13 大野治長

 大野治長は、不思議な男である。

 母である大蔵卿は、茶々の乳母で、つまりは治長は茶々と乳兄弟だ。

 だがそれ以上の出自は不明で、「茶々と親しい仲」というだけのところを、気がついたら太閤秀吉の馬廻衆となり、やがては関ヶ原以降の衰えゆく豊臣家を支える吏僚であり政治家である。

 慶長十九年のこの段階では、積年の大坂城の「宰相」ともいうべき片桐且元が方広寺鍾銘事件の対応に忙殺され、事態が大坂の陣へ向けて加速していく時期だが、治長はこの時、且元と敵対したとも、しないとも伝えられているが、判然としない。

 ただいずれにせよ、大坂城内の実力者として、特に幼馴染みである茶々の方面を取り仕切る役割を担っていたことは確かである……。



「四辻与津子?」

 治長は家来からの報告で、豊臣完子さだこの嫁ぎ先、京・九条家の忠栄ただひでが四辻与津子なる女性にょしょうと出会い、以後、自邸に引きこもっていることを知らされた。

「……ああ、たしか、帝との女か」

 あたかもそれは、茶々ととささやかれる、自分のようでもあるな、と治長はひとりごちた。

 家来は恐縮したが、治長はそれをさして気に留めなかった。

 自分と茶々が乳兄弟で幼馴染みであることは事実だし、そこから現在に至るまで、茶々と親しいのも事実だ。

 治長はその白皙の顔を曇らせず、冷静に発言する。

「さような女と出会い、徳川に疑われるのを警戒しているのであろう」

 帝は徳川和子まさこの入内を宣旨している。それなのに、与津子との付き合いをやめようとしない。

 この時点で、与津子とそれに連なる者は、徳川から「敵」扱いされること必定である。

「さて、茶々さまにそれを申し上げるかどうか」

 治長は茶々の秘書的な立ち位置にいる。能書家であり、茶人としても秀で──そして誰よりも冷静な彼は、茶々の代理人として、対外的な折衝にあたっている。

 だからこうして、外から入って来る情報を吟味し、取捨選択を担っている。

「……いや、何かあらば、完子さだこさまよりふみが来よう」

 それであるのに、余計な差し出口をして、完子の書状に「弁解状」という設定を与えるのはよろしくない。

 茶々と完子の仲は、実の親子以上に強い。それを乱すような真似は、うまくない。

 家来はそれならと、完子宛てに徳川将軍御台所・ごうからの文が届けられていることを報告した。

「江さま、か……」

 茶々の妹。

 それでいて、今や天下人の妻。

 かつての天下人の妻たる茶々とは、微妙な関係にある……とは、江の側での認識であり、茶々の方は特に何の隔意もなく、遠くにいる妹、という認識である。

「しかし、これもまた完子さまから何かなくば、言わない方が……」

 そこまで言ったところで、別の家来が──米倉権右衛門という家来が、治長の執務の間に飛び込んできた。

「と、殿! 殿!」

「いかがした、権右衛門」

 治長が全幅の信頼を置く家来である権右衛門が、血相を変えて飛び込んでくる。

 それだけで、治長は事態を悟る。

 そして、

「権右衛門、秀頼ぎみは、今度は何を」

 最近の豊臣秀頼の乱行は、目に余る。

 治長は、これはと思って権右衛門を秀頼付きにしたが、それが秀頼から離れて、自ら注進に来るという時点で、もう大事おおごとである。

「罪人では斬ってもつまらない。何というか、と仰せで、大坂の町へ」

「……そうか」

 治長は立ち上がった。

 大坂の町中でまで、人斬りまがいの真似をするとは。

 大坂の町衆にそっぽを向かれたら、それこそ、豊臣はもう終わりだ。

「……秀頼ぎみにおかせられては、豊臣の子としての自覚が足らぬようだのう」

 能面めいた顔をした治長は、やはり能面のように無表情のまま、城外へ向かった。



 京。

 九条邸。

「……もう、頃合いか」

 九条忠栄は、四辻与津子と出会ったあと、自邸に引きこもっていた。

 何せ与津子は帝の寵姫である。

 下手に接触したら、江戸幕府の不興をこうむる。

 幕府は、徳川和子まさこ入内じゅだいを実現しようと躍起になっており、その折りに、と出会って話をしたとあっては、何事かと勘繰るだろう。

「……下手をすると、豊家(豊臣家のこと)とのつながりから、あらぬ疑いを持たれるかもしれなかった」

 だが、どうやらその線は無いようであった。

 何せ、他ならぬ征夷大将軍の御台所、つまり完子の実母・江からの書状が届いたのだから。

「……御台所さまは、憂慮しておいでです」

 完子は、実母ではあるが、遠慮して「御台所」と江のことを言う。

「この折りに、九条家の当主が、四辻与津子と会うのを」 

「別に、会いたくて会ったわけではないのだがな」

 忠栄は苦笑する。

 だが、これで幕府の見解が知れた。「憂慮」しているというのは、九条が反幕府のの四辻与津子に近づくなということで、換言すれば、つまりは九条は幕府のにあるということなのだろう。

「……となると、あとは豊臣の方が、四辻との接触をどう思っているかだが」

「それについても、御台所さまから、お言葉が」

「ほう」

 さすがに茶々どのの妹だ。聡い。

 素直に感心する忠栄だが、その忠栄の前で、完子が戸惑っている。

 何か、と聞くと完子は「いえ」と言うばかりなので、とにかく言うてみよとうながす。

 すると、忠栄の度肝を抜く言葉が、完子の口を借りて、炸裂した。

「豊臣家が、もしこの四辻の話にからんでいるのかと、御台所としても、つまり将軍も気になるところである。そこで、九条の方より、四辻と豊臣は関わりのないこと、豊家の方よりお言葉をいただいて欲しい──とのことです」

「なっ」

 何だと──と叫びたかった。

 でも、できなかった。

 完子の方が、より大きい衝撃を受けている。

 何しろ、その豊家の当主たる豊臣秀頼が、四辻与津子のはらさばくなどと発言しているのだ。

 そしてそれは、秀頼の正室たる千姫──江の娘、完子の妹──も知るところであるが、今のところ、千姫ひとりだけが知り、たとえば侍女までは知られていないが、これはまずい。

「九条の当主たる私が行くと、当然、豊臣の当主たる秀頼ぎみ。そこで──その場で」

 四辻与津子のはらさばく。

「……などと放言されては困る。何者にも隠しようがなくなる。あからさまになる」

 秀頼の乱行が。

 そうなれば、たとえ江にそのつもりが無くても、将軍・秀忠の耳に入り、大御所・家康がそれを知ると──。

「終わりだ。、秀頼ぎみ切腹すべしと言い出しかねない」

 そしてそのような乱行をす豊臣の子に対して、誰も味方しようと思わないだろう。

 してや、徳川に対して、条件付きの降伏や助命なりを願う者など。

「……いや待て」

 ここまで考えて、忠栄は、もし何者かが豊臣家を滅ぼそうとするのなら、これほど狡猾な罠は無いと思った。

「誰だ、そいつは」

 罠を張った奴は誰なんだ。

 秀頼に乱行するように仕向けた奴は。

 それがわかれば、逆説的に、この一連の──猫の死、すなわち完子の乳母めのとの死から始まる、秀頼のの理由がわかる。

「もしや──大野修理」

 かの者は、茶々と昵懇じっこんと聞く。

 それゆえ、秀頼の父ではないかという噂があるぐらいだ。

 その大野修理治長が、秀頼にあることないこと吹き込んで──。

「よもや豊臣家をほろぼし、そして茶々どのをつもりで……」

「忠栄さま」

 完子の発言に、忠栄ははっとわれに帰った。

 思考の暴走が過ぎます。

 そんな「忠栄さま」だった。

 そして、それだけではない。

「……すまぬ」

「いえ、それより」

 完子は決然たる表情で言葉をつづけた。

「こうなってはわたしが、養母上ははうえに会いに行きます」

 その上で、四辻与津子のことや江戸のことを話しましょうと言った。

 むろん、この際秀頼に会うのは避けたいので、何とか茶々とだけ会うようにするつもりである、と。

 そして。

「ここは――大野修理に頼ってみましょう。何、養母上ははうえに会いたいと書を出せば、うまく、計らってくれるでしょう……そんな顔をしないでくださいまし。大丈夫です、修理が何を企んでいるにせよ、わたしの書に、何のいらえも無い方が、大問題です」

 ああ、この女性ひとも、織田信長の妹・市の系譜だったなと思える、それは眩しい笑顔だった。

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