10 秀次悪逆
そも、
おそらく、そこに鍵がある。
秀頼の今の乱行にかかわる、鍵が。
「もう一度完子に聞いてみるか……」
もはや日はとっぷりと暮れて、
高台寺に来た時はまだ
「暗くなってきた。だが、急ぐ必要はない。足元に気をつけてくれ」
忠栄は再び物思いに沈む。
完子に聞くのはいいが、こうして輿に揺られている間にも、考えることはできる。
むしろ、このような時に考えをまとめた方が、完子に問う時、より円滑に進むやもしれぬ。
「完子の乳母。元は、関白──豊臣秀次の侍女だったという」
その前の、秀次に仕える前の来歴は知られていない。
おそらく、本人しか知り得ないことであり、もしそれを知る乳母以外の者といえば、それは秀次しかいないだろう。
「もしかしたら、その来歴がかかわっているかもしれないが」
思わず忠栄はひとりごちる。
思考が走り出している証拠だった。
「……かかわっているかもしれないが、この際、
今、問題になっているのは「豊臣秀頼と乳母のかかわり」であって、秀次に仕えていた頃より前のことは、考えても仕方がない。
そもそも、秀頼当人は乳母の前身自体を知らないはず。
だから今はとりあえず、それは捨象して考える。
「であれば、関白秀次に仕えていたことは、逆に視野に入れていい」
思考が整理されてきた。
しかし、関白秀次となると、これはまた難問だった。
何しろ、秀次は豊臣家への悪逆を
その証拠が。
「あれは……たしか、
京の豪商、角倉了以。
朱印船貿易で財を成したことで有名だが、同時に水運開発でも有名で、大堰川と高瀬川の開削に私財を投じ、それは現代の相場で見積もると、百五十億円といわれている。
了以の凄まじいところは、そこまでかけた開削作業の経費を、その後の川の通行料の収入で補填するどころか、かなりの上回る収入を得るところだった。
さて、その了以が、鴨川の改修をしている時だった。
「何や、これ」
了以が作業中に発見した、石の板。
それには、「秀次悪逆」と彫られていた。
了以がその伝手で調べると、どうやらこれは、関白秀次の妻妾、子女らあわせて三十九名が斬首された時に、その死体を埋めた穴のふたとして、秀次の首を入れた石櫃を置いた。
どうやら「秀次悪逆」の石の板は、その石櫃のふたらしい。
了以はそれを知ると、寺を建てて供養し、悪逆の二文字を削って、供養塔としたという。
「とにかく、そこまで関白秀次当人だけでなく、その係累までも含めて三十九人……」
忠栄は怖気を震った。
尋常ではない。
並大抵の人間には、できることではない。
「いくら『悪逆』を為したとはいえ、そのような……」
まるで、この世から、妻や子まで含めてその存在を抹消するような。
そういう、念の入りようが忠栄には不気味だった。
「……いや」
忠栄は頭を振る。
今は、その秀次に仕えた侍女──完子の乳母の問題だ。
秀次の存在が抹消されたことに深くとらわれてはいけない。
「乳母どのは侍女として、関白秀次の家で、どういう立ち位置だったのか? たしか、一度子が生まれて、その子が亡くなって……そこから完子の乳母になったというが、とすると関白秀次の臣の誰かの妻女だったのか……」
それだったら誰か生き残りがいるかもしれない。
そもそも、秀次の子どもも、あまりにも幼い子の一人か二人、生き延びたという。
「……そのあたりから探ってみるか」
そこまで言ったところだった。
輿が止まった。
「何だ」
九条邸に着くには早すぎる。
ましてや、今は薄暗闇の中、ゆっくり行くように言ってある。
「御前」
輿舁きの長の声がかかる。
「……女が立ってます」
「……女?」
輿舁きの長は、長年九条家に仕えた男だ。
滅多なことでは九条の輿を止めない。
その男が止めたということは。
「……何か、尋常ならざる相手。それがいる、ということか」
忠栄は御簾越しに向こうを見た。
前方──。
確かに女が立っている。
女だが、若い。肉感的な体をしていて、それでいて、若く見える──少女といってもいいくらいに。
女の紅唇が開く。
「九条さまとお見受けします」
「いかにもそうだが、貴女は?」
女は嫋やかに一礼する。
単に一礼しただけだが、その所作が――蠢きが、あまりにも肉感的で──蠱惑的な所作で、一番年若の輿舁きは、ごくりと唾を呑んだ。
それを女は「ほほ」と嫣然と笑ってやり過ごし、しゃなりしゃなりと、輿ににじり寄って来る。
「ま、待て」
輿舁きの長は──護衛を兼ねているが──動揺しながらも、女を制止しようとする。
それでも女は進む。
輿の前まで。
そしてまた、一礼する。
この時点で、輿舁きは腰砕けだ。
何というか、女の発する色気に
それでも忠栄は自我を保った。
威儀を正した。
再度――
「──お初にお目にかかります。
「もしや」
「そう──」
与津子はここで顔を上げた。そしてにっこりと微笑んだ。
先ほどとは別の、天真爛漫な笑顔。
これには忠栄も、妻の完子がいなければ、いかれたのかもしれぬと思った。
「女房名、およつ。人は
およつご寮人、あるいは四辻与津子。
のちに、およつご寮人事件という、後水尾天皇の徳川和子入内をめぐる大事件で知られる美女である。
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