9.焦慮
「ありがとうございましたー、またお願いします」
店員が体を半分ドアから出して、威勢のよい声で見送る。軽く手を挙げる尋、にっこりと笑顔を向けるエティエンヌ、目を合わせて会釈する堀部、スマホを見つめる大上。
「次、行きますよね? 何系にしましょうか」
グーグルマップに保存している飲食店のリストをスワイプしながら、大上が3人に問いかける。住宅街と繁華街の境目、駅につながる路地で一番前を歩いていたエティエンヌが振り返り、尋を一瞥した。後ろに続く堀部からは尋の表情は見えない。一呼吸おいてエティエンヌが口を開く。
「僕はここで失礼しようかな、とっても楽しかったからもう少し飲みたいんだけど、明日早いから」
後ろ歩きしながらブルゾンのポケットをまさぐると、取り出した鍵を差し出す。一方通行を遠慮のないスピードで直進してきた自動車にぶつかりそうになった腕が、ぐっと引っ張られる。
「お前ほんとにそのうち死ぬぞ」
肘を掴む力を緩めながら、尋が言った。
「あはは、ごめん。でもこうやって助けてくれる人が僕にはいるから、まだまだ大丈夫だね」
くるりと一周半回って前を向き、歩き始める。ワイングラスの飾りが2つついたキーホルダーのリングに指を通し、斜め後ろの尋の顔の前に再度差し出す。
「先に帰って寝てるから、そーっと帰ってきて」
手を伸ばしかけた尋が、後ろを振り向く。
「俺も帰るわ」
肩にかけたバッグの中、数時間前に乾燥にかけた衣服はわずかに湿気を帯びている。夜の空気の匂いが変わり始めている。今夜、季節は移ろっているのだ。反射したスマホの光が遠ざかり、眼鏡の奥の大上のまなざしが2人に向けられる。
「ええー……、そうですか。じゃあ、残念ですけど」
そう言って立ち止まる大上に合わせて、堀部も2、3歩のちに足を止めた。「また飲もうねえ」笑顔で手を振りながら去っていくエティエンヌと、振り返らない尋の後ろ姿を見つめながら、ほっとしたような気持ちと、今すぐ追いかけたい気持ちが堀部の胸で混じり合っている。プールの匂いがした。
「堀部くんは連れていけないよ、ごめんね」
まだ自他の境界があいまいだった小学校低学年ごろ、近所の友だちが家族で流れるプールに行くという。いつも一緒に遊んでいたから、てっきり自分も一緒に行けると思い込んでいた。団地の階段を上っていると踊り場からちょうど、友達家族の車が去っていくのが見えて、初めて自分の存在の輪郭を感じた。ここから先には、行くことができない。目に見えない境界線があるのだと。
「さて、と。どうしよっか」
大上の声がして、ふと我に返った。まっすぐに自分に向けられる視線。この人はいくらでも境界線を後ろに引き直してくれるに違いない。少なくとも今は。堀部はそう思っている。
「大上さんの家って、ここから近いですよね」
「ああ、そうだね、歩きで5分くらいかな」
「家、遊び行ってもいいですか?」
「え、いいけど、あ、でも知ってると思うけど俺実家だから、親いるよ」
「あ、そっか……。夜分にお邪魔するのはご迷惑ですね」
「いや別に、迷惑ってことはないよ、うちの親わりとフレンドリーだと思うし」
困ったような、嬉しいような素振りの大上から視線を外すと、もう2人の姿は見えなくなってしまっていた。堀部の世界には大上しかいない。
「じゃあ、うちに来ませんか」
そわそわと落ち着きのない大上がピタリと動きを止めた。ずれてもいない眼鏡のブリッジを中指でそっと押し上げる。
「ちょっと歩きますけど」
ドアを閉めると、国道246号の喧騒がシャットアウトされた。靴を脱いで部屋に入りそのまま真っ直ぐ、掃き出し窓に向かう。川沿いの居酒屋の外、はしゃぐ若者たちだろう、男女の笑い声が網戸を突き抜けてくる。窓を閉めると勢いよくカーテンを閉めた。
「あ……、上がってください」
「お邪魔、します」
真っ暗でまだ目が慣れていない。大上はゆっくりとワンルームの部屋に足を踏み入れた。フローリングの上にはローテーブルとビーズクッションがひとつ。壁際の本棚には半分ほどに教科書やTOEICの参考書、新書がいくつか斜めに並んでいて、反対の壁際にシングルベッドが置かれている。
「……電気、つけないの?」
クッションに座るかどうか迷いながら大上が言った。ベッドに腰掛けていた堀部は黙ったまま少しの間をあけてから、枕元にあった照明のリモコンを手に取ろうとして、やめた。
「……電気、つけたいですか?」
暗闇に目が慣れてきた視線が堀部のそれと交わる。クッションにもたれるように置いた本屋の袋が、ズルリと倒れた。少し腰を浮かせた堀部を制すように肩にそっと手を添えて隣に腰掛けると、そのまま抱き寄せて軽く唇を重ねた。薄目を開けると堀部の長い睫毛が小刻みに震えている。緊張しているのか強張った体。意外だった。唇は頬から首筋に移り、堀部が小さく声を漏らす。一度体を離し、眼鏡を外してローテーブルに置くと、振り返りざまに口づけされた。大上はなだめるように堀部の髪を撫でながら、もう片方の手でシャツの中に手を入れる。少し汗ばんだ背中に指を這わせるとビクリと体が震え、また声が漏れた。覆いかぶさるようにベッドに倒れ込むと、火照る体温を遮るシャツが歯がゆかった。もっと直に堀部の熱さを感じたい。ロンTを脱ぎ捨てると、堀部のシャツのボタンを外していく、目が合った。言葉を発することを止めるようにキスをする。露わになった堀部の体を抱きしめると、宙を浮いていた腕が自分の背中にまわるのがわかった。大上はいっそう強く包みこんだ。
「大上さんって、流れるプール行ったことあります?」
カーテンの端から漏れる光は月灯りではなく、街灯だ。影になって表情の読めない大上が歯を見せて笑ったように見える。
「どうしたの、突然」
「すみません」
「いやいや、いいよ。流れるプール行ったことあるよ。子供の頃。としまえんとかさ。あ、でも今としまえん閉園しちゃったのか」
「としまえんってプールあったんですか?」
「うん、あったよ。でもまだよみうりランドとかにはあるんじゃない?」
「よみうりランド、ってどこでしたっけ、神奈川?」
「俺も行ったことないからわかんないけど、たぶん稲城?とか」
「いなぎ、ですか」
「そう、でも地方の人だとあんま馴染みないよね。どうしたの、流れるプール行きたい?」
「行きたいってわけでもないんですけど、行ったことないなあって思って」
「じゃあ、行こうよ! そうだ、尋さんとかエティエンヌとかも誘って」
そう言って、大上は堀部の手を握りしめた。
東京の、夜の空気をめいっぱい吸って teran @tteerraan
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