10 秀次悪逆

 そも、完子さだこ乳母めのととは何者なのか。

 おそらく、そこに鍵がある。

 秀頼の今の乱行にかかわる、鍵が。

「もう一度完子に聞いてみるか……」

 忠栄ただひではふと輿こし御簾みすを下から手繰たぐり上げて外を見る。

 もはや日はとっぷりと暮れて、かれどき

 逢魔おうまときともいう時間である。

 高台寺に来た時はまだ昼日中ひるひなかだったが、いつの間にやらこのような時間になってしまった。

「暗くなってきた。だが、急ぐ必要はない。足元に気をつけてくれ」

 輿舁こしかきらが一瞬、輿を止め、忠栄に謝意を告げる。それから、輿がより慎重に、ゆっくりと動く。

 忠栄は再び物思いに沈む。

 完子に聞くのはいいが、こうして輿に揺られている間にも、考えることはできる。

 むしろ、このような時に考えをまとめた方が、完子に問う時、より円滑に進むやもしれぬ。

「完子の乳母。元は、関白──豊臣秀次の侍女だったという」

 その前の、秀次に仕える前の来歴は知られていない。

 おそらく、本人しか知り得ないことであり、もしそれを知る乳母以外の者といえば、それは秀次しかいないだろう。

「もしかしたら、その来歴がかかわっているかもしれないが」

 思わず忠栄はひとりごちる。

 思考が走り出している証拠だった。

「……かかわっているかもしれないが、この際、こう」

 今、問題になっているのは「豊臣秀頼と乳母のかかわり」であって、秀次に仕えていた頃より前のことは、考えても仕方がない。

 そもそも、秀頼当人は乳母の前身自体を知らないはず。

 だから今はとりあえず、それは捨象して考える。

「であれば、関白秀次に仕えていたことは、逆に視野に入れていい」

 思考が整理されてきた。

 しかし、関白秀次となると、これはまた難問だった。

 何しろ、秀次は豊臣家への悪逆をしたとして、切腹させられ、その子女もほとんどが処刑されたという。

 その証拠が。

「あれは……たしか、角倉了以すみのくらりょういだったか」


 京の豪商、角倉了以。

 朱印船貿易で財を成したことで有名だが、同時に水運開発でも有名で、大堰川と高瀬川の開削に私財を投じ、それは現代の相場で見積もると、百五十億円といわれている。

 了以の凄まじいところは、そこまでかけた開削作業の経費を、その後の川の通行料の収入で補填するどころか、かなりの上回る収入を得るところだった。

 さて、その了以が、鴨川の改修をしている時だった。

「何や、これ」

 了以が作業中に発見した、石の板。

 それには、「秀次悪逆」と彫られていた。

 了以がその伝手で調べると、どうやらこれは、関白秀次の妻妾、子女らあわせて三十九名が斬首された時に、その死体を埋めた穴のとして、秀次の首を入れた石櫃を置いた。

 どうやら「秀次悪逆」の石の板は、その石櫃のらしい。

 了以はそれを知ると、寺を建てて供養し、悪逆の二文字を削って、供養塔としたという。


「とにかく、そこまで関白秀次当人だけでなく、その係累までも含めて三十九人……」

 忠栄は怖気を震った。

 尋常ではない。

 並大抵の人間には、できることではない。

「いくら『悪逆』を為したとはいえ、そのような……」

 まるで、この世から、妻や子まで含めてその存在を抹消するような。

 そういう、念の入りようが忠栄には不気味だった。

「……いや」

 忠栄は頭を振る。

 今は、その秀次に仕えた侍女──完子の乳母の問題だ。

 秀次の存在が抹消されたことに深くとらわれてはいけない。

「乳母どのは侍女として、関白秀次の家で、どういう立ち位置だったのか? たしか、一度子が生まれて、その子が亡くなって……そこから完子の乳母になったというが、とすると関白秀次の臣の誰かの妻女だったのか……」

 それだったら誰か生き残りがいるかもしれない。

 そもそも、秀次の子どもも、あまりにも幼い子の一人か二人、生き延びたという。

「……そのあたりから探ってみるか」

 そこまで言ったところだった。

 輿が止まった。

「何だ」

 九条邸に着くには早すぎる。

 ましてや、今は薄暗闇の中、ゆっくり行くように言ってある。

「御前」

 輿舁きの長の声がかかる。

「……女が立ってます」

「……女?」

 輿舁きの長は、長年九条家に仕えた男だ。

 滅多なことでは九条の輿を止めない。

 その男が止めたということは。

「……何か、尋常ならざる相手。それがいる、ということか」

 忠栄は御簾越しに向こうを見た。

 前方──。

 確かに女が立っている。

 女だが、若い。肉感的な体をしていて、それでいて、若く見える──少女といってもいいくらいに。

 女の紅唇が開く。

「九条さまとお見受けします」

「いかにもそうだが、貴女は?」

 女は嫋やかに一礼する。

 単に一礼しただけだが、その所作が――蠢きが、あまりにも肉感的で──蠱惑的な所作で、一番年若の輿舁きは、ごくりと唾を呑んだ。

 それを女は「ほほ」と嫣然と笑ってやり過ごし、しゃなりしゃなりと、輿ににじり寄って来る。

「ま、待て」

 輿舁きの長は──護衛を兼ねているが──動揺しながらも、女を制止しようとする。

 それでも女は進む。

 輿の前まで。

 そしてまた、一礼する。

 この時点で、輿舁きは腰砕けだ。

 何というか、女の発する色気にてられている。

 それでも忠栄は自我を保った。

 威儀を正した。

 再度――誰何すいかを問おうとした時。

「──お初にお目にかかります。わたくし、四辻与津子と申します」

「もしや」

「そう──」

 与津子はここで顔を上げた。そしてにっこりと微笑んだ。

 先ほどとは別の、天真爛漫な笑顔。

 これには忠栄も、妻の完子がいなければ、のかもしれぬと思った。

「女房名、およつ。人はわたくしのことを、およつご寮人と呼びますわ」

 およつご寮人、あるいは四辻与津子。

 のちに、およつご寮人事件という、後水尾天皇の徳川和子入内をめぐる大事件で知られる美女である。

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