8月3日 #3

 鍵を開けてドアを引いた途端、先に桃太郎がするりと入った。

 が、中に見慣れない人間がいたせいか。はピタリと足を止めたかと思うと、姿勢を低くしてサッと踵を返した。

 ところが既にドアが閉まっていて出られない。桐島は、いざとなったら桃太郎をダシにして去ろうと考えていた。だから申し訳ないけど、ついてきたからにはしばらくいてもらう。

「猫がいるんですね」

 ダイニングチェアに座る男が言った。テーブルの上のディナープレートは、まだ手つかずだった。ドアが開かないことを悟ったらしい桃太郎が、低い姿勢を保ったまま忍び足でベッドの下に潜っていく。

「名前は何ていうんですか?」

「黙って食うんだろ」

 桐島は即答して皿を置き、缶ビールのひとつを客のそばに置いて椅子に座った。アルコールは飲むのか、飲むならビール派かそれ以外か、知ったこっちゃないし確認する気もない。

 男は目の前に置かれた缶にちょっと目をとめてから、頰を弛めて手を伸ばした。

「ありがとうございます、嬉しいです」

「──」

「お礼くらい、言ってもいいですよね?」

「そんなことまでいちいち訊くな」

 つい反応して内心で舌打ちする。いちいち調子が狂うヤツだ。

 溜め息を吐いて缶を開けると、男も倣ってプルタブを起こした。ひと口傾けて、ようやく箸を取る。

 桐島はテーブルの上のリモコンを引き寄せてテレビをオンにした。喋るなとは言ったものの、しんと静まり返った部屋で得体の知れない客と二人で黙々とメシを食うのも耐えがたい。画面が点くと発泡酒のCMが流れ、報道番組のアイキャッチに切り替わった。

 ──それにしても何なんだ、この状況は?

 室町が知ったらクドクドと小言を垂れるだろう。下手すりゃ説法がはじまるかもしれない。

 しかし、客の事情や個人情報を訊かない、客を外部と接触させない、といった大原則のほかは、ほとんどが暗黙のルールみたいなものだ。が、だからこそ、桐島は客と不必要に関わることを避けていた。何もかも遮断しておけば、ボーダーラインを迷う必要もない。

 ──なのに何なんだ、この状況は?

 酢豚と白米を掻き混ぜながら、再び胸の裡で自問する。

 成り行きとは言え、自ら決めたゼロ設定をいとも簡単に覆された。押しに弱いのは昔からだった。

 断れないたちというより断る理由を考えるのが面倒で、断固として拒むような熱量もない。おかげで、こんなボランティア活動を押しつけられるし、ポリシーに反して客とメシなんか食う羽目にもなる。

「美味しいですよ」

 テーブルの向こうから声がした。

「喋るなって言ってんだろ」

「カレーなんかも混ぜる派ですか?」

 話聞いてんのか、と言おうとして、桐島は手もとに目を落とした。ステンレスプレートの上で、酢豚と白米と蓮根のきんぴらが渾然一体となっていた。

「悪いな、お上品にモノを食う習慣がねぇんだ。あんたは育ちがよさそうだし、俺なんかとメシを食っても不快なだけだと思うけどな」

「いいえ、一緒に食べてくださって嬉しいですよ。こんな状況になって心細かったんです」

 心細い? どこをどう見たってそんなはずねぇ……というコメントは口に出さず、味噌汁を啜る。

 向かいでメシを食う男は、ほとんど音を立てない。姿勢もいい。言葉遣いが丁寧なだけじゃなくて全体的にソフィスティケイトされた物腰で、いまは無造作に下りている髪をセットしてスーツを着せれば、おそらく相当ハイスペなリーマン風に仕上がるだろう。

 不意にテレビがドッと湧いた。見ると、いつのまにか報道番組が終わって後続のバラエティに変わっていた。

「そうだ。一応言っとくけど、ここのテレビは動画配信サービスとかは……」

 リモコンでボリュームを絞りながら上げた目が、客のそれとぶつかった。男は桐島を見つめたまま小さく頷いた。

「わかってますよ。外部と連絡を取らないように、部屋が丸ごとネットに繋がってないんでしょう? ──あれ」

 ふと視線が逸れていき、つられて桐島も顔を向けた。ベッドの下から這い出てきた桃太郎が入口のドアに忍び寄るところだった。最近太り気味で、歩く姿にも猫特有のしなやかさが感じられない。

「桃さん、すぐいくからちょっと待って」

 黒い小山のような後ろ姿に声を投げた途端、客がにこやかな声を寄越した。

「モモさんっていうんですね、女の子ですか?」

 しまった、という思いが掠めたけど、言ってしまったものは回収できない。

「いや……」

「あぁ、男の子でもモモって名前の犬や猫、いますよね」

「──モモじゃなくて、桃太郎なんだ」

 渋々真相を明かしてメシの残りを搔っ込みはじめる。とにかく、桃太郎を口実に早いところ部屋を出よう。

 そう心を決める桐島をよそに、男がのんびりした口ぶりで畳みかけてくる。

「じゃあ、桃太郎を桃さんって呼んでるんですか。可愛いですね」

 桃太郎が桃さんと呼ばれているからって、何が可愛いのか? まさか、桃さんと呼ぶ桐島を指して言ったわけじゃないだろう。

「ところで名前といえば、室町さんがここのことを『ミツデハウス』って呼んでたんですよ。でも、あなたの個人情報は訊かないようにと言われてるから、きっとミツデさんではないんですよね。ミツデっていうのは何ですか?」

「訊くなって言われてんだから訊くなよ」 

「あなたの名前を訊いたんじゃないし、単なる素朴な疑問です」

「──」

 桐島は空になった皿を置いて溜め息を吐いた。

「庭にあるカクレミノって木の別名だよ。シンボルツリーでも何でもなくて、端のほうの陽あたりが悪い場所にひっそり生えてる低木だけどな」

 いまは、ちょうど名前や佇まいに見合った地味な花が咲いていて、そのくせいろんな種類の蜂が寄ってくる。地味女子主人公のイケメンハーレムものを思わせる有りさまだ。

「へぇ、隠れ蓑……まさに、この家そのものですね」

「室町もおんなじこと言って、ワケありの客を預かる家にちょうどいいってアイツが勝手に名前をつけたんだ。けど、カクレミノじゃだし、長くて語呂もイマイチだから別名のほうにしようってことで、ミツデハウス」

 もちろん、そんなはこのボランティア活動以外では使わない。そもそも室町が勝手に呼んでいるだけで、家主の桐島自ら名乗ったことはない。

 そして余計な会話をする間に、しばらくドアの前で座り込んでいた桃太郎がベッドに戻ってしまった。今度は下じゃなくて、シーツの上で丸くなっている。

「桃さん、少しは警戒を緩めてくれたんでしょうか」

「馴れ馴れしく桃さんとか言うな」

「だって桃太郎さんって呼ぶと長いし、童謡の歌詞みたいですよね」

「──」

「そうだ。約束どおりあなたの名前は訊きませんけど、お互いに仮の名前を決めませんか? 呼び名が全くないのも何かと不便ですから」

「決めねぇよ、名前が必要なほど接触しないから心配すんな。何なら二度と鍵を開けずに、メシも入口んとこの小窓から差し入れてやる」

「それなんですけどね」

 次は何を言い出すつもりなのか、客は居住まいを正して小さく首を傾けた。

「この部屋に外鍵があるのは脱走防止のためなんですよね? 万一のときに外部からの乱入を防ぐという目的なら、内鍵があるわけですし」

「まぁ……外鍵があれば、乱入も二重に防げるしな……?」

「でも、脱走する気がなくて誰かが追ってくるわけでもなければ、必要ないんじゃないかと思うんです」

「何が言いたいんだ?」

「僕がいる間、外鍵はかけないことにしませんか」

 メシを食い終えて箸を置いた男は、背筋を伸ばしてゆったりと脚を組んだ。ファストファッションのリーズナブルなルームウェアをここまでスタイリッシュに着こなす野郎も、そうそういないだろう。

「あんたな、客が勝手にルールを変えんな。脱走も追っ手も心配いらないヤツは、そもそもここにくるわけねぇんだよ」

「でも、客の要望を善処するのもミツデハウスの役割でしょう?」

「俺は役割なんか背負しょってない。単なる管理人だよ、この部屋の」

 桐島は言って椅子を立ち、客の皿を取り上げた。首をもたげた桃太郎がベッドから降りて、ひとつ伸びをしてからドアのほうへ歩いていく。

「桃さんは家の外にも出るんですか?」

「いや──」

 譲渡されたときの条件だから、と母が決して外に出さなかったから……と漏らしかけて危うく飲み込んだ。あまりに自然に話しかけやがるから、うっかり身内ネタで世間話に縺れ込むところだった。

「外には出さない。それ、空?」

 指した缶ビールは、まだ中身が残っているというから置いていくことにした。

 二枚のプレートと空缶ひとつを手に一歩踏み出したとき、ドアの前で桃太郎が振り返った。と同時に後ろから声が追ってきた。

「僕も外には出ないので、桃さんと同じく家の中ならウロついてもいいですか?」

「は? 外鍵をかけんなってだけの話を、何しれっと拡大させてんだ」

 ソイツはもはや、ただの居候だろ──思ったとき、男が言った。

「その言い方、外鍵をかけないのはOKだってことですよね」

「あんた、ほんとに何言ってんだ?」

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