03 慶長九年(一六〇四年)六月三日、豊臣完子(とよとみさだこ)の凶事

 宴はつつがなくおこなわれ、茶々も先ほどの不得要領な受け答えなど、まるでなかったように酒盃を重ねた。

 やがてたけなわとなり、一同は解散し、それぞれの寝所へと向かった。

 ただし秀頼は少し夜風にあたることにした。妻の千姫は、ほどよく眠くなって来たとのことなので、侍女たちに抱えられるように連れられて行った。


 頭と体が冷めて来たところで、秀頼は寝所へ向かうことにした。

 そこへ。

 突如。

 にゃあ。

 と、鳴き声が聞こえた。

完子さだこ義姉上あねうえの……飼っている猫か」

 完子は茶々の養女となったものの、茶々自身が忙しく、ろくに相手もできない日々がつづいた。

 乳母めのとは乳母で、相手はしても、限界がある。

 「母」ではなく、遊び相手が必要な年頃となり、完子は無聊ぶりょうかこち、寂しさを募らせた。

 そこで登場したのが猫である。

 元々、太閤秀吉が猫を好んだことから、豊臣家では猫を飼う風習があった。

 茶々は、なるべく人懐こい子猫を手に入れ、それを完子に進呈した。

「まあ、可愛い」

 文字通り、完子は子猫に嵌まった。

 たちまち子猫は豊臣家の人気者になり、猫、猫、と呼ばれるうちに、成猫となって、今に至る。 

「それが、鳴いたか」

 にゃあ、にゃあと鳴き声が聞こえる。秀頼はそれに導かれるように、城内を歩く。

 気づくと、城主とその家族しか入れないところに入り、その中の一室の前にいた。

「ふむ、もしや」

 秀頼には思いつくことがあった。

 かの猫は完子の飼い猫。

 ところがその完子が嫁入りしてしまう。

 とすると、猫は置いてけぼりにされてしまうのでは――と、猫は考えているのかもしれぬ。

「猫がそこまで考えるかどうか謎だが……いずれにせよ、どれ、この秀頼がつらまえて、完子の義姉上のところに連れて行ってやろう」

 そして秀頼はとある一室の前にまでたどり着いた。

 猫の声は、ここから聞こえる。

「この部屋は……」

 完子の乳母が休憩によく使っている部屋だった。

 大坂城内でも、比較的目立たない位置にあり、乳母としてはそこが気に入って、たとえば秀頼と鬼ごっこしたあとに休むのに使っていた。

「ということは、乳母どのが、るのかな」

 だから猫は、おそらく酔って眠ってしまっている乳母に気がついて、にゃあにゃあと寄りついているのか。

「とすると」

 秀頼は、人の悪い笑みを浮かべる。

 あれよ、御曹司よと言われるが、実際は悪戯小僧いたずらこぞうに近い性格の秀頼は、今こそ好機と思いついた悪戯があった。

 わっと驚かす、寝ているところを。

 そうすれば、乳母はあれまぁと驚いて、次には秀頼を抱きしめてくれるのでは。

 秀頼に甘く、優しい乳母だった。

 そしてその乳母の抱きしめに、かすかな性の匂いを覚える秀頼は、喜び勇んで、部屋の襖を開けた。

「わっ」

 その叫びは、だが、出たものではなかった。

 出たものだった。

「め、乳母どの」

 乳母は、苦悶の表情を浮かべ、口の端から血を流して、倒れていた。

 猫は、そんな乳母の手を、指を舐めていた。

 秀頼は猫を、やや邪険に追いやる。

 猫は少し怒ったように、にゃあと鳴く。唸る。

「許せ、許せ」

 秀頼は乳母の──倒れている乳母の手に触れた。

 冷たい。

「死んでいる……」


 この日、慶長六年(一六〇四年)六月三日。

 その深夜。

 華燭の典をひかえていた豊臣完子の、その乳母が死んだ。

 吉事の前の凶事として、それはこっそりと、そして速やかに処理される。

 が、このことは関わった者に深い影響を与えることになる……。

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