第36話 音羽リュウジと下校②
副都心線。
僕は二人がけの座席を確保し電車が出発するのを待っていた。車両の内部は空いている時間帯だ。
発車直前、走ってその車両に乗りこんできた少女は……近衛さんだった。
制服姿のままだ。息を切らし、膝に手をやり疲れ果てている。乗客がみんな彼女一人に注目していた。きっと部室に引き返した嵯峨さんが僕を追いかけるようそそのかしたのだろう。シサは今どこにいるのか……。
僕から近衛さんに言えることなんてなにもない。これはあくまで僕とシサの問題だ。
近衛さんの背後でドアがしまる。炭酸水のペットボトルを開けたときのような音がした。
近衛さんは眼を閉じ……額の汗を拭い、深呼吸をした。
数秒後、信じられないことが起こった。近衛さんの汗がひき、呼吸が浅くなり……まるでたった今学校から数百メートル走ってきたことが事実と思われぬほど身体の状態が平常に戻っている。これが『演技』だと?
近衛さんは穏やかな笑みを浮かべ、僕に話しかけた。
「リュウジ君は私から離れちゃダメです」
近衛さんの演技が始まっている。
今演じる対象は、全力で走って疲れ果てたところを人に見せない。
動揺を相手に見せようとはしない。少なくとも《彼女》はそう努めていたはず。
表情が変わっている。普段の天真爛漫な近衛さんの個性というものが消え失せ、
その全身に新たな個性が植えつけられた。近衛さんの身体に人形の魂が宿る。彼女の言動はいつも僕を意識していて芝居がかっていて……つまり真似をするのにうってつけの存在だった。近衛さんはあの少女のことを入部してからずっと観察対象にしていたのだ。
近衛さんにとってこれはーーこの演技は難度が高くないのだろう。
「どうして休むんですか?」
「近衛さんとシサさんが話をしているヴィデオを観たんです。誰かが録画を切り忘れてたんですね」
「わ、私がリュウジ君の機嫌を損ねるようなことを口にしていましたか?」
近衛さんは自分の胸に手を当て僕の顔を覗きこむ。その育ちの良い女性らしい動作は……まるでシサのそれだ。令嬢らしく元有名子役らしくなっている。
近衛さんはシサを演じている。
「……もっている
「?」
「『映画』の撮影につきあってあげます。……僕は一方的にあたえられる愛は貧しいと思った。君は僕になんでもあたえてくれた。言葉も楽しい時間も、傷の舐めあいも、それから……。僕は君に夢中になったよ」
「ならそれで良かったじゃないですか。他になにがいるっていうんです? ……他にどなたか好きな人が……演劇部の誰かですか? 教えてください!」
「公衆の面前だから修羅場にならないって期待していたけれど、間違いだったみたいだね」
僕は乗客の様子をうかがう。僕たち二人を見ていた奴らは一斉に視線をそらした。
「《俺》には君しかいないよ。《でももう、君じゃないと気づいてしまった》」
「私のなにが不足なんですか?」
ったく、真に迫った演技だよ。
「君は問題じゃない。大体俺は相手を選り好みできるような奴じゃないから。俺は……普通の恋がしたかったんだと思う。もし仮に万が一そういう
「今日までの私たちがそうではなかったと?」
近衛さんはこのシーンを止めようとしない。
「そうだ」
そして畜生、僕まで眼のまえにいる少女をシサだと思いこみ始めている。《本番》を始めるまえの馴らし《リハーサル》に近衛さんを使ってしまっている。最悪も最悪だ。
「説明してください」
「俺は……中途半端が嫌いなんだ。オールオアナッシングだよ。君に完璧にのめりこんでしまうか、それともただの友人に戻るか、そのどちらかしかない。中間はありえない」
「『普通の高校生に戻る』とあのとき近衛さんは説明してくださいました」
「それとは話が別だ。俺が恋愛に求めるのはなんていうか……自分にまったく負い目がない状況で相手を愛して、愛されることだ。もっと精神的に満たされるものだと思っていた。
そうならなかったのはやっぱり、対等じゃないからだ」
僕とシサが。
「なんでですか……?」
近衛さんは泣きそうな顔をして首を傾げる。
「やっぱり最初の話に戻っちゃうね。君が好きになったのはサッカー選手としての俺であって、今の俺じゃない。俺はあんな褒められた人間じゃない。凡人だろ?」
「凡人なんかじゃないわ!」
「うわ、急に演技解かないでください!」
近衛さんは僕の右隣の席に腰かける。距離が近い。そんなに詰めて座らないでくれ。
「……僕をわざわざ追いかけてくる必要なんてなかったですよね?」
「シサさんならきっとそうしたと思うから」
「シサはどうしてました?」
「タブレットがないのに気づいて、しばらくしたら部室を飛び出していったわ」
シサが教室にむかっていたのは、やはり僕を探すためだったのか。
「というかなんでシサになりきって話しかけたんですか? やっぱり役作りですか?」
「それもあるけれど……」
近衛さんの体温が高い。今さら走ってきた肉体の反応がきたのだろうか。時間差で汗をかかないでもらいたい。
「ん、匂いする?」
自分の二の腕を鼻に近づける近衛さん。
「僕はなにも言ってません」
「私はシサさんみたいに男の人に夢中になったことがないから《その感情を試してみたくって》……」
感情を試すとか。
「なんか怖い発言ですね。次の舞台では恋愛ものがしたいって言ってましたけれど」
「その予習がしたかったの。あとはリュウジ君がどう思っているか純粋に気になって……」
「だからってこの状況で即興劇始めないでください」
「ごめんなさい」
「びっくりしましたよ。……大会が近いのに個人的なことで迷惑をかけて申し訳ないです。でもシサと交際を続けるつもりはありません」
近衛さんとのやりとりを経た今でもそう思う。
一度決めたことはひるがえせない。次にシサと会ったら話をしよう。
僕たちの関係が終わることはすでに確定している。
「ならせめて……シサさんを傷つけないように伝えてね。難しいと思うけれど」
「ですね」
シサという少女を嫌いになったわけではない。このままダラダラ関係を続けてしまう自分が嫌になっただけだ。
「リュウジ君がそういうのを部にもちこまないところは信頼しているのよ。今まで部の誰かとそういうことになったりしなかったし」
「そこはまぁ……」
僕がそういう男だからだ。客観的に考えて主観的に考えて魅力的な人物だとは思えないから。
「……これからシサさんとどういう関係になると思う?」
近衛さん、同い年なのに僕に対し諭すような口調だ。気にしないけれど。
「僕にはなにが正しいことなのかなんてさっぱりわからないです」
「私もわからないわ。……シサさんとはなるようになるしかないんじゃない?」
「だといいんですけれど、正直自信はありません」
シサが演劇部に参加し続けるという現状維持の回答を述べてくれるかどうかだ。僕が彼女から手を切ることはもう決まっている。
近衛さんは次の駅で降りた。学校に引き返し稽古に戻るそうだ。あいかわらず嵐のような人だった。会う人全員の感情を引っかき回してから退散してしまう。
家に戻ると服も脱がず自分の部屋のベッドで横になった。……眼を開けたらシサがベッドの端に座っているような気がした。気のせいだ。
思い返すのはやはり部活動のことだ。演劇部の連中……元からいた部員は六人、それに一ヶ月まえにシサが加わって現在七人。僕がなにもしなければシサは優秀な女優として居続けてくれる。僕が彼女に余計なことを言ったら……重要な役者を一人なくしてしまうかもしれない。
部内の人間関係について考えた。ここでは二人の組み合わせのみに限定してみよう。簡単な数学の問題だ。
七人の部員から任意の二人をとりあげる組み合わせはーー最初の一人の選択肢が七、二人目の選択肢が一つ減って六。この二つの数字をかけあわせ、そして順列の問題ではないので(その二人の順序を気にする必要がないので))二で割る。つまり七掛ける六割る二で二一とおりだ。
演劇部には二一の二人組がつくりだせる。
ここしばらくの間、僕はたった一つのペアしか注目していなかった。僕自身とシサの組みあわせしか。それはある意味誤りだった。
ここで音羽リュウジ個人がいない場合の数は、六名から二名を選ぶので六掛ける五割る二で一五とおり。
僕がいない演劇部ですら一五ものペアがあるわけだ。
僕一人の影響力なんて大したものではない。
あのヴィデオのように僕に関する噂話ばかりしているわけではない(きっと悪口ばかり言われているが気がするがそこは深く考えたくない)。
……思えば人になんと思われようと気にしないで生きてきた人生だった。競技をやっていたころは特にそうだ。同じ歳の子にはよく妬まれていた。大勢の選手を蹴落とさなければ中学生がプロデビューなんてできるはずがない。
……僕がいなくてもシサは上手く立ち回っているだろう。シサは多分、誰とでも仲良くなれる子だから。あれで自分の長所をひけらかさない外面のいい女だ。転校してきたばかりでも友達はたくさんいる。
同性なのだから部員たちはシサの味方をするものなのかもしれない。それが自然か?
近衛さんも嵯峨さんもシサのために動いていた。僕とくっついて欲しいから。そういう恋愛力学的なものが存在するのだろう。
僕を除いた演劇部の全員がシサの味方だった。僕の意思など反映されず、女性陣が望むままに物事が動きかねない。あの部室は元々僕にとって
だとしたらなんだ?
数週間まえ、シサが部内で公然とデートに誘ったあのとき、この結末は決まっていたも同然だったのか? シサは僕と学校の外でどんなやりとりをしてきたかを部員の何人かに漏らしている……とか? 自分がどんなに音羽リュウジを愛しているか頻繁に言葉にしている……とか?
そんなくだらないことを考えてどうすると思う僕がいる。
それくらいの想像力を働かせないでどうすると思う別の僕がいる。
昔はもっとシンプルに生きていたと思う。意識的にではなく無意識的に身体を動かしていた。
なにも考えずーー頭で考えていたら優れたプレーができない。
ただ眼のまえの、今参加しているゲームに勝ちさえすればそれが自身の栄達につながった。
毎日の練習、毎週の試合。そこで勝つことがすべて。
僕は誰もがうらやむようなヒーローで、なにも悩むことなんてなかった。
同級生の女の子に惚れられて、その対応に苦慮するだなんて夢にも思わなかった。なにせ次の試合が、
その次の試合が、
その次の次の試合が待っているのだ。競技以外のことを想い煩う暇なんてなかったから。
生きることなんて人に任せていれば良かったのだ。
たとえるならば想像上の世界に僕は生きていた。サッカーがいくら超メジャーなスポーツであろうと……結局共有されたルールの元にできあがった集団幻想にすぎないではないか。スポーツも卓上ゲームもコンシューマーもソシャゲもみんなそうなんだろうけれど……。
僕は大したことなんてやっていない。僕がこれまでずっと夢中になってきたのは
僕は自分の意志をとおすことができない。
「湯浅シサ……芳川シサか」
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