02 慶長九年(一六〇四年)六月三日、豊臣完子(とよとみさだこ)の吉事
父は豊臣秀勝といい、かの豊臣秀吉の姉、ともの息子である。
そして母は、
完子は天正二十年(一五九二年一月、あるいは二月二十四日に生まれた。
しかし秀勝は天正二十年九月九日(一五九二年十月十四日)に陣没(文禄の役の最中、巨済島で病没)してしまう。
「なんと、哀れな」
これに同情したのが、秀勝の兄・豊臣秀次である。
この前年の十二月に関白に就任したばかりの秀次は、父を亡くしたばかりの弟の遺児を哀れに思った。
父を亡くしたすぐあとに、母が父とちがう男の妻になることに。
これほどの悲劇があろうか。
秀次は、まるでわがことのように完子の境遇を憐れみ、自身の侍女から、特にと選んで、完子の
ちょうどその乳母は、わが子との永遠の離別を余儀なくされていた。秀次はそこに気遣ったものと思われる。
*
そして、完子の母――夫を喪った、江の身の上である。
悲歎に暮れていたが、その涙の乾く間もなく、太閤・豊臣秀吉より、徳川家嫡男・徳川秀忠へ嫁ぐようにと内々に要請された。
「徳川家の嗣子たる秀忠どの。この秀忠どのに嫁ぐ以上……連れ子など、いない方が良い」
そう江が言ったかどうかは定かではない。
どちらかというと、事実上のこの時の江の保護者である、秀吉の発言だろう。
秀勝が陣没した年に生まれた完子としては、何も言いようがない。というか、赤子ゆえ、言うことすらできなかった。
こうして完子は、江から離された。つまり「捨てられた」。
これを憂慮したのが、江の姉・茶々──淀殿である。
「ならば妾がその子を養子にいたしましょう」
豊臣秀吉の側室にして、正室以上の権力を持つといわれる茶々。
茶々は当時、わずか二歳の長男・
こうして完子は、江の秀忠への嫁入りを待って(正式には一五九五年九月十七日に、伏見にて婚儀を上げた)、茶々の
*
……やがて完子は成長し、慶長九年(一六〇四年)六月三日、
あれから。
父を喪い、母に捨てられた完子は、伯父・秀次のつけてくれた乳母の世話の下、伯母・茶々の庇護の下、すくすくと成長し、今、嫁入りという人生最大の慶事を迎える。
しかもその相手、九条忠栄は、のちに関白、左大臣となる、押しも押されぬ堂上公家。
このあたり、茶々の努力がにじみ出ている。
「いろいろありましたが、これでようやく報われたように思います」
完子の乳母は、完子の嫁入り前夜、その宴の場で、そのように発言した。
いろいろとは、たとえば豊臣秀次の切腹や、それを命じた豊臣秀吉の死、さらには関ヶ原の戦いという、出来事の数々を意味したものだろう。
でも、完子はここまで大きくなった、公家の妻となることになった。
乳母が身の回りの世話をし、読み書きなど、この時代の女性としては最高の教育を与えたおかげだと、彼女は自負している。
「これを
茶々もまた、万感の思いである。
今、この場には、茶々以外に、彼女の子である秀頼、その妻の千姫(江と秀忠の子)、そして主賓である完子とその乳母しかいない。
そう、この場は内々の前祝いの宴。
完子が、親しいものだけで、嫁ぐ前に最後の会食をと望んだのだ。
そのゆえに、家族の者と、家族同然の乳母しかいない。
酒は来ているが、まだ食事はこれから。
そのため、世話をする侍女たちはいないが、逆にこの時間こそ、誰もいない、気兼ねないくつろぎを与えてくれる。
そう思ったのだろう乳母は、秀頼の方をちらりと見た。
ほんのりと酒にほほを染めた乳母の――大人の女性の目線に、まだ十歳の少年である秀頼はどきりとしてしまう。
それに微笑んだ乳母は口を開いた。
「それに……いま改めて見ましても、秀頼どのの、まこと見事な男ぶり。これは……お父上の、関白さまを見ているようでございます」
それは少し褒めすぎだろう。
秀頼はそう思い、曖昧な笑みを浮かべた。
そこで秀頼の妻・千姫がこれに応じた。
「は、
この前年に嫁入りして来た、わずか八才の千姫は、茶々との仲を深めようとしていた。
そのため、このような機会をとらえて、茶々との会話を試みたのだ。
が。
「…………」
「は、
茶々は無反応だった。
無表情だった。
これには千姫よりも秀頼が面食らった。
いくら徳川の娘の発言とはいえ、少しは「返し」があっていいのではないか。
秀頼が場をとりなすように、母上いかがされましたと言ってみたが、それでも茶々は宙空をにらむような視線をやめない。
たまらず完子が口を開いた。
「
「……完子?」
物思いから覚めたような茶々は、そうですね太閤殿下に似ていますねと言い、沈黙していたことを詫びた。
秀頼が、なぜ黙っていたのかと問おうとすると、そこで場に――室外から声がかかった。
「恐れ入ります。
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