06 九条忠栄(くじょうただひで)の憂鬱

 九条忠栄くじょうただひでは、豊臣家が秀吉を失って凋落するのはやむを得ないと感じていた。

 関ヶ原の戦いにより、覇者となった徳川家を前に、かすんでいくのはやむを得ないと感じていた。

「それゆえに……豊臣家には、一公卿として生きる道を」

 そう感じていた。

 愛する妻、完子さだこが豊臣の子であることもあって、忠栄は弱体化していく豊臣家について、今後のあり方を模索していた。

 かつての覇者・豊臣秀吉のような支配力はもう望めまい。

 ならば、秀吉の残した「遺産」を最大限生かして、今後はゆるやかに、やわらかに、一公卿としての位置に落ち着いていくのが良いと思い始めていた。

 幸い、秀吉は豊臣家という「公卿の家」を設定し、関白に就任し、秀次という悲劇はあったものの、一度は関白位を豊臣家内で承継している。

「では、秀頼ぎみにも関白位を」

 という声がある。

 秀頼の生母・茶々や、豊臣恩顧の諸大名から上がっているという。

 それを以て、豊家(豊臣家のこと)の栄光を保とうとする意図であろう。

「だが、それでは駄目だ。豊家に関白位を再び承継させたら」

 忠栄はそう思った。

 彼とて豊臣家により良い待遇があってほしい。

 されど、徳川家などは、それこそ秀吉以来の覇権を取り戻す気かと問うだろうし、そもそも

「……ならば、関白など望まぬがいい。そう言明することだ」

 実際に忠栄本人が先年、関白に就きそして辞したばかりである。

 朝廷もそれとなく、豊臣家と距離を置き始めている。

「いっそのこと、関白と共に、大坂城も差し出したらどうか」

 それぐらいしなければ、あの猜疑心の塊である徳川家康に、信用されまい。

 少なくとも、表面上だとしても。

「そのためにこの九条忠栄、身命を賭そう」

 そう思って、忠栄は、京の心ある者を頼り、また、大坂城内に味方──片桐且元や織田有楽斎ら──を募り、そして連絡を取り合い、「その道」を模索していた。

 そこへ。

「……秀頼ぎみのご乱行だと。それはまずい。いかにもまずい」

 それこそ、好機ととらえて豊臣家を滅ぼしにやってくるであろう。

 徳川家康が。



 忠栄は、最終的には秀頼に会わねばならぬと感じていたが、まずは調べることにした。

 そもそも、豊臣秀頼は三年前(慶長十六年)、二条城にて徳川家康と会見した時は、家康に対して先を譲るなど、実に謹直で遠慮を知る若者だった。

「ところが最近になっての、このご乱行……これには何か理由が。そうでなくとも、ぐらいは何かは、知っておかなくては」

 忠栄は九条の関白家としての伝手つてを十二分に使い、情報を集め出した。

 それだけでなく、妻の完子にも、秀頼にふみを出してもらい、乱行を諌めると同時に、その理由をそれとなく問うてもらった。


「……ふむ」

 その夜、忠栄は九条邸内の一室で瞑目していた。

 どうやら妻の完子がもたらした乱行の情報は真実らしく、これにはどちらかというと「茶々の味方」の大野治長までもが隠匿に協力し、茶々の耳には届いていないらしい。

 他ならぬ秀頼も、茶々の前では猫を被っているのか、さして過激な言動は取っていないらしい。

「ふむ」

 つまりは京においても秀頼の「最近」は伝わっていないらしく、たとえば高台院(秀吉の年来の妻・ねね)や秀吉の猶子だった八条宮智仁親王は知らないようだった。

 瑞龍院日秀(秀吉の姉・とも。完子の祖母。秀次、秀勝らの母)はそれを聞いて、

「そりゃあ、まぁるで、治兵衛みてぇな真似ぇしとるようだでや」

 と完子に言った。

 治兵衛とは、豊臣秀次のことである(農民だった頃の名)。

「口止めは、お願いしてきたろうな」

 日秀は八十の老婆である。

 高台院や八条宮とちがって、口が滑るかもしれない。

 完子はむろん、日秀に口止めをしてきたが、それでもしゃべってしまうかもしれない。

「しかしそれはそれとして……なぜ、秀頼ぎみが乱心したのか。これがわからずば、何の解決にもならん」

 思い悩む忠栄の背後で、障子が開いた。

「完子」

「あなた」

 完子は一通の書状を携えてきた。

 差出人は秀頼らしい。

「その書状……見てみたのか」

「はい」

「……読んでもいいか?」

「はい」

 書状は、完子が乱行を諫めたことへの、秀頼の返書。

 その中で秀頼は、やはり豊臣家は武家として、秀頼は武士としてありたいと述べていた。

 そのためには、多少の悪行も武略として思ってもらいたいとも。

 すべては豊臣の子である、秀頼の為すべきことであり、口出し無用である――とその段落は締めくくられていた。

 そして書状の最後に、この前のような書状ならともかく、もうこのような書状を送らないように、と締めくくられていた。

「……にべもない、な」

「はい……」

 そのような言い訳で通すほど、徳川家康は甘くない。

 これはもう、秀頼に会いに行くしかないか。

 眉間にしわを寄せる忠栄。

 完子は、書状を改めて眺め、ふうとため息をついた。

「この前のような書状……ですか」

 忠栄はそれを聞きとがめた。

 そういえば、秀頼は書状をすべて差し止めると言っているのではない。

 乱行を諫める書状を送るなと言っているのであり、この目の前の書状で言う「この前のような書状」なら可としている。

 なら、その「この前のような書状」とは、何だ。

「……大したことではありません」

 完子は、猫が死んだことを伝えた、と答えた。

「猫?」

「はい。あの、わたしの猫です。茶々さまに貰った、猫です」

「…………」

 忠栄が沈黙していると、完子は、そういえば、と言葉をつづけた。

「猫の死を伝えたことへの返事が、『わかった』だけでした」

 季節のことや時候の挨拶など、ふだんの秀頼なら書いてくることが無く、ただそれだけだった。

 思えば、それを不審に思って、完子はそれとなく秀頼の様子を探ってみたことから、最近の乱行についての情報に触れたのだった。

「猫」

 となると、猫のことが、何か秀頼の心の裡に、何かの変化をもたらしたのかもしれない。

「それは、なんだ」

 忠栄は猫の情報を欲した。

 九条邸では、当主と正室の空間が分けられており、それぞれ邪魔をしないのが不文律である。

 それゆえ、忠栄は完子が連れて来た猫のことを詳しく知らない。

 豊臣家から連れて来たことは知っていたが、飽くまで「完子のもの」であり、特に干渉せずにいた。

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