12 江戸

 江戸。

 この、徳川幕府の首府である新しい都市では、やはり新たな将軍である徳川秀忠が、日ノ本すべてを手中に収めるべく、日夜、兵に民にと力を注ぎ、来たるべき「決戦」に備えていた。

「大坂の情勢はどうか」

 その日、朝から始まった幕閣の会議は夜まで及び、秀忠が御台所・ごうの寝所に来たのは、かなり遅くのことであった。

「疲れた」

 秀忠は体を投げ出すように布団に横たわった。

 こうなると秀忠は、もう泥のように眠ってしまい、江としてはがない。

「…………」

 仕方のないことだと思うが、江は憤懣やるかたない。

 浮気など疑ったこともある。

 が、そもそも、この秀忠という男は、最初から江のことを愛しているのだろうか――そう考えたこともある。

 むろん、千姫や竹千代(家光)、国千代(忠長)といった子をなしてきて、はして来たし、秀忠も、最初の頃は江に興奮し、夢中だったこともある。それは密かな江の自慢ではあるが、だからこそ今の淡泊な対応が、より冷ややかに思えるのである。

「そうだ」

 だがこの夜、珍しいことに秀忠は起き上がり、江に話があると言った。

 江は裏で期待しながら、秀忠の言葉に耳を傾けた。

「そなたの最初の子……完子さだこだったか、その連れ合いの九条の忠栄ただひでどの、いろいろと大変なようだの」

「完子」

 懐かしい名だった。

 たしか、最初に産んだ子だった。

 父親は……今となっては思い出せない。思い出したくない。

 それはもう死んでしまった男だ。

 思い出しても詮方ない。

「そなた、というか、そなたの姉の茶々どのによう似て……うつくしいと聞くが、まあそれはいい、それより忠栄どののことじゃ」

 何故、自分ではなく姉の茶々なのか。しかも、陶然とした表情で語らないで欲しい。

 姉の美貌は、江にとって引け目だった。

 どちらかというと長身で美女である茶々に比して、江は小柄で華奢で、控えめな方だ。

「で、忠栄どのがの、四辻与津子なる、これまた別嬪べっぴんの美女にうたらしい」

 それが本題か。

 四辻なる女性にょしょうの話は聞いている。

 娘の和子まさこ入内じゅだいの、障害となっている女だ。

 その女が、完子の夫、忠栄と接触した。

 これは由々しき事態で、ともすると、朝廷、公家と豊臣家が結託して、徳川家への反抗を目論んでいると受け止められかねない。

「忠栄どのは以来、邸に引きこもっておる。徳川に敵対の意志なし、と言いたいらしいようじゃのう」

「完子に聞いた方がよろしいですか」

 回りくどい言い方をしているが、結局はそれだろう。

 幕府として、京都所司代を通じて聞いてしまうと、角が立つ。

 ゆえに、私的なつながりをもって、それとなくうかがおうという腹だ。

 姑息なやり方だ。

 江はそう思う。

「頼む」

「……わかりました」

 答えるまでのを考えるそぶりもなく、秀忠は寝入ってしまった。

 この男は、いったい、どうしたいんだろう。

「…………」

 とにもかくにも、完子にふみを書かねばならぬ。

 江は文机に向かった。

 完子。

 この徳川家に嫁ぐにあたり、生んで早々に別れを告げた子。

 会ったことはなく、もはや、母と子ではなく、親戚か何かのような関係である。

 姉の茶々に可愛がられ、ならんでいるその姿は、「まさに親子」と言われるまでと聞く。

「茶々どの」

 突然のその言葉に、思わず江は振り向く。

 その言葉は、布団の中から聞こえた。

 どうやら、秀忠の寝言らしい。

「大坂にいた頃を、思い出しておいでか」

 秀忠はかつて、家康が秀吉に臣従した頃、人質に出されていた。

 まだ少年だった秀忠は、そこで茶々や江に初めて会った。

 その時はまだ、子ども同士であり、秀忠も「田舎の出」ということで、ちらちらと遠慮深く、それでいて時折食い入るようにこちらを見ていた記憶がある。

 姉の茶々などは、そういう風に見られることに慣れているらしく、「放っておきなさい」と言い、そのうち、秀吉のお呼びがかかって、秀忠は連れられて行った。

 それから大坂城中であまり会うことはなかったが、たまに茶々が「会った」と言っていたが、うつくしい彼女には、誰もが会いに来たがっていたので、そういうことだろうと江は思った。

「それが今や、天下の御台所は姉上ではなく、このわたくし

 それもまた、江の密かな誇りである。

 茶々は秀吉という天下人に抱かれ、なおかつ、高台院から正室の座を譲られた。

 元より、長幼の序というものがあり、それを超えて──姉を超えるなど不可能、と思い込んでいたが、今や、時代が変わった。

 江は、運というものがあるのなら、それは自分に味方していると思った。

 今は倦怠しているが、秀忠も最初はおのれに夢中だった。

 徳川という新たな勢力の、それも事実上の初代君主──将軍がだ。

 家康は尊敬しているが、所詮、田舎侍の気風が抜けない。

「そして、わたくしこそが、その将軍・秀忠の御台所であり、つまり女の頂点に立つのは──」

「茶々どの」

 また寝言か。

 江は歯をいて布団の方を睨んだ。

 何だというんだ。

 秀忠あなたの妻は、このわたくしではないか。

 なのに、なぜ。

「寝言で言うは、姉上なのか」

 その時、ふと──江に魔が差した。

 深夜という時間、孤閨をかこつ状況、それらが、江に魔を差す。

「もしや……」

 秀忠が愛している相手とは、茶々ではないだろうか。

 そういえば、嫁いですぐのあたりは盛んだったが、あれは──江に、茶々を重ねていたのではないだろうか。

 江の体に、茶々の体を。

「……うっ」

 想像すると、吐き気を催して来た。

 そういえば、完子のことを言い出して来たのも、完子が茶々の養女であり、ともすれば茶々とのやり取りが生じるからではないのか。

「……ぐっ」

 気持ち悪い。

 気色悪い。

 文机に突っ伏す江。

 秀忠に起き上がる気配はない。

 侍女たちも、この時間はと遠ざけている。

「…………」

 この想像は、単なる想像だ。

 何の確証もない。

 だが、自分は御台所だ。

 知ろうと思えば、何でも知ることができる。

 それが夫のこととなれば、なおのこと。

たれかある」

 江は立ち上がった。

 手にはふみが。

 今は、完子だ。

 完子に、いろいろと聞いてみよう──茶々のことを。

 そしてその話題を振って、秀忠の反応を見る。

「……ふっ」

 近江の覇者・浅井長政の血か、戦国の覇王・織田信長の血か。

 江は今、目を爛々と輝かせて、眠る秀忠を見た。

「……いずれ」

 その心中、見定めてやる。

 かならず。


 ……こうして江は狂った。静かに。

 そしてその狂いは、やがて大坂に揺動をもたらすことになる……。

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