武陵桃源

三鹿ショート

武陵桃源

 平穏な生活を得るために、誰にも嫌われることがないようにしていたのだが、常に他者の顔色を窺いながらの毎日に、私は疲れ果ててしまった。

 心身を良好なものと化すためには、他者と接触することは避けるべきだろう。

 ゆえに、私は山奥へと向かった。

 一日を乗り越えるだけでも重労働であるということは理解していたが、他者に愛想笑いを浮かべ、自分の本心ではない事柄に同調することに比べれば、気持ちは楽だった。

 だが、落ち着くことが出来る場所を探していたところで、私は足を滑らせ、近くの崖から転落してしまった。

 大したことは無い人生だったと思っていたところで、不意に、眼前が暗闇と化した。

 ただ意識を失っただけなのか、生命活動が終焉を迎えたのかどうかは、私には分からなかった。


***


 目を覚ますと、私の様子を窺っていたと思しき女性が、口元を緩めた。

 いわく、倒れていた私をこの場所まで運び、治療していたということらしい。

 私が頭を下げると、彼女は首を横に振った。

「当然のことをしたまでです」

 それから彼女は、他の住人に対して私が目覚めたことを報告するために、姿を消した。

 やがて、彼女以外の人間もまた顔を出すようになった。

 その人間たちを見て、私は違和感を覚えた。

 何故なら、誰もがまるで自分のことのように、私の目覚めを喜んでいたからだ。

 彼らが心優しい人間であるためだと言われればそれまでだが、見ず知らずの余所者に対して、此処までの感情を表現するものなのだろうか。

 そのようなことを考えながらも、私は疑問を口にすることはなかった。

 余計な言葉を発したために、住人たちから手荒く扱われるようになってしまっては、困るからだった。


***


 傷が治ってきたところで、私は彼女に、周辺を案内してもらうようになった。

 すれ違う人間たちは必ずと言って良いほどに声をかけてくるために、頭を下げるという行為による疲労が蓄積されていってしまう。

 しかし、居心地は良かった。

 誰もが穏やかな表情を浮かべ、争うことなく、談笑している。

 私が住んでいた世界は情報で溢れているというにも関わらず、この土地では外部の情報が一切入ることがないらしく、そのため、何かしらの事件の報道を目にして、感情が揺さぶられることもない。

 つまり、私が望んでいたような世界なのである。

 この土地で住み続けるにはどうすれば良いのかと問うたところ、彼女は笑みを浮かべたまま、

「望むのならば、そのように行動すれば良いのです」

「何か、規則のようなものはあるのかい」

 彼女は人差し指を立てると、

「一つだけ、守ってほしいことがあるのです」

「それは、何か」

「人々の心を動かすような問題を、起こさないでほしいのです。この土地の人々は、おそらくあなたが外の世界で経験したような問題には、慣れていないのです。無垢の状態で生きていますから、人心を掻き乱すような行為には、及ぶことがないようにしてほしいのです」

 それは、私の得意とすることである。

 他者に怒りを抱かせるような状況など、直面したことはほとんどないのだ。

 私が首肯を返すと、彼女もまた、頷いた。


***


 この土地で生活してから一週間ほどが経過した頃、私は疑問を抱くようになっていた。

 何故、この土地の人々は、このような生活を送っているのだろうか。

 争いが存在していないという点では理想的だが、食事のことなどを考えると、明らかに不便である。

 だが、それは私が便利な世界で生きていたからであり、元々このような生活を続けていた彼女たちにとっては、考えるようなことではないのかもしれない。

 私は全ての疑問を頭の中から消し去り、この土地での生活を愉しむことにした。

 郷に入っては郷に従った方が、良いからである。


***


「外部の人間が姿を現した際はどうするべきか困ったものだったが、どうやらその心配も無くなったようだ」

「ですが、対処法を考えなければなりませんね。山奥ゆえに、訪れる人間は皆無だと思っていましたが、間違いだったようですから」

「確かに、その通りだ。彼のように、この土地に馴染むことができる人間ばかりとは限らないからな」

「よほど、彼は息苦しい日々を送っていたのでしょうね。普通の人間ならば、娯楽がほとんど存在していないこのような土地に対して、退屈を覚えるものですから」

「彼がこの土地にどのような影響を与えるのかと気を揉んだものだが、何事も無かったようで安心した。これで、実験を続けることができる」

「ですが、このような実験に、何の意味が存在しているのでしょうか」

「何の意味、とは」

「争いというものを知らずに育った人間がどのような人生を送るのかを調べたところで、そのような状況で生きる未来など、訪れることはありませんから」

「だからこそ、調べるのではないか。争いというものを感ずることがなければ、どれほど無味乾燥な人生を送ることになるのかということを知ることで、危険で溢れていたとしても、今の世界で生きることの方が素晴らしいと感ずることができるのだ」

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武陵桃源 三鹿ショート @mijikashort

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