10.

「……あー、あそこに置いてきたか」

 次の月曜日。放課後、いつもの部室にて。

 今日は澪と創世のクラスが早く放課になり、部室には二人だけだった。さっきから筆箱を漁っていた澪が唸る。

「ん? どうした」

「いや、たぶん、おれのボールペン富勢に置いてきたっぽい」

「はぁ⁉ ……ってことは、まさかあれも――」


「あっはははははは!」

 シュノと桜が部室の扉を開けると、創世の大爆笑が二人を出迎えた。

「どうしたの? そんなに笑って」

 ここまで気持ちよく大笑いされると、理由も知らぬのにシュノは口角が上がってしまった。

「いやさ、傑作だよ! こいつボールペンをこの前のテニスコートに置いてきたらしいんだけど」

 指差された澪は何やら少し赤くなっている。

「……くく、……そこに、『谷岡雪乃杯』のトーナメント表も一緒に置いてきたんだってさ! そんでさっき富勢運動場に連絡したら、ボールペン受付で預かってますよって!」

「えぇ! それ絶対谷岡さんにバレてんじゃん!」

「そうなんだよ! あーやべぇ、おもろすぎる!」

 完全にツボっている創世がどちらかというと面白いが、シュノも桜も笑いの渦に巻き込まれた。

 あの日、受付をしに行ってくれたのは澪と創世だったから、シュノは直接谷岡さんを見たわけではない。二人によると二十代後半の長身の女性で、あんなところで受付をしているのが不釣り合いな美人ということだった。そうは言われても具体的にどんな方なのかわからないけれど、受付のお姉さんがテニスコートであの紙を拾って怪訝な顔をしている場面を想像すると、申し訳なくもありつつ笑いが込み上げてしまう。

「いや、みんな笑い事じゃないって。……鬼気まずいんだけどどうするよこれ」

 澪だけ一人落ち着かない様子だったが、部室に反響する笑い声が収まるのにはそれなりの時間を要した。


「どうするも何も、取りに行くしかないんじゃない?」

 笑い疲れて若干痛いお腹を摩りながら、シュノは澪を見据えた。

「そうだよなぁ。…………」

 何やら、ちらちらとこちらを窺っている。

 いつもの澪は荒野に佇む狼といった感じなのだが、今日に限っては段ボールの中の子犬みたいだった。

 しかし、そんな顔されなくても、

「一緒に行ってあげるって!」

「おれらも気づかなかったわけだしな」

「……今日はみんなで富勢に行くので、いい時間になるんじゃない」

 澪の表情が日の出の空のようにぱあっと明るくなって、そのいつもと違う純粋さにシュノは笑みが零れてしまう。

「ありがとう。……なに笑ってんだ、シュノ」

「いーや。何でもない」

「……まあ、いいや。サンキューな」

 澄ましたシュノに、澪は自分自身の滑稽さに思い至ったようだった。

「じゃあ、おれバスの時間調べるよ」

 一足先に荷物を纏めて出発の準備を終えた創世が、携帯端末を取り出してホログラムを起動。桜がそれを制止する。

「まだ日は長いし、歩いて行ってみない?」

「ん、おれは全然いいけど……」

「え、……五キロあるよ」

「五キロくらい余裕じゃん。ね、シュノ」

 視線がシュノに集まった。

「わたしは、全然へーきだけど。アンドロイドだし、疲れないし」

「……だよなぁ。……わかった、行こう」

 渋々、といった感じだが創世の同意を得たことで、キセカン組一行は富勢運動場に向けて出発した。

 サッカー部が巻き上げる砂埃を被りながら通用門に辿り着き、その後、一度大堀川に出てから川沿いを北上した。

 以前に澪と桜が散歩で引き返した道を通ってそこから幾何か――。

「……」

 道すがら澪が散歩の魅力を語っていて、桜が加勢し創世が時たま反論する。ぎゃあぎゃ騒ぎながら歩んでいく三人の後ろに付いて行きながら、シュノは微かに聞こえたヒグラシの声に、追憶に足を突っ込んだ。


 みんなと出会ったのは、ちょうど一年ほど前だ。あの日も今日みたいに、秋の訪れを予感させる色なし風が残蝉の鳴き声を運んでいた。

 この年の四月から津下戸高校に入学したシュノは、新鮮な「世界」に触れていつも目を輝かせていた。

 わたしの生きる世界はこれ。わたしの生きる今はここにある。

 目的を遂行する機械というよりは、人間と共に生きる相棒となることを期待されて開発された〈完全なアンドロイド〉は、個人の精神世界とは別に世界中の情報通信網にいつでもどこでもアクセスすることができる。世界がどんなものなのかは、この世に生まれたときから知っていた。むしろ無知でいることなんかできなかったし、意思を持ってアクセスしに行く必要はあるにせよ、シュノに流れ込む情報は膨大なものだった。

 けれど、〈シエロ〉によって形成される〈個人の世界〉に蓄積していく情報は何か特別な過程を踏んだものだけで、強烈な情動が引き起こされるとか、実際に体験するとか、そんな経験があって、初めて「わたし」は作られていく。

 女子高生型アンドロイドとして製造され、間もなく派遣された津下戸高校での生活が「シュノの世界」の形成に大きく関わっていることは言うまでもなく、ここでの実体験は刺激的且つ星々のように輝かしい記憶を紡いだ。

 そもそも〈完全なアンドロイド〉に学校に通って授業を受ける必要などないのだが、シュノを含めた十人の同胞が津下戸高校の門をくぐったのは、人間を模倣して精神世界の充足を図るため。高校生活を通じた〈完全なアンドロイド〉としての成長過程と、人間の津下戸生への影響のデータ収集のためだった。

 〈完全なアンドロイド〉というが生まれてから二年余りしか経っていないのだから、あくまでこの世代のアンドロイドたちは被検体だ。全世界で十万ほど稼働している〈完全なアンドロイド〉は、全て国際アンドロイド研究機関の管理の下、ほとんど人間と同等の自由な生活を与えられている。国際アンドロイド研究機関の傘下、〈くりあん〉がシュノたちの住まいを管理しているのもそのためだ。

 少し話は逸れたが、津下戸高校で過ごす「今」は均質的な情報とは一線を画していて、忘れないし朽ちないアンドロイドにとって、生まれ持って付与された能力が絶大なだけに、日常の些細で切実な輝きが心から尊かった。

 それに〈完全なアンドロイド〉は世界を〈環〉として捉えられるから、その些末な人間の営みが今を作っていると知っている。

 だから、シュノは限りある人間との日々を大切にしたいと思った。

 だから、彼らと共に過ごしたいと望んだ。

「……だから、言えないんだ」

 この世界のこと。彼らの過去と未来のこと。

 己の願望と、負った運命と。果てしない葛藤と、種としての選択を、「わたし」の裏に隠して。


「……ほい、到着」

 津下戸高校を出発してから一時間ほど、四人は富勢運動場の管理棟前にいた。

「んね、ソウちゃんだって余裕だったでしょ?」

 身体を傾けて創世の目を覗き込むようにした桜が問う。

「そりゃあ、おれだってテニス部でビシバシ練習してんだから体力的には余裕だけどさ。ちょっと今日はめんどくさいなって思っちゃっただけ」

「そっかぁ。まだ散歩の魅力は伝わらないかぁ。……厳くん、こいつ手強いぞ」

「ああ、手強いな。そんで、そこまで散歩に乗り気なサクもちょっと怖いな。まあ、嬉しいことではあるけれど」

「怖いとかいうな。……なんか、この体力と時間を浪費している感覚が癖になってきたというか」

「おれより危ないハマり方してないかそれ」

「いいの。それで、わたしが楽しいと思えるんだから」

 朗らかに桜は笑う。

 澪と創世も困ったように顔を見合わせて、でもその口角は上がっている。

「……そうだね!」

 合わせて言って、シュノはどうしても笑えなかった。かつてないほどに渦巻く情動が、外に漏れださないようにするので精一杯だったから。

 ただの、何でもない放課後なのに。何でわたしはこんなことになってるんだ。

 シュノは「わたし」の手綱を離してしまった。

 一度生まれてしまった情念は、本当に渦なのだ。自分でもどうしようもない激流になってしまうのだ。身体中に溢れ出したそれは、今の自分の全てを塗り潰してしまうのだ。

「じゃあ、ちょっとボールペン受け取ってくる」

「一人でいいのか。付いてってやってもいいぞ」

 おどけた創世に澪は苦い顔。

「腹立つなぁ。ちょっと付いてきて欲しい自分にも腹立つなぁ。……いいよ、行ってくるから、待ってて」

 澪はガラスの自動扉をくぐって管理棟の中に入っていく。受付窓口は向かって右側にあるようで、右折した澪が、一瞬シュノと目があって壁の向こうに消えた。


「ん、お待たせ」

 それから程なくして澪は三人の元へ帰って来た。

「どうだった? 谷岡さんにトーナメント表のことバレてたか?」

 真っ先に身を乗り出す創世を、澪はやけに醒めた視線で往なす。

「いや、……それについては何にも触れられなかった。……え、一緒に置いていたから見られてないはずがないよな? 逆に怖いんだけど。思えば、おれに向く視線が詮索するそれだった気もするし」

「うわぁ、今後ちょっとここ使いづらくなっちゃったな」

「ソウちゃんは関係ないだろうよ。おれの問題だから、ソウちゃんは気にせずこれからも使え?」

「……そうか?」

 同意にも少し不満げにも取れる声音の創世に、澪は瞑目した後、開き直った。

「ま、いいか。考えても仕方ない。調子に乗り過ぎない、慣れないことするときは気をつける、を今回の教訓として清算しよう。……じゃ、帰ろっか」

 澪は来た道を歩き出して、富勢運動場から帰路へと進んでいく。

「はは、切り替え早くて助かるよ」

「……うん。帰りは北柏駅まで一緒でいい?」

 澪の右に創世、左に桜。もう一つ左にシュノが少し遅れて追いつく。

「……」

「……。おお、そうだな。北柏駅からそれぞれ電車に乗るでいいんじゃないか」

 そこまで言って、澪は突如立ち止まってシュノを見据えた。

「んで、シュノ。流石にさっきから元気なさすぎだな」

「――!」

 集まった視線に、シュノはたじろいでしまう。澪だけではない。創世にも桜にも気遣いと戸惑いの色が覗いていた。それが、未だに整理できていないシュノの心に負荷となって上積みされる。

「……いや。何でもないよ」

 無理にでも笑おうとした。

「ちょっと、身体の調子が悪いだけ。……あ、あとで、メンテナンスセンターにでも行こっかなぁ……――」

 澪は少し逡巡したように見えた。けれど、一度逸らされた視線が再びシュノを捉えたとき、その目には何らかの決意で紫電が差していた。

「いや。悩んでいることがあるなら、話してみない?」

 その声音は、優しくはなかった。

「……」

 返す言葉がない。今のわたしでは用意できていない。

「……隠してること、あるよね?」

「……」

 それを話す決断ができていない。話したことで離してしまうものたちを整理できていないし、話すことで否定される今までに耐えられる気がしない。

「……。おれは基本的に、隠し事は尊重するスタンスなんだ。そいつが話さないって決めたことには意味があるだろうし、その思いは無下にしていいものではないと思うから。そんで冷たい言い方をすれば、そいつの、個人の問題だから」

 不思議だ。

 澪の声は、身体なんて障壁がないものみたいに心に浸透してくる。

「でもさ、シュノのそれは、シュノだけの問題じゃないよね? おれたちがいるから悩んでるんだよね? ……だって。今まで、おれたちにそんな目を向けたことなんてないじゃない」

「……それは」

 そんなにひどい目をしていたのだろうか。

「……ふぅー、うん」

 ああ、本当に、〈完全なアンドロイドわたしの身体〉の精巧さを呪う。瞳の動きまで、表情で心が伝わってしまうまで、再現してくれなくったってよかったのに。

「おれは、。だから、言いたいことが、おれたちに伝えたいことがあるなら、なんでも聞くよ」

 創世も、桜も、澪の言葉を力強く首肯する。

 ああ、でも、自分では整理できない心が、情念のままで伝わってよかった。澪が言葉を掛けてくれたから。掛けてくれた言葉で気付けたから。みんなが、こうやって受け止めてくれるから。

「ほんとは、わたしは、……聞いて欲しかった。自分の中だけにしまっておくのは、もう辛かった」

 語尾が震えたか細い声は、大切に大切に抱きとめられた。

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