第六章《衒楽四重奏》と《箱中の失楽》
「箱」の中(中の章)
巻頭歌
ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めると――
「薄気味悪い虫に変身してしまっているのだった。」
(『カフカ・セレクションⅢ異形/寓意』浅井健二郎訳、ちくま文庫)
「ものすごい虫に変わっていた。」
(『世界の文学 ドイツ3・中央・東欧・イタリア』城山良彦訳、集英社)
「大きな毒虫に変わっているのに気がついた。」
(『カフカ 世界の文学セレクション36』辻瑆訳、中央公論社)
「自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。」
(『変身』池内紀訳、白水uブックス)
ザムザは、何へと変身したのだろうか。
…………ブウウ――ンンン―――ンンンン…………。
ミツバチが飛び回るような五月蠅い羽音が耳朶をくすぐる。
一定のリズムで響く音は、脳髄の奥にまで湿り気をもってしみわたる。
毒のように――。あるいは、水のように。
頭の中身を撫でまわされるような錯覚を覚える。
私は――うすうすと目を覚ました。
「ここは……なに?」
口から漏れた声色には、不快感がにじみ出ていた。
ずきずきと頭が痛む――頭の中で小人が暴れまわるように脳を突き刺す感覚――脳には痛覚が無いと聞いたことがあったが、あれは嘘なのだろうか。
――痛い。痛みに嚙む歯に力がこもる。
目の前にあるのは白い壁。
ぼおっと薄く光を放つ壁、見渡すと四方がそれに囲まれている。
箱の中――そんな印象を覚える。
立方体の形をした部屋だ。広くはない。
気づくと、一辺の端に一人の人影が立っているのに気づいた。
白と翠で彩られた学生服。
制服はズボンで、鮮やかな緑髪は飾り気のない短髪に切り揃えられている。
性差を感じさせるほどにまでは育っていない、小柄で幼い容姿――それでも、風体から判断すると、おそらくは目の前の人物は少女ではなく。
少年……なのだろう。
その肩には白と黒の二色で染められたマントがかけられていた。
立体じみた謎の図形、それが白い線で黒地に浮き出ている――奇妙な図柄だ。
少年と目が合った。
「……あなたは、誰?」と問う。
返事はない。聞こえてはいるのだろうが――ターコイズブルーに透き通った瞳には、そこにどのような感情も浮かんではいなかった。
そういえば。
目覚めたときに感じた、ミツバチのような羽音はなんだったのだろう。
この何もない白い部屋には――音源となるものは見当たらない。
――私は気づく。
あの音は外からではなく、内から生じたものなんじゃないか。
耳を手でふさぐと音が聞こえる、それと同じ。
ごおおおおおお……と。生体を駆動させるべくして生じる音なのだ。
この部屋には音は無い――否。
「……ま。……様。……ルカ様」
かすかに一つの壁から声が聞こえた気がする。
夢うつつ――現実感がかぎりなく希薄な状況で、自分以外の他者の声とは、すなわち砂漠に落とされた一滴のしずくにも等しいのがおわかりだろうか。
己が正気を保つべく、目を血走らせるようにして私は壁に耳を当てる。
声は呼びかけた――。
「……ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様。ウルカ様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ」
「……ひっ」
鼓膜にへばりつくような、見知らぬ少女の声。
その声は一心不乱に、この上なく切実な響きで誰かの名前を呼びかけている。
息継ぎもなく、何かに狩り立てられたかのように一人の名前を繰り返す、声。
――正気ではない。この壁の向こうにいる女は。
頭が、おかしいんじゃないか――。
……壁を離れると、不思議と声は聞こえなくなる。
「ウルカ。
――
その言葉を聞いた途端に、深い森を抜けたような一陣の風が吹いた気がした。
思考がクリアになる。
「そう、ね……
なぜ
ここはどこなのか。私は誰なのか。
わからない――けど。
左手に重みを感じた。
「決闘、礼装……なんで忘れてたのかしら」
灰色一色の無機質なグローブ型の装備――これは決闘礼装だ。
私はセットされたカードを扇のように開いて確認する。
虫、虫、虫、虫、虫……!
どのカードにも、年頃の娘なら悲鳴をあげそうなリアルな虫のイラストが描かれているが――私の本能が不快感の悲鳴をあげることはなかった。
私は、この子たちを知っているのだから。
――【ブリリアント・インセクト】デッキ。
いいや、さらなる進化を遂げた【ゲノムテック・インセクト】デッキだ。
私が
何度も、何度も……この子たちの姿を見てきた。
一枚のカードを選択する。
それは――インセクト・デッキには似つかわしくない、見目麗しい銀髪の少女。
「ファースト・スピリット――!
《「
召喚陣にスピリットが現れる。
魔力が集まって形を成す――そこに出現したのは、全身のボディラインを強調するかのような奇妙にぴっちりとした質感の布をまとう少女だった。
女性としては背が高めの、スタイルの良い均整の取れた肉体。
それは芸術家が石から掘り出した彫刻のようでいて、見る者を圧倒する。
腰まで伸びた銀髪をたどると、少女の顔はバイザーのついたヘルメットのようなものに覆われており――表情は口元しか見ることができなかった。
記憶は無い。それでも身体が覚えている。
ザイオンX――このスピリットから、私のゲームは始まるのだと。
そこで、召喚されたスピリットは予想外の動きを見せた。
「…………」
「……え?」と、私は思わず疑問を抱いた。
メインサークルのスピリット――ザイオンXは、なぜか私のことをじっと見つめている。
まるで何らかの意志でもあるかのように。
「(でも、スピリットには知性なんて無いはずよね……?)」
一方、その対面では。
対戦相手――緑髪の少年は手にしていた立方体のようなものに魔力をこめた。
――どうやら、それはパズルだったようだ。
魔力の光に満ちたパズルはカシャカシャと音を立てて変形する。
変形すると、その中身には召喚陣とデッキがセットされていた。
――パズル型の決闘礼装。
目覚めつつある私の記憶が告げる――恐らくあれは正二十面体のパズルだ。
パズルを手にした
彼の名はウィンド・グレイス・ドリアード。
今日、ユーアが戦うはずだった――『ラウンズ』への昇格戦の対戦相手である、エル・ドメイン・ドリアードという少女の弟のはずだ。
記憶を探る。
その異名は「
姉であるエル同様――「学園」最強集団である『ラウンズ』の一角だ。
――だんだんと記憶がはっきりしつつある。
少年は一枚のカードを決闘礼装にセットした。
「ファースト・スピリットを、召喚」
召喚陣に出現したのは――決闘礼装同様の、正二十面体の立体だった。
生物感が一切感じられない、無機質な物体。
すべての感情移入を拒否するかのような虚無へと捧げられた供物。
――冷たい光。そのスピリットに対して抱いた印象だった。
少年――ウィンドは消え入るような声でスピリットの名を唱える。
「《完全生命体「RINFONE」》――。先攻は、私がもらうよ」
こうして――。
箱のような部屋の中で
先攻:Enemy
メインサークル:
《完全生命体「RINFONE」》
BP0
後攻:You
メインサークル:
《「
BP1500
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