第35話 音羽リュウジと下校


 なにかが不足している。

 この件がハッピーエンドで終わるにはなにが不足している。

 僕とシサの関係をうわべだけ観察すれば、「女子ばかりいる演劇部に所属していながら恋人のいない男子高校生が、同い年の少女に惚れこまれ告白される。男子高校生はその好意を受けいれる」。画面はフェイドアウトしてエンドマークが出る。

 シナリオとしては単調で最悪だがーー現実ならそんな顛末でも許される。

 僕は現実これのなにが許せないのだろう。

 近衛さんのことは関係ない。僕にとって演劇部部長は偶像であって恋愛対象ではないから。

 シサが僕に対しなにを想っているかはわかる。彼女は僕に対し正直で素直で誠実で……だから彼女を疑う気持ちはさらさらない。もうそんな感情は捨て去った。

 普通の人は同級生が病気で倒れたからといって学校を休んで看病なんてしない。シサの僕への恋慕は本物だ。

 つまりなにが問題かというと……僕の感情だ。

 感情こそがすべて。

 僕の主人格はこのままシサとの関係を続けることを拒絶している。



 部員の誰かが撮影状態にしたまま止めるのを忘れてしまい、そのままになっていたのだろう。稽古が終わったあとの三人の会話がそのタブレットに撮されていた。

 僕が部室に入り、机の上に置いてあったそのタブレットに触れた理由を突き詰めると……「なんとなく」というしかない。

 そのデータを見つけーー記録された日時は僕が風邪で学校を休んだ日だったーー少し気になって再生してみた。ただそれだけだ。



 自分の教室に戻ってから視聴を続ける。こういうときに平気で卑怯なふるまいができる人間なのだ。

 ……観ていて違和感に気づいたのは、近衛さんが去年僕の誕生日にあった小事件をシサに話したところだった。

 僕が二人をサッカー観戦に誘い、メインスタンドの席でチームの勝利を見届けた。その試合が終わったあと、僕はクラブのスタッフに誘われてグラウンドに降り立ったのだ。

 あのとき僕がなにを決意したのか。

 そしてどうしてこれまで僕が最初のうち、シサを拒絶しようとしていたのか……その答えがようやくわかった。

 僕は独り言を口にした。

「《僕はシサと別れなければならない》」



「ーー今『シサと別れる』つったか?」

 嵯峨さんは僕が手にした一〇・二インチサイズのタブレットを眼にして言う。

 ドアを開く音がきこえなかった。

 いやらしい眼をして嵯峨さんは続ける。

「全部観たのか? 実質隠し撮りみたいなもんだろ? 男のおまえが休んでいたときに撮ってたんだから、誰かが着替えてるところが映っているとも限らんのに」

「んなところ映ってたら観るの止めますよ!」

「つか早くこいよ部活」

 もう夕方だ。生徒たちが教室から解放され数十分が経過している。演劇部の面々は通し稽古にはいっているところだろう。

「今日はいきません。用があるので休むと伝えてください」

「用ってなんだ?」

「シサと話をしようと……二人で話したいことがあるんです」

「シサは稽古中だ」

「終わってからでかまいません」

「あいつ勘がいいからなにが起こってるか察しちゃうんじゃないのぅ」

 嵯峨さんはタブレットを指す。演劇部所有の端末だ。明晰な彼女なら、僕があの映像を観ていることに気づくかもしれない。

 教室にいたままだと所在がバレてしまう。

 僕は歩き出す。嵯峨さんはついてくる。

「逃げんのかよリュウジ」

「あ! 静かにしてください……」

 階段を降りているときに気づいた。直前まで僕たちがいた教室にむかって早足でむかうシサの後ろ姿に。

 シサはひどく焦った顔をしていた。

 僕は勇気を出せなかった。彼女と今ここで話をすることもできたのに。

 学校の昇降口にむかい、下足箱のまえに進む。そこで嵯峨さんは足を止めた。僕もしかたなくそこで立ち止まった。

「帰るのかよ」

「体調が悪いので帰りますって伝えてください」

「虚弱体質かよ」

「実際心臓悪いですし」

「悪いのは頭だろ?」

 嵯峨さんは腰に手をあて僕を嘲った。

「……そうかもしれません。あの映像観て頭がおかしくなったんでしょう」

「なにが不満なんだよ」

「ずっと違和感があったんですよ。どうしてシサと付きあうことに抵抗があったのか。僕はあいつと付きあっちゃダメな人間なんですよ」

「なんで?」

「僕はサッカーに対し貸し借りをなくしたつもりだったんです。あの日、スタジアムであいさつしたときにそう決意したんです。あのときまでずっと友達やチームメイトとも音信不通だったんです。病気のことすら報告しなかった。

 そんな最低な奴だったんです。競技を引退しておいて黙って姿を消してました。だからみんなに謝りましたしサポーターにも引退表明ができた。マイナスは帳消しにできた。だからもうプラスを受けとるつもりはなかった」

 プレイヤーとしての僕に惚れこんだシサを受けいれるべきではなかったのだ。

 最初から。

 あのとき電車でシサのことを無視すれば、物語なんて始まりっこなかった。

 ともかく学校を出て冷静になって考えてみよう。

 嵯峨さんは僕を引き留めた。

「くだらねえ不幸自慢だな」

「は?」

「つまらない理由で幸福から逃げるなよ。そもそも、おまえの事情なんて知ったこっちゃねぇ。湯浅シサはうちのトップ女優だ。

 おまえがシサから手を引いたら演劇部辞めるかもしれねえんだぞ。シサのために新しく役もこしらえて脚本も変えて……いまさら引けるわけねぇだろ? せっかく演技が仕上がってきたってところなのによ」

「それは……」

 演劇部の事情でしかない。僕の事情ではない。

 あまりに嵯峨さんらしい答えだ。

「リュウジ、おまえはなんだ?」

「演劇部の部員です」

「なら演劇部に貢献しろ。大会で勝つんだろ? あの夕陽にむかって誓え!」

 そう言ってまだ青い空を指さす嵯峨さん。

「ギャグにつきあう気分じゃないので」

「おまえの個人的な感情で部に迷惑をかけんなよ。大体よ、そのよくわからん理屈でシサがダメだっつうんなら最初からビシッと断りゃ良かったのに」

「あのときはどうかしてたんです。楽に逃げていたっていうか……」

 容姿が整った女の子に好意を伝えられいい気になっていたのだろう。あまりにも小物だ。

「なら楽に逃げりゃいいじゃねぇか」

「今逃げますよ、嵯峨さんから」

 理由をつけて逃げるのは得意なのだ。二年前もそうだった。

 嵯峨さんは舌打ちして校舎のなかに引き返す。早足で。

 彼女の口の軽さを僕は知っている。本人が認めるとおり超ライトだ。きっと僕がシサと別れたがっていることを部員の誰かに漏らすに違いない。

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