第37話
玄関のチャイムが鳴った。
訪れてきたのはシサだった。稽古着姿ーークリーム色のトレーナーを着たままだ。今日は車ではなく電車できたようだ。黒い車もない、黒い服を着た浜尾さんもいない。
シサはひどく動揺していた。
僕はサンダルを履いて外にでる。家の裏に回った。人気のない住宅地だ。
「どうしたの、シサ」
「知っているんです……あなたがあのヴィデオを観たことも、嵯峨さんになんと言ったかも……」
悲しい顔をしている。
実物のシサは近衛さんの
「なんと?」
「別れたいんでしょう? 私はそんなに嫌な女ですか……」
「君はなにも悪くない。俺が悪いんだ。……俺のわがままにつきあわせて悪かったね」
「そんな口を利かないでください。私は……立派な人間じゃなかった。確かに……思い上がっていましたよ。あなたがずっと落ちこんでいるに違いないって……。自分の境遇と重ね合わせてしまって……」
「会うまえから妄想していた?」
シサは頭を下げ、自分の爪先を見続けている。
僕はそんな彼女の眼をまともに見ることもできない。蛆虫だから。
「部のみんなとはどんな話をしてきたの? 俺がボケカスだから慰められることもあった?」
「それは……」
「俺とのことを相談することだってあったんじゃない? 女同士のつながりがあってさ。それを責めたいわけじゃないよ。好きで女ばっかりの部に参加してるんだし」
「ないわけじゃありません。人を好きになるのなんて初めてで……誰かと話したっていいじゃないですか」
「まぁそうだね。本当にそうだと思うけれど……」
シサは一六歳らしく声を高ぶらせる。
「リュウジ君が私のことをどう思っているからわからないから……あの人たちに相談することはありますよ」
「それをとやかく言いたいわけじゃ……」
だんだんシサの緊張が高まっていく。彼女の震える両手の拳を、僕の眼は追いかけ続ける。
「答えてくださいよ! リュウジ君が私をどう思っているか!」
「あんな形で会わなければきっといい友達同士になれたと思うよ……」
間違っても《恋人同士》になんてなれない。
「君に好意は抱いている。興味深い人間だ。だからといって近くにいて欲しいわけじゃない。その人の能力と人柄は別だから。遠くから見るのと近くにいるのとでは別だろ?」
「私のことが嫌いなんですね?」
「君が好きなのは昔の俺だろ? 《あれは俺じゃない》。今の俺じゃないんだ。同じ名前をして同じ顔をしていてもあれは今の俺とは別人なんだ。……今さら利益なんて受けとれない」
僕はシサを
これに尽きる。
「わ、私はあなたに自分の想っていることをすべて話しました! なのに、なのに……」
「シサ……いやシサさんかな」
僕にはもうシサを呼び捨てにする理由がない。失礼を働いているのはこちらのほうだからだ。
「謝るよ。最初に会ったときにこうしていれば良かった」
「私は……」
シサは石造りの塀にもたれかかり頭を抱えた。
「大丈夫、気分が悪い?」
「ほっといてください!」
シサは泣いている。これは演技なんかじゃない。この淡い色の髪をした少女は一度も嘘をついていなかった。
僕は一歩だけ身を引く。
シサは僕の足下をずっと見ていた。
「どこに行くんですか?」
シサは怯えるような声で僕に言った。
「……君のためになにかできることがあるのなら教えてくれる?」
「ここからいなくなってくれますか?」
時間が凍りついた気がした。
シサは自分の発した言葉に驚いている。
もう僕たちの関係は元には戻らない。
「本当にそう思っているの?」
シサは顔を上げ厳しい顔を見せる。
「自分からそう言っておいて……わかりました。もう無理です。もうキャンセルしましょう。これで満足ですか……。さよなら。演劇部は辞めません。安心してください」
これまでで一番冷たい口調だった。
僕は、踵を返すと、その場から一歩足を進めた。
「私たち……恋人同士でしたよね?」
僕は振り返り、すすり泣くシサの姿を確かめた。
「そうだね」
「……あなたは最低な恋人でした」
僕はゆっくりと立ち去った。そこからは振り返らなかった。
サンダルを履いたまま玄関に腰を下ろし、そのままどれくらい考えこんでいただろう。
世界は無音だった。もう日が落ちている時間帯なのだろう。
シサは電車で帰ったのか……? 浜尾さんを呼んでいるのかもしれない。
彼女にさよならを言えなかったことを思い出す。
僕は家の外灯をつけ、テレビをつけニュース番組にチャンネルをあわせ、冷蔵庫から牛乳をとりだして飲み、
家のドアを開いた。
元天才子役がそこに立っていた。
「……またストーカーするつもりなの?」
「そんなことしか言えないんですか?」
「いったい……?」
「私たちは終わってないと気づいたんです」
「……俺は君とつきあったりなんてしない!」
「あなたはまだ私のことをなにも知らないでしょう? 私がどれだけあなたのことを思っていたか……!」
「知ったこっちゃないね。俺は君のことなんてなんとも思っていないのに」
僕はそう答える。
「あなたは本当にどうしようもない……。あなたのことなんて知らなければ良かった! あんなゲーム観に行かなければ……」
家のまえをとおる近所の住民が立ち止まり、こちらを見ている。
「君は……」僕は叫んだ。「自分のことしか考えてない。ただのエゴイストだ!」
「その歪んだ性格、きっと一生治らないでしょうね!」
こんなことはもっと早いうちに済ませておくべきだったのかもしれない。僕もシサもプライドが高くて、だからいずれ衝突することは避けられなかった。
僕たちはハイになっている。
……僕のほうが深くため息をついた。人とたくさん話すことに慣れていないからだ。
そこでシサが叫ぶ。
「わかりました、全部忘れてあげます!」
「なにを?」
「今日あったことをすべてを。やり直したいならそうすればいい! そうしたいでしょう!?」
「誰が……。早く出てってくれよシサ。そのうち家族が帰ってくる」
「出ていくのはあなたも一緒ですよ。今日私がここを出ていくのはあなたと一緒のときだけです。絶対にここから出ていかない!」
「警察呼ぼうか? それとも浜尾さん? 君のお母様かな?」
「関係ないでしょう……」
「いいか、これだけは認めてくれるかな? 君は思い上がっている。心の奥底では俺を見下しているんだ。これだけは間違いのない事実だ」
シサは顔をひきつらせこう言った。「お願い、リュウジ君。私を認めて。私を好きになって……」
「そんなことになんてならないね」
「私は私じゃないの。今までの私が言ったことは全部嘘だった。わかってくれるでしょ? 私はリュウジ君に対して仮面を被り続けていた。あなたに愛してもらえるような女の子を演じ続けてきたのよ。《あれは私じゃない 》。本当の私は弱いの。堕落しているの。役者を辞めて自分が何者なのかわかってない……。だからあなたが欲しかった。あなたと約束がしたかった。もっと特別な関係になりたかった。私たちはどちらもまだ未熟な子供でしょう? だったら一度喧嘩をしたくらいのことでもう仲直りできないなんておかしいと思いませんか? ねぇ、抱きしめて……そう、それから……わ、私のマンションに……きてください」
僕はシサの部屋の照明をつけた。
彼女は床に落としていた服を身につけると、顔を赤くしたまま僕に笑いかけた。
引退した身分とはいえ、自分のファンに求愛されたら丁重に扱わないと。 @tokizane
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