08 猫の死から想起されるもの

 豊臣完子とよとみさだこの愛猫の死を起点として、完子の義弟、豊臣秀頼は乱行をするようになった。

 完子の夫である九条忠栄くじょうただひでは、これからの天下安寧のために秀頼の乱行を止め、ゆくゆくは豊臣家を一公卿としたい。

 もって徳川家との張り合いをやめさせ、豊臣家の人々に、穏やかな暮らしを送って欲しい。

「猫の死を起点としているわりには、猫のことで歎き怒っているわけでもない。やはり猫から想起される何かか」

 その何かとは。

 実は忠栄には予想がついている。

 だからこそ、小休止を欲しているふりをして、完子を遠ざけた。

「……完子の乳母めのとの死」

 完子を愛し、そして完子も愛してやまなかった、乳飲み子からの世話役──乳母。

 その死は、よりによって完子の、この九条家の嫁入りの前夜の出来事であり、第一発見者は豊臣秀頼その人である。

 そして秀頼が乳母の死を発見するきっかけが。

「……猫の、鳴き声……」

 おそらくは完子の愛猫であることから、当然乳母にも懐き、その乳母の死を歎いているのか、知らせようとしていたのか、猫は鳴いたのであろう。

「……その猫の死。そこから『わかった』といえることとは」

 それは乳母の死についてであろう。

 乳母の死に接した当時の秀頼はまだ十歳。

 もはや戦国の時代ではないし、何よりもその戦国の時代を終わらせた家──豊臣の子である秀頼にとって、人の死は相当の衝撃であり、まともに受け止めることなど、できなかったに相違ない。

「でも、十年った。けみした。その十年の歳月を経て、秀頼ぎみは成長し、大人になられた。それが猫の死を契機として……」

「振り返ってしまったのでしょう」

 沈思していた忠栄がおもてを上げると、そこには茶碗を捧げ持っていた完子がいた。

 どうやら、思考をめぐらすのに夢中になって、妻の入室に気づかなかったらしい。

「お気遣いは不要に願います」

 完子は、おのれもまた豊臣の子であり、その豊臣を滅びから遠ざけ、守るためなら、どんな辛いことにも耐えてみせる覚悟であると告げた。

 忠栄はふうと息を吐いて、余計な気遣いをして悪かったと詫びた。

 そして。

「では遠慮なく問うが、秀頼ぎみは、もしやそなたの乳母を、好いておったのではないか?」

「……どうやらそうであったように思います」

 完子も人の妻となり、性愛の何たるかを知った。

 最初に産んだ男の子も、もう七歳になる。

 を、母として認識しておかないと、逆に子の将来にさわると、わかっている。

 そして今思えば──秀頼の乳母を見る目は、たしかに性愛を意味する目であった。

「乳母は、わたしが言うのも何ですが、かなりの美女。肉置ししおきも良く、いわゆる、男好きのする顔かたちでした」

 元はと言えば、関白豊臣秀次の侍女だったという。秀次は美女を好んではべらせたというから、やはりそういう容姿だった、と考えて間違いはない。

あの子秀頼も、やはり美女好みだった太閤秀吉さまの血を継いでいます。乳母を好いてても、無理はありません」

「──すると、まだ十歳とおだった秀頼ぎみは、乳母どのに惹かれていて、それでその乳母の死が悲しくて……」

 ちがう。

 忠栄はそう思った。

 自分で言っておいて何だが、この線はちがうと思う。

 それほど乳母の死が衝撃であるならば、その死に接した瞬間に感じるべきだ。

 そして、乱行に走るのなら、まさにその時からだろう。

 それが、今、猫の死によって乳母の死を思い起こして乱行に至る、というのは無理がある。

 かといって、まったきにその線が無いとは言わないが、それでも、かなり薄い線であろう。

「むむ……」

 また、話が霧中に消えてしまった感があるが、それでも、一歩前進だと思う。

 猫から乳母への一歩が。

「そうすると、今度は乳母どののことを調べ、考えねば」

 だがここで、今夜は終わりにしようと忠栄は宣言した。

 もう夜遅く、灯火に結構な油を費やしている。

「ここは一度休んで──寝て、頭をすっきりさせよう。そうでないと、ここからの考えがうまくいかない」

 完子は得たりかしこしとうなずき、寝所を整えさせますと言って退室した。

「…………」

 忠栄は完子が退室してから一拍か二拍置いてから、筆を執った。

「今度こそ……完子には言えぬ」

 そう言って忠栄はおもむろにふみを書き始める。

「──という次第にて、秀頼ぎみと乳母どのの『つながり』に鍵があると思われます。ついては、『乳母どのが秀頼ぎみの母ではないか』と……」

 そして文をこう締めくくった。

「……それではこの件につきまして、よろしくお答えください。

 と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る