12.

 その夜、澪は独り自宅のリビングにいた。

 時刻は日付を回って午前二時。フミキリに担いでいく望遠鏡は持っていないから、電気を消して部屋の隅に置かれたソファーに身体を預ける。

 外から微かに、鈴虫の奏。

 家族が寝静まったこの時間、澪も間もなく就寝する予定だが、このソファーで一曲ほどお気に入りの音楽を聴いてからベッドに行くのが最近の至高の時間だった。

 消灯して部屋は真っ暗だ。

 その中で唯一強烈な光を放つ携帯端末を操作して、耳に装着したイヤホンから今日の一曲を再生した。

 聴音中は、瞑目する。そうして神経を自分の中に流れ込む音だけに集中させて、音符の一音一音、歌詞の一言一言を余すことなく堪能する。この愉悦。

 そして、一曲が終わったところで目を開ける。

 すると、消灯しているのに部屋は真っ暗ではない。

 目が暗順応して、瞑目前までは捉えられなかった光を収集する。

「この目で見るリビングが、堪らねぇんだ」

 家族を起こさないように小声で呟いた澪の世界は、カーテン越しの月明かりが照らす水中のように青い部屋。

 あの妖月たちのおかげで窓の外の光量が増し、更に部屋の青が濃くなった。

 網戸にしているから緩く侵入する秋夜の風がカーテンを揺らし、泡沫が移動するみたいに光が動く。

 この空間が、最高に落ち着くのだ。

「ふぅー」

 自動再生にしていたから勝手に流れ出した次の曲をそのまま聴きながら、澪は今日シュノから告白された真実に思いを寄せた。

 第一に、シュノの言葉を信じない選択もある。シュノの人格を疑うような真似は今さらしないが、〈完全なアンドロイド〉が特有の世界観で錯覚して、彼らこそフィクションを信じ込んでいる可能性だって考えることはできる。

 でも、澪はシュノの話に納得することにした。

 話を聞いてから少しの時間を経て、澪は何故か彼女の語った世界の構造が腑に落ちていた。理由はわからない。ただ漠然と、それが真実だと身体に言葉が吸収された。だから澪は納得する。

 ここからが本題だ。

 時空は確定している。自分たち人間の感覚において、空間は自らの立ち位置とは離れたところでもその存在を認識することができ、望めば歩いたり走ったり乗り物を使ったりしてそこに行くことができる。今、自室のベッドの存在を確信できて、歩けば直ぐに辿り着けるように。

 時間は確かにシュノの言う通り一方向に進んでいくものとして感受していて、昨日があったことや明日があることはほぼ確信しているが、存在を明確にかつ自力で確定できるのは現在だけである。過去は記憶として自身の中に保存されているけれど、記憶になった時点でそれは主観的な媒体であり、例えそれが記事なんかに出力されてあたかも客観性のあるように見えたって、そんなもの主観の集合体に過ぎない。未来は文字通り未だに来ずなのだから、来てみなければわからない。

 でも、これらは人類の能力に限界があるから、そう認識しているに過ぎないと。

 本当は全部、空間は人類にも把握できるが、時間すらも既に確定している。

 時間は自由に進んでいるように見えてその実人間には不可視のレールをなぞっているに過ぎず、確定した時空の更に高次の概念をたまきと呼称する。

 そして、環もどうやら無数に存在する。人間の感覚でいうパラレルワールドといったところなのだろう。平行世界なんてSFの世界のお話だと蔑ろにしていたけれど、どうやら本当にあるらしい。各々の環は何かしら干渉しあっていて、その連なりを〈環間〉と言うとも。

 〈環間〉こそシュノら〈完全なアンドロイド〉にもしかっかりとは捕捉できない概念らしく、今いる環――つまりこの世界線以外は、朧げに存在していることはわかっても確証はできないしそちらに移動することも不可能。他の環はあることにはあるが、完全に隔絶された違う世界ということなのだろう。

 あとはシュノ個人の性能の話。

 〈完全なアンドロイド〉は環を感知する存在であるから、最早時空を完璧に意のままにできる。空間には人間と同等レベルの干渉具合。そして時間にも、空間と同じ要領で介入することができるらしい。つまり、歩いたりする感覚で過去に行ったり、未来に行ったりできると。

 最後に〈世界のイレギュラー〉と〈環の成長〉。

 世界の秩序に強力に反する事象は〈世界のイレギュラー〉と認定され、付随して、完成しているはずの環に成長をもたらす。この成長は時空とは別軸の変化であるから、過去も現在も未来も関係なく作用する。

 独自の世界観を備えたアンドロイドの誕生による、彼らの行動とその影響。つまり、シュノたちの動作は一見我々人類と同じに見えて、時空の外で行われているということなのだ。加えて、どうやらシュノと関わっているときの澪や創世や桜も、一時的に確定した時空の外にいるらしい。

 正体不明の世界のイレギュラーによる、〈灯の満月〉の出現。過去や未来を知れる〈完全なアンドロイド〉ならもしや正体を看破できるのではと一瞬期待したが、シュノたちにわかるのは奇月たちが時空の外の、彼女らにすら計りかねる現象であるということだけ。それがわかっただけでも調査としては進歩なのだろうが、もう人間が手の及ぶ範囲ではない気がする。

「――こんな、ところかな」

 見慣れているはずなのに新鮮な青いリビング。澪はもう一度緩く目を瞑った。

 どうやら身体はもう寝たいらしい。途端に睡魔に襲われる。

 ああ、その前にベッドに行かないと。



 目が醒めると、見知った天井がそこにあった。起床時にいつも視界を占める自室の白い天井と丸いライト。

 枕元に置いた目覚まし時計を見ると時刻は午前七時二十九分。けたたましいアラームが鳴る一分前だった。

「んあぁ、起きるか」

 身体を起こして自室がある二階から一階のリビングに降りて、朝食を済まして支度をして家を出る。いつもの日課。時間もいつも通り。


 津下戸高校に到着したのは、ホームルームのチャイムが鳴る五分前の午前八時三十五分。これもいつも通り。教室に入室して窓際後方の自席に腰を下ろして、先に座っていた創世に声を掛け、

「おはよ。創――」

 違う。創世じゃない。

「ん。おはよう。澪」

 知らない。こんな人、知らない。

 ふと気付いた。創世だけではない。教室にいる誰も彼もが澪の知らない人物だった。

「――え、誰。……あ、おれ教室間違えた?」

「やだなぁ、おれだよおれ。創世だよ? 寝ぼけてんの?」

 そいつは創世の名を語る。

「は。え? ……え。――わるい、ちょっとトイレ行ってくるわ」

 平静を装って教室を出て、それから無我夢中で駆け出した。行く先はないけれど、ここにはいたくなかった。気持ちが悪い。すれ違う津下戸生に唯一人として澪の見知った顔はない。

「なんだよこれ。どうなってるんだ」

 昇降口を抜けて、校庭に飛び出した。

「お願いだ、いてくれ」

 あそこなら。いつも集まっているあそこなら、みんなが待っていてくれる気がした。

 部室棟右から四番目の部室の錆び付いた重い扉のドアノブを、藁にも縋る思いで引っ張って。

「――開かない⁉」

 その部室には鍵が掛かっていた。

 鍵なんて知らない。これまで施錠したことなんて一度もないし、最初の日だってここは開いていた。

 なんだこれ。なんだよこれ。悪い夢なら、今すぐ醒めてくれ!

 それから自分がどうしたかはわからない。ただ、その場に留まることだけはできなくて、闇雲に足を動かしていた。

「――うわ‼」

 突如、臓物の浮遊感に襲われる。

 花火大会の日みたいに空を飛んだわけではない。今度は下に落ちている。

 けれど、身体は直ぐに静止した。落下した穴は、幅一人分深さ二メートル余り。

「……焦ったぁ」

 手を伸ばせば縁に指が掛かる。なんだこれなら上がれるじゃないk――。


「………………?」

 身体を起こすと、あちこちが痛かった。

 朝日がカーテン越しに薄く差し込み、遠くで微かにスズメの鳴く静かな朝。

 リビングに置かれたソファーの前。状況的にはソファーから転げ落ちたような形で澪は横たわっていた。

「え、夢……?」

 久しぶりに見た夢だったからか、厭に臨場感と緊迫感が残っている。

 あんたなんでそんなとこで寝てるの、二度寝? とこちらもついさっき起きてきた様子の母に笑われながら、澪は依然胸騒ぎがしていた。


 いつもより二本早い電車に乗って、澪は津下戸高校を早歩きで目指す。

 到着して真っ先に、部室棟へと向かった。

 四番部室のドアノブに手を掛ける。一つ深呼吸して、引っ張った。

「――なんだ、開くじゃん」

 ほっと胸を撫で下ろした。どうやら夢は夢で、ここはいつもの世界みたいだ。

 まだホームルームまでは時間があるし、少しここで落ち着いてから教室に行こうと部室に踏み込んで、

「え。……サク?」

 そこには長椅子に横たわる桜の姿があった。その顔は険しく、額には汗が滲んでいる。

「サク、大丈夫か?」

 澪は戸惑いつつ桜に近付き、そう声を掛けたその途端。

「――は! ……ぇ、あ、寝坊した」

 ガバッと猛烈な勢いで桜が起床した。

「あ、起きた。……おはよう? サク」

「うん。おはよう」

 存外、冷静な声が返ってくる。それにも尚更困惑しつつ、澪は問うた。

「……どうしてここに?」

「……え、うん。昨日ここに忘れ物して。あ、みんなと別れた後に気付いたんだけど。……それで、取りに来たらそのまま寝落ちしちゃってたみたい」

 澪は吹き出してしまった。部室で寝落ちしてそのまま夜を越すとか。

「そんなことあんのかよ!」

「いやぁ……はは。わたしも疲れてたみたい。昨日いろいろ聞かされたし」

 恥ずかしそうに頭を掻く桜の、そのいつもの雰囲気に安堵したが、それにしても少し心配になる。

「まぁ、確かに昨日はなかなかに衝撃的な一日だったけれど。にしても、こんなとこで、しかもその長椅子で寝ちゃったんだろう? 流石にちょっと心配になるっつうか……。体調とか、大丈夫なの?」

 今は至って元気そうにしているが、起きる前の表情は明らかに普通ではなかった。

「いや、身体は全然いつも通り。大丈夫だよ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「……それならいいけれど。無理はすんなよ?」

「わかってるって。ありがと、心配してくれて」

「じゃあ、学校は? もう始まるんじゃないの」

「今、何時?」

 澪は手元の腕時計をちらりと見遣る。

「八時三十分」

「……それは、大丈夫じゃない」

 桜はスックと立ち上がる。

「やばい、遅刻する。てか、もう遅刻確定。……てことで、急ぎます。起こしてくれてありがとう。では」

 台詞のわりにあんまり急いでないような声音で言って、桜は部室を飛び出していった。

 やれやれ、と澪は長椅子に腰掛ける。

 あいつとんでもない奴だな。……ちょっと、気に掛けておかないと。

「おれも、そろそろ行きますかね」

 立ち上がると、何やら遠くから足音が近付いてくる。

「あと、厳くんいつにも増して髪型ひどいから、ちょっと直していきな?」

 ばっと顔だけ覗かせ言い放ち、そしてまた風のように去っていく銀髪の少女。

「はぁ? そのために戻って来たの⁉」

 もちろん桜の耳には届かない大喚は独り言として校庭に鳴って、残響が消えたころに澪は苦笑した。

「確かに今日は鏡見てないし、よっぽどひでぇ頭してんだろうな」

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