17.
「あと一つだけ。サクと雪乃さんが生きていることを、もうちょっと詳しく聞いてもいい?」
キセカン組と谷岡雪乃は外に移動して、テニスコートの前に設置されたベンチに並んで座っていた。少し前に、テニスの休憩で腰を下ろしたのと同じ茶色いベンチ。
「そうだった。肝心の質問にちゃんと答えていなかったね」
桜は宙を舞う紅葉みたいに柔和に笑った。その姿は、本当に自分の中でいろいろと整理がついているそれだった。しかし次の瞬間、その表情が硬く締まる。
「これこそが、わたしがみんなに話す覚悟ができなかった原因なんだけれど、ここまで来たらちゃんと話します。わたしと雪乃さんは旧人類の中でも特別だったみたいで、時間を捉えた人間なの。厳くんたちが空間を捉える代わりに時間は受け身であるように、わたしたちは空間への適応は絶望的だけれど時間へ干渉できる」
「結局わたしたちふたりしか力を持てなかったようですけれど、恐らく旧人類という種はここに向かっていたのでしょうね。時間を支配する旧人類。空間を支配する人類。時空間を支配する蒼さんたち〈完全なアンドロイド〉といった風に」
なるほど、と誰かが息をのつ。
「ただ、わたしたちも完全ではなくて、時を超えられるのは意識だけだったんだ。意識だけなら過去にも未来にも行けて、だから戦争のことも事前に知ってはいたんだけど何もできなかった。何せ外に出られなかったからさぁ」
雪乃の緩やかで儚げな目に影が落ちる。
「本当に悔しいことですけれど、それがわたしたちの運命だったのでしょう。知ることができるのは、決まっていたから、ということです」
桜もやっぱり拳を強く握って、それでも顔だけはしゃんと上げた。
「だから意識を今に飛ばせるのはいいとして、問題はこの
「瀬尾?」
真っ先にシュノが反応する。よく聞きなじみのある名前に同じものがある。
「そう、シュノがよく話す先生と同じ苗字。あんな人が教師をやってるわけがないと思っていたんだけれど、……ソウちゃんのものまねは、あの人そっくりだった」
そのとき、真正面から声がした。腹の底に響く低音が。
「なんだぁ、話してしまったのですね。他言無用ってあれほど念を押したのに」
「――!」
のけぞった澪が顔を上げると、いつの間にか瀬尾先生の姿が眼前にある。よく整った無精髭の、端然としたその顔が。
彼が紡ぐ言葉はまさに振動。
「まあいいですよ。もう時期あなたたちの役目は終わりますから。津下戸生の三人が一緒にいるのは予想外でしたが、それも些末なことでしょう」
そうして瀬尾時淳は温雅な動作で頭上を指差した。
「最終段階に入ります。……お二人には伝えていませんでしたが、〈世界のイレギュー」〉としての役目、お疲れさまでした」
全く状況の掴めていない観衆を置いて、時淳は尚も続ける。
「それと、第三者に漏らしてしまうのは規約違反ですので。延命はここまでということでよろしいですね? 拒否権はありませんよ。あなたたちの命の手綱はいつでもわたしの手の中に、お忘れなきよう忠告しておいたのですから」
あくまで温厚に。学校内での姿とほとんど同じなのに、押し殺し切れず醸し出される狂気の匂い。
「それでは」
言ってただでさえ近い距離を、丁度正面に相対する澪を踏み付けるように距離を詰める。
それを挑発と受け取った澪が睨み据えていると、踏み出した右足が着地する瞬間、時淳の身体が消えた。
「――は?」
しばらく動けなかった。今にも泣き出しそうな雲も、コートから聞こえる学生の掛け声も、転がり出してきたテニスボールも、全て慣れ親しんだいつもの挙動。だのに、時淳だけが消滅した。
「状況が、掴めないんだけど……」
創世の呟きに、硬直していた身体の管制権が戻る。
「どいういうこと?」
見遣ると、シュノが青褪めている。
「瀬尾先生が〈完全なアンドロイド〉だって――⁉ ……今の感じ、時間を移動したんだ」
「……嘘」
桜が膝から崩れ落ちる。
「雪乃さんと、これからあいつに立ち向かおうって決めた途端に、これ……?」
「何が起きた……」
状況が掴めない澪と創世。
震えながら、雪乃が静かに告げる。
「時淳は、わたしとサクの本当の身体を処分しに行きました」
「――」
澪の周囲から一瞬音が消える。――なんで、瀬尾先生がそんなことを?
「……ごめん、戻る」
次に聴覚がキャッチした声に顔を向けると、桜の瞳に精気がない。
「サク⁉」
シュノの悲鳴。けれど、彼女は瞬時に理解した。
「わたしも、行くよ!」
叫び。西暦にもどった桜を助けるために。矜持を捨てる決意を、もう一度その瞳に宿して宣言した。
「わたしが行かなきゃ」
微かに震えた囁きが捨て台詞。
「シュノ!」
「待って!」
澪と雪乃の声は届かず、残響が姿を消したシュノの跡地にしばし留まる。
行ってしまった。こうなってはもう何も。
……でも、シュノなら。どうにか上手くやってくれるのではないか。
「シュノが行ってしまったこと、……そんなにマズいんですか?」
しかし、創世の問いに、一縷の望みが断ち切られたような顔で雪乃は振り返る。
「……たぶん無理です。蒼さん一人が助けに行ったところで、犠牲が増えるだけなんです」
「――なんで。なんでそんなことを言うんですか」
瞬間的に湧いた感情を理性で押し殺した創世の低い声に、雪乃は全く怯みもせず言葉を続けた。
「時淳はこの時代のアンドロイドでもないんですよ。今から更に二百年後、成長した環の二百年後から来た〈完全なアンドロイド〉なんです! ……蒼さんたちはあくまでも被検体ですけれど、時淳は違う。彼の時代のアンドロイドは〈個人の世界〉もサーバー上にバックアップが取られるようになっていて、例えあの身体を破壊したところで直ぐにスペアの身体に入って活動を再開できるんです」
「……そんな。じゃあ、瀬尾先生は目的を成し遂げるまで止まらないってことですか? 二人は瀬尾先生と対峙したが最後、未来はないってことですか⁉」
再び荒げた創世の声が富勢運動場に響き渡る。異変に気付いた学生たちがテニスの手を止めてこっちを見ているが、気にする余裕など疾うにない。
緩やかに、雪乃は笑った。
「真っ先に殺されるのはわたしでしょうけどね」
「――!」
一度空気を震わせてしまった言葉は取り消せない。雪乃が富勢運動公園に常勤していた事実が意味することに、今更になって澪と創世は思い至った。そんな二人の戦慄に、雪乃は小さく首を振った。
「いいんですよ。覚悟はできていますから。……それより、問いに答えます」
気を使わせないよう無理に上げられた視線が、再び緩やかに足下に落ちる。
「……手がないわけではないんです。いつか、時淳と対立するときが来るとわかっていましたから」
力なく雪乃は語る。
「わたしは生き残ってから富勢運動場にしかいられなくて、ここで受付をしながら、暇があれば未来を見て情報を集めました。いろいろな技術を盗み、こっちの材料で再現する試みを繰り返しました」
「それは……」
「ええ、時淳を止めるためです。わたしたちは時淳に救われた。でも、その絶対的な弱みに付け込まれて、わたしたちは利用されている」
雪乃はさっき時淳がした様に、上空を指さした。
明らかに、〈灯の満月〉がいつもと違う。まだ陽は高いというのに、雲の向こうが赫々と燃えている。暗夜に対比して浮き出るあの威容が、強烈な光源である太陽の下で実現している。
「〈灯の満月〉の主犯は恐らく時淳です。わたしは成長した環の未来を見に行っていたけれど、時淳の姿だけは不明瞭でした。それは、彼が何らかの〈環の成長〉に関わっていることを示しています。……彼が何をしたのかはわかりません。わたしと桜はこの時代で身体を与えられて、ただこの時代で生きることのみを要求された以外何も知らされていないのです。それでも、わたしは彼を止めなければならなかった。桜と今日合流して話して、立ち向かおうと決意を固めたんです」
着用している上着のポケットを漁り、何やら小さい針の入った容器を取り出す。
「時淳を止めるためにこれを作りました。これは未来の技術を活用した、〈シエロ〉を初期化させるウイルスです。個体に打ち込めば、遡ってサーバーのバックアップまでをも初期化します」
澪は気付いて、あ、と声が漏れた。
「はい。これを蒼さんに持って行ってもらえればまだ道はありました」
「あいつ、行っちまった」
「もう、蒼さんに通信する手段はありません。わたしが今から過去に戻ったとしても、先にその時に辿り着くのは時淳です……。…………――ぁ」
手元の針に視線を落としていた雪乃の漏れ出た着意を、澪は聞き逃さなかった。
「何か思いついたんですか?」
「……いや。これは、……流石に」
こちらを捉えない瞳を直視して、澪は自分でも不思議なほど真っ直ぐな台詞を迸った。
「今さら流石になんてことはありません。できることがあるなら、何でもやります!」
脊髄で語ったような言葉だったが、紛れもない本心でもある。そりゃあ内容によっては怖気づいてしまうかもしれないけれど、何もしないで二人を失う後悔よりは百倍マシだ。
雪乃は逡巡したようだった。
しかし低空を彷徨っていた視線を上げた瞬間にばっちりと合った澪の目を見て、その躊躇とほんの僅かな羞恥は消え去った。
「――わたし、厳原さんを〈完全なアンドロイド〉にする手段があります」
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