11 四辻与津子(よつつじよつこ)

 その女は――後世、およつ御寮人の名で知られている。

 他には、帝をたぶらかした悪女であり、 色事師・猪熊教利いのくまのりとしの妹(教利は美男で、数多くの宮中の女と情を結んだことで有名)であると言われている。

 ちなみにその教利は、複数の貴族と女官らによる乱交事件を引き起こしたことにより処刑され(猪熊事件)、妹の彼女もなるのではないか、と囁かれている。

 そんな彼女だが、忠栄ただひでが輿の御簾を上げると、

「やれ嬉しや――わたくしも、香炉峰の雪になれましたわ」

 と、歌うように天真爛漫に微笑む女が見えた。

 先ほどまでの蠱惑的な印象が覆るようにも思える。

 しかも「香炉峰の雪」という言葉から、彼女の教養がうかがえた(「枕草子」に、中宮定子が白居易の漢詩の一句「香炉峰の雪は簾をかかげてる」にかけた発言をして、清少納言がそれを察して御簾を上げたエピソードがある)。

「単刀直入に申し上げます」

 与津子はおもむろにおのれの腹を撫でた。

 そのゆっくりとした所作に、また色香があふれていた。

わたくしのお腹に」

 その腹部が、ゆっくりとへこみ、そして手が離れると、へこみが戻る。そのうねりに、誰もが息を呑んだ。

嬰児ややは――おりませぬ」

 ではこれにて、と与津子は一礼して、さっさと消えていった。



 忠栄は帰宅後、即、完子さだこの部屋に向かった。

 先ほどの邂逅について、何よりも誰よりも完子に話す必要があると思ったからだ。

 完子は高台院との話が聞けるかと思いきや、突然の四辻与津子の話に、面食らったようだ。

「何故、いきなり」

「かの女人にょにんは、帝とねんごろと聞く。おそらく……帝から聞いたのであろう、秀頼ぎみのことを」

 帝は、徳川和子の入内を宣旨したというのに、与津子との情交にふけり、子までしたといううわさがある。

 それを聞いた秀頼が、与津子の腹を斬って、嬰児ややがいるか確かめてくれるとうそぶいたらしい。

「……それをおもんぱかったかの女人は、『そうではない』と私に言いにきたわけだ。あのようなやり方で」

「……なぜゆえに、忠栄さまが輿で帰る途中に、単身あらわれるというやり方を?」

 完子は首を傾げる。

 戦国の覇王・織田信長の妹、市。

 その美貌は傾国傾城を以て知られたが、それを完子は引き継いでいる。

 その完子が首を傾げるさまは、とてもうつくしい。

 けして与津子に引けを取るものではない。

 そう忠栄は思っているが、それを口にするのは憚られた。

「……へたにどこぞで逢う、としたら、私とかの女人がなさぬ仲と疑われよう。それを警戒したのだ」

「……へ?」

 常ににこやかに笑みをたやさぬ優雅な完子が、そのような声を出すとは。

 忠栄はほくそ笑んだが、ここは一気に行かせてもらった方が良い。

「京の市中で、突然、それも輿舁こしかきもいる時に、要件のみを伝える。それによって、私とかの女人が逢引きしたと思われぬようにした」

 不得要領な様子だった完子が、そこまで聞いて、「あっ」と声を上げた。

 同時に、いたくじ入った表情になって、頬を両手で覆った。

 それは、忠栄にはたまらないものをあったが、ぐっと堪えた。

「……さらに、そういう『要件のみ』伝えることによって、私がは言及しないで済ませた。つまり」

「……つまり、かの女人──およつご寮人は、わたしたちが何を調べているか、知っているわけですね」

 さすがに、聡い。

 忠栄は素直に、そう思った。

「そう……知っているのはつまり、恐れ多くも帝からであろう」

「そうですね……」

 隠密で動いていたが、どうしたってこの京においては、京雀の目につく。

 さらに、蜘蛛の巣のような公家社会がある。

 誰が、何処で、何をした……というのは、あっという間に広まる。囁かれる。伝えられる。

「……で、それを知った帝が、釘を刺しに……と」

 このようなかたちを取ったのは、文字通り与津子の身をおもんぱかったためだろう。

 大坂と京は近い。

 その大坂の主が、京の主の寵姫の腹を割くだの何だの言われては、たまったものではない。

「……まあ、そういう乱行をやめさせるために私たちは動いているのだから、陰ながらの助け、と思うておいて、間違いあるまい」

「ですね」

 そこで忠栄と完子は脱力した。

 ここまでの自分たちの労力、今しがたの緊張、そういうものがどっと来たのだ。

「……いろいろあったが、得るものはあった。今日はもう寝よう」

 ここまで来れば、出るものは出尽くした。

 あとは、そろった材料を元に、考えるのみ。

 ──だが、その思いは、翌日裏切られることになる。



「……何? 高台院さまのふみ?」

 翌朝、寝所から出た忠栄は、家令から差し出された書状に目を通す。

 内容は簡潔だ。

 やはり乳母は秀頼の母では無かった。ただし、気になることがある、と。

「何々……死んだとされる、乳母の産んだ子は生きている? それは……それは……」

 四辻与津子。

 その五文字に、惹きつけられる忠栄。

 そしてそのつづきを食い入るように読んだ。

「乳母は秀次のとなり子を産んだ。けれども、秀次のこうむったのか、子を手離す羽目となり……」

 亡くなったということにした。

 手離した先の、四辻家の意向だという。

「まあ確かに、下手に関白の子――豊臣の子など、養女にしたくないであろう」

 だが、問題はそこではない。

 与津子はの子。

 そして、与津子は帝の寵愛を受けている。

 その帝は、和子まさこ入内じゅだいを宣旨しているのだ。

「……これは難しいことになった」

 ここにも豊臣と徳川の対立の構図が。

 与津子自身は、それを知っているのか、いないのか。

 知っていて、忠栄と逢ったのか。

 だとすると、高台院の調べが呼び水になったのか。

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