、当然ながら、完子への返事をすることもなかった。
「あの娘は、もはや姉上の娘。
──それはまるで、おのが娘といえども、邪魔になるなら不要と言いたげな、ひとりごとだった。
*
「事ここに至っては、ぜひもなし。やはり、秀頼
なぜ秀頼が乱行に走ったのかは、まだわからない。
わからないが、もう止めておかないと、今、片桐且元らが方広寺鍾銘事件の「解決」に奔走していることが、無駄になる。
「乱行の理由について、おぼろげながら、見えて来ている。問題は──それをどう秀頼
そう、忠栄には、自邸における「謹慎」期間において、完子の話、高台院の書状、四辻与津子との邂逅、そして小野お通の邸における完子と茶々の会談のことを考え、考え、考え尽くして、そしてこの方広寺鍾銘事件という事件が
「結局のところ、秀頼
ことは、もっと単純であり、そのような、乳母の出自やら失われたはずの子の行方を「調べて」わかることではないのだ。
秀頼は、豊臣家内では実権を持っていない。
実権を握るのは、茶々であり治長であり、そして片桐且元である。
その秀頼が人を使って調べるというのは、到底できそうもない。
できることは。
「そう……乳母の死の直前だ。あの、完子の嫁入りの前夜に、豊臣家の内々の宴。あの時、何があったのか、だ」
それを思い出し、何事かに思い至って。
秀頼は狂った。
*
「完子」
「何でしょうか」
「もう一度……もう一度、あの時の、乳母どのが亡くなるあの夜の、そなたの嫁入り前の、あの豊臣家の面々との内々の宴……あれを思い出してくれぬか」
「は、はい」
あの夜。
完子の乳母は、完子の九条家嫁入りを前にした夜の、宴の場にいた。
その宴は、完子が豊臣の子でなくなり、九条家の正室になるため、その別れを――名残を惜しんで、催されたもの。
そのため、内々、つまり完子、茶々、秀頼、千姫、それに乳母という、ごく限られた、近しい者たちだけで、酒食を共にしようという宴だった。
その場において、まず、酒が出されて、皆の気持ちがほぐれて来て……感極まったのか、乳母は言った。
――いろいろありましたが、これでようやく報われたように思います。
と。
「そこからだ」
忠栄は、その夜の話を、完子から何度も聞いた。
最初はわからなかったが、そこから、何らかの違和感を感じた。
その違和感はやがて大きくなり、正体こそわからなかったものの、そこからの、「ある人物の反応」こそが、その引っかかりを生んだ――ということに気がついた。
「そこからだ、完子……そこから、なぜ茶々どのは黙りこくってしまわれたのか?」
「な、なぜって」
完子は周章する。
たしかに、あの宴の場、あの時、そこから茶々は黙りこくってしまった。
千姫が語りかけても、無反応だった。
無表情だった。
「それは……」
乳母が何か、しゃべったからだ。
乳母は、何と言った。
それは。
――それに……いま改めて見ましても、秀頼どのの、まこと見事な男ぶり。これは……お父上の、関白さまを見ているようでございます。
と。
「そうだ」
忠栄は、今まで完子から聞かされた話と一致すると
「それが、何か」
完子は不得要領だった。
今の台詞の何が、茶々をして黙ってしまうことがあったのだろう。
それに、茶々自身も言ったではないか、そうですね太閤殿下に似ていますね、と。
「……あっ」
「そう」
それこそが、茶々が黙りこくった理由。
乳母は何故、秀頼の父を関白と言った。
それはもしかしたら、言い間違いかもしれない。
でも、忠栄のいう「ある人物」――茶々は、黙りこくってしまったのだ。
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