07 猫

 えーんえん。

 えーんえん。


 ……そのように完子さだこが泣いている時だった。

「これ、完子や、こっち

 養母の茶々の声だった。茶々は完子のことを愛し慈しんでくれたが、いかんせん、豊臣秀吉の「事実上の正室」としての務めがあり、公私共に多忙を極めた。

 そこで茶々は、一計を案じた。

「完子、これをそなたにあげよう」

 にゃあ。

 そういう、柔らかな声と共に、一匹の子猫が、茶々の手の中からまろび出た。

 にゃあ、にゃあ。

 可愛らしい姿に、可愛い声。

 完子は、すぐにその猫のことを気に入った。

 とは言ってもまだ幼い身、乳母めのとに手伝ってもらいながら、猫の世話をした。

「何とまあ、愛らしい」

 乳母も猫のことをいたく気に入り、一時期、猫は自分よりも乳母に懐いていると、完子がになったこともあった。

 ……成長した今の完子にとっては、微笑ましい嫉妬であったが、とにかく、それぐらい猫は乳母に懐いていた。

「だから、なのか」

 完子は自問する。

 あの日、あの夜──完子が嫁入りする直前の夜。

 大坂城内で乳母が死んだ、あの夜。

 猫は乳母と共にいた。

 乳母が死んだ一室に、共にいた。

「猫よ、猫よ、汝は乳母どのを守ろうとしてくれたのか、それとも……」

 完子はそれ以上言わない、言えない。

 せっかくの茶々からの贈り物、猫を、呪いで人を殺すような生き物とは言えなかった。

「しかし、いずれにせよ、猫は死んだ」

 あれから十年生きた。大往生だった。

 猫は豊臣秀頼、茶々の母子にも可愛がられており、これは知らせた方がいいだろうと思って、完子は筆をった。



「その返事が、『わかった』だけとな」

「はい」

 慶長十九年(一六一四年)、京──九条邸。

 九条忠栄くじょうただひでは妻の完子と話していた。

 最近の秀頼の乱行について。

 いわく、人斬りをたしなんでいる。

 いわく、帝の寵姫ちょうきはらさばくとうそぶく。

 ……等々である。

 豊臣家と徳川家の融和、あるいは臣従を画策している忠栄としては、頭の痛くなる話だった。

 だからやめるよう、完子に頼んで手紙を書いてもらったが、「この前のような書状」ならともかく、余計な口出しは無用と返って来た。

 その「この前のような書状」が、猫の死についてだった。

「猫」

 通常なら、季節の挨拶や最近の出来事を述べ、書状としての体裁を取るところを、『わかった』の一言しか、記されていなかった返書。

 つまりはそれ以外はどうでもいい、あるいは察して欲しいということなのか。

 ここに重要な手がかりがあると思われる。

 忠栄は猫について、完子に話を聞いてみた。

「その……猫は、秀頼ぎみから、どういう扱いを受けていたのだ」

「可愛がられていました」

 即答だった。

 実際、乱行に取り憑かれる前の秀頼は実に心優しい若者であり少年であった。

 身近な小動物など、愛玩していたに相違ない。

「……にしては、その死に際して、『わかった』だけ、と」

 その直後からだったらしい――秀頼が乱行に興じたのは。

「猫の死がきっかけか……」

 あるいは、すでに変心していたのかもしれない。

 そこで完子が思いつめたような表情をして、口を開いた。

「……猫がきっかけだと思います」

「何ゆえ」

わたしあの子秀頼の姉として、長年接してきました。この猫の死の知らせより前のふみのやり取りでは、このようなぶっきらぼうなはなかった。これまでの千姫さまや、茶々さまとのふみのやり取りでも、あの子について、そのような様子はうかがえなかった。であるならば」

「やはり、猫、か……」

 完子は聡い。惚気のろけではなく、客観的な判断として、そう思う。

 実際に、単なる勘ではなく、茶々や千姫といった、他者の視点で傍証を挙げてきた。

 猫。

 完子の猫。

 この猫が、猫の死が。

 いかなる作用を、秀頼の心にもたらしたのか。

 それを探ることが、最近の秀頼の乱行の謎を解く鍵だ。

「……完子。猫は埋めたのか?」

「はい。庭に」

 秀頼とのふみのやり取りをする前のことだから、もう土の中で骨になっているかもしれない。

 骨になっていなくても……。

 そこで忠栄は考えを止めた。

 腐った猫の屍骸など見て、調べてみても、何にもならないであろう。

 何より、猫を愛玩していた秀頼の機嫌を損なう。

 そうなっては本末転倒だ。

 ただでさえ、乱行を重ねている者に、これはない。

「……問題は、猫をきっかけとして、何が『わかった』のかだ」

 ふと口をついて出た言葉だったが、忠栄にはこれが正しい筋道のように思えた。

 たしかに、猫が死んだのが衝撃的であらば、まずもって、猫を弔うべきだろう。

 だがそれはない。

 何しろ、『わかった』だけなのだ。

「もっとこう……そういう、これまでの礼儀作法ややり取りの積み重ねをかなぐり捨てて、放逐してしまうような、なげうってしまうような……」

 それは一体、何なんだ。

 猫といえば、その昔──平安の昔、一条のみかどに「命婦みょうぶ御許おとど」という愛猫がいた。

 一条の帝、つまり中宮定子の夫であり、この猫については、清少納言が「枕草子」の第七段「上にさぶらう御猫は」で記している。

 その段は、「命婦の御許」が「かうぶり給いて」つまり、「命婦(五位以上の女官)」に叙爵したことを言及している。

 これは五位以上でないと宮中に入れず、帝が愛玩できないためである。

 そしてこの「命婦の御許」が翁丸という犬に追いかけられた時、帝は怒りのあまり滝口武者たきぐちのむしゃに翁丸を打ちすえさせ、宮中から追放し、島流しにしてしまう。

 つまりはそれだけ帝の「命婦の御許」への愛玩が凄まじかったという話であるが、秀頼の猫への愛は、さすがにそれほどではないだろう。

 ちなみに翁丸は京へ帰ってきたところを清少納言が見つけ、彼女の主である中宮定子に保護され、定子のとりなしで天皇から許された、とその段は結ばれている。

「……しかし秀頼ぎみは、かつての一条の帝ほど、猫を愛してはいないだろう」

 そうであれば、完子と共に猫が九条邸へ行くのを止めただろう。

「むむ……」

 思い悩む忠栄の背に、完子の手がかかる。

「落ち着かれませ」

 これでは逆だ。

 忠栄は苦笑した。

 秀頼を落ち着かせようとしてやっているのに、その自分が落ち着いてと言われる。

 完子も微苦笑を浮かべる。

 どうやら、同じことを考えたようだ。

「……少し、休憩しよう」

「そうですね」

 秀頼の乱行を、一刻も早く止めたいという思いは変わらない。

 変わらないが、今ひとときの休憩は必要だろう。

 忠栄は「茶を」と所望し、完子は「では」と部屋をあとにした。

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