09 高台院

 高台院。

 この時代において、高台院湖月心尼と称するに至った、豊臣秀吉の妻、ねねのことである。

 高台院は秀吉の死後、大坂城から出て、京に居を構えた。

 そして秀頼と千姫の婚儀を見届け、落飾し、朝廷から賜った号が高台院である。

 一般に、秀頼の生母・茶々との仲の悪さから大坂城を去ったとされているが、実際は茶々と連携して秀頼を後見しており、京へ移ったことも、秀吉亡きあとの豊臣家の在京代理人としての役割を担っていたと思われる。

 さて、その高台院は京・東山にあり、今、九条忠栄くじょうただひではその門前にいる。

「九条の句(忠栄の一字名)です。お邪魔いたします」

 出てきた侍女に案内されて、入ったところは茶室だった。

 その茶室の奥まったところに。

 ひとりの老女が茶を点てていた。

「高台院にございます」

 茶碗と共に差し出された台詞。

 何でもない、ただの自己紹介のよう。

 けれども、その「自己」の何と重いことか。

 太閤秀吉がまだ駆け出しの頃に、恋い慕われて夫婦になって、幾星霜。

 秀吉が織田信長に付き従い、あるいは軍団の長となって各地へと征くことになって、その留守を守り代理人として務め、「豊臣家」は彼女と秀吉の二人で作り上げたと言われる。

 それを知る者からすると、ただの自己紹介といえども、かなりの重さを伴うのだ。

「……ありがたく頂戴いたします」

 忠栄は茶を受け取り、飲んだ。

 旨い。

 心底そう思える、素晴らしい茶だった。

 それを見て満足したのか、高台院は微笑み、そして言った。

ふみは見ました」

「…………」

 言葉にして発することは不要ということか、あるいは口にするなということか。

「単刀直入に言います。そうかもしれません」

「…………」

 今度の沈黙は、言われてするものではない。

 衝撃のあまり、そうなってしまったものだ。

 豊臣秀頼の母が――実母が、完子さだこ乳母めのと

 その可能性。

 もし、そうであれば――しかも、猫の死によって、十年前の乳母の死が想起され、そしてそれが、自分の実の母と気づいて――。

「断っておきますが、、というだけです」

 高台院は釘を刺す。

 そして語る。

 秀吉は、子ができない。

 これを解消するために、いろいろと女を漁って来たという。

「それにはわたしがもう年齢としで……そういうことができない、乃至ないしはできたとしても、子を産むということが難しいだろう、という判断もあります」

 秀吉は女好きだ。

 そういう口実だったかもしれないが、女の現実を知っており、ねねとそういうことをするのを、やめた。

「茶々さまとの婚姻ことも、豊臣の家の箔付けということで承諾しました」

 秀吉は織田家の下人、あるいは足軽から出世したといわれる。

 その織田家の縁に連なる姫を娶れば、元々の織田家の上司や同僚だった、今の豊臣家の家臣たちに、「上」であると認識を与えることができる。

 また、実際に戦国の覇王であった織田信長の、それも可愛がられていた妹・市の娘だ。他の大名たち――これも今となっては豊臣の臣だが――にも、心理的に優位に立つことができる。

 少なくとも、秀吉はそう考えていた。

「ところが、です」

 何と茶々が懐妊した。

 秀吉としては、することはしていたが、どうせできないだろうと踏んでいた。

 誰ぞの不貞かとも疑ったが、さすがに時の権力者相手に、しかも警備網をかいくぐって、そこまでするような輩はいなかった。

 少なくとも、調べには浮かび上がって来なかった。

「では他の女ならどうか、またひとつ試してみるか、と……秀吉あの人は考えたやもしれませぬ」

 高台院にとっては、それはもはや関知しえない領域。

 織田家という主筋の茶々を秀吉の妻として迎える以上、織田家の臣の出である自分が上に立つわけにはいかぬ。

 高台院は、茶々に正室の座を譲り、隠居という道を選んだ。

「それゆえにこそ、豊臣家の、特に秀吉がねやにおいてどういう動きをしていたのか、知りえません」

 知りえないからこそ。

 「子ができる」と思った秀吉が、身近な存在である――完子の乳母に目をつけたとして、何ら不思議はない。

 何しろ、茶々の最初の子、すて蒲柳ほりゅうたちで、実際、すぐ死んでしまった。

「……であるなら、母親がより丈夫で、それも魅力的な女子おなごであるならば……と、秀吉は考えたことでしょう」



 想像に過ぎない。

 九条忠栄はそう思った。

 だがあの豊臣秀吉がまだ下人、足軽の立場から身を起こし、そこから天下を取るまで、二人三脚で支えてきた、当代随一の賢夫人が言うのだ。

 傾聴には値する。

「されど……」

 忠栄は思わずつぶやいてしまう。

 高台院はさしてそれを咎めもせず、「たしかに、突飛に過ぎますね」と首肯した。

「しかし、その想像が当たっていて、それで──『本当の母の死に気づいて』、秀頼ぎみが荒れているというのであれば、看過できません。そのあたりは、わたしが探りを入れてみましょう」

「かたじけのうござります」

 忠栄としては、感謝しかない。

 これで、ひとつの可能性は明らかにできる。

「ただし」

 高台院が目を鋭くする。

以外に考えられることは、忠栄卿、そなた自身があたっていただきたい……この意味、わかりますか」

「…………」

 忠栄は息を呑んだ。

 高台院は、秀吉と、かの乳母の関係を調べてくれるだろう。だがそれが成功するとは限らないし、「以外に考えられること」まで調べている余裕はない。

 なぜ、余裕がないか。

 それは。

「江戸の……幕府の、徳川家と豊臣家、そこまで……そこまで、

 終わりが。

 決裂が。

 それまでに一刻も早く、秀頼の乱行を改めねば。

 でないと。

「乱行するような当主を抱く豊臣家などに……徳川家は歯牙にもかけないであろう」

 だから高台院は、この突拍子もない話を受け入れ、動くと約束したのだ。

 であれば、忠栄もまた、動くべき。

 高台寺からの帰途、忠栄はつぶやく。

「高台院さまがそこまでいうのなら……以外に考えられることが『ある』ということ……」

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