8.
九月三日。
「えー、というわけで。授業、やっていきますね」
夏休みが終わった。
澪は窓際且つ後方の自席で頬杖を突いて、前に座る創世の背中をぼんやりと眺めていた。
この一か月余りの印象的な出来事は、結局四人で行った手賀沼花火大会が最後だった。
幸いなことに、四十万人が浮遊した後、落下するという惨事において死者は出なかった。大半の人間が鼓膜をやられ、空中で人や物に接触したり恐怖のあまり気絶した人も若干名存在したが、こと落下の衝撃での死傷者はいなかった。
理由は不明。
ただ澪の感覚では手賀沼の水面に接着するほんの数秒前に、身体に急ブレーキがかかったような顕著な減速が感じられた。
手賀沼に着水した後はシュノがあっという間に岸に引き上げてくれて、あれだけのことがありながら耳が聞こえない以外の被害は皆無だった。
我孫子のマンション群が近かったおかげかシュノのような〈完全なアンドロイド〉も多数来場していて、人で溢れ返った手賀沼で溺れている人間を救出して回ったり、地上に落下した人間のケア、屋台等の後片付けなどを感嘆すべき手際のよさで行ってくれた。
因みに耳の方も重症には至らず、一週間もすれば聴覚が回復したため万事解決。
創世と桜も、澪と同じような経過を辿った。
ただ、被害が大きく抑えられたとはいえ、人類が経験したことのない原因不明の実害の伴った超現象に、流石の津下戸高校も対応せざるを得なくなった。下った決断は夏休みいっぱいの校内立ち入り禁止。自宅待機が推奨された。
そんなわけで、八月四日からは自宅で各自〈灯の満月〉調査を行っていた。
澪も情報を集めようと努めたり、散歩がてら〈灯の満月〉を観察、時にスケッチをしたりしていたが有益な調査結果は得られなかった。
「では、夏休み明け一回目ということで、人類の歴史を軽く振り返るとこからやっていきましょうかね」
二学期最初の授業は現代社会。教師はシュノのクラスの担任でもある瀬尾先生。
人類の歴史なんて現代社会で触れる内容ではないのだが、この先生は割と自分の興味関心に則って授業を展開するきらいがあると、一学期をとおして生徒たちは学んだ。ただし、要点を絞った明快な授業により空いた時間を使って雑談してくれるので、生徒間の授業評価はすこぶるよかった。
「我々は制歴二〇二四年に生きているわけですが、この暦、〈制歴〉の前には〈西暦〉の時代があったのですね。この〈西暦〉は実に四千年続きました」
教室前方のスクリーンに図を用いたスライドを映しながら、瀬尾先生は話を進めていく。
先生の授業は基本的に、彼が最初から最後まで喋り倒して終了する。
「この時代に生きた人間は……じゃあ、たまには当てちゃおっかな。厳原くん。この時代の人間を何と呼称する?」
はずなのだが、いきなり不意打ちが来た。復習回だからだろうが。しかし、難しい問いではないから助かった。
「あ、……えっと、〈旧人類〉でしたっけ」
「はい、そうですね。我々、人類の前には〈旧人類〉と呼ばれる種が生息していました。では、〈旧人類〉は何故滅びたのか。前の席の相出くん、わかるかな?」
創世が鼻からやや大きく空気を吸い込む音が、後ろの澪に聞こえた。
「自然選択、です」
しかし、吐き出された言葉の息の量は吸引量とは不釣り合いに適正量で、その後静かに吐息だけ漏らす音が聞こえてきた。
どうやら発声する直前で冷静になったらしい。
「そうですね。〈旧人類〉はいわゆる自然選択によって滅びてしまいました。ここら辺、軽く纏めときましょうかね」
スライドが移り変わる。そこには〈旧人類〉の特徴と、以前、創世が熱弁していた自然選択の概要が記されていた。
「旧人類は西暦二千年頃から、ある強力な感染症に苦しんできた種でした。その感染症は非常に感染力が強く、それでいて重症化率も高いという極めて稀で厄介なものでした。やがて事実上、その感染症に敗北した旧人類は外出を制限され、彼らの生活様式は、生活の全てが自宅の中で完結する方向へとシフトしていったと考えられています。感染症の発生から二百年が経過した頃には、生殖活動を行うとき以外は全く外出しない生活形態が築かれていました」
澪にはにわかに信じられない生態であったが、これらは古文書などで裏付けられた通説であった。
「西暦四千年にもなると、外出が可能だった頃の生活・文化などは疾うに歴史の底に沈んでしまい、病原菌と接触しない自宅が旧人類たちの世界の全てとなっていたのです。移動する、という行為がほぼ忘れ去られた種になっていたわけですね」
聞いていると、耳が痛くなる話だ。既知の事実でもあるため、澪は視線を窓の外に逸らして傍聴を続けた。
「しかしここで突然変異が起こったのですね。つまるところ、感染症に耐性を持った個体が誕生したのです。彼らは徐々に数を増やし、二千年に渡って閉じられていた屋外を開拓していきました。感染症が蔓延った世界に適応したのは、当然、この病気に耐性を持つ人間たち。自然選択の働きによって少しずつではありますが、旧人類は割合を減らしていき、感染症に耐性を持った種、すなわちわたしたち〈人類〉が世界の第一種へと移り変わっていったわけですね。あ、ではここで、スライドの通りではありますが自然選択という考え方の概要を――」
ここらで、もういいか。
澪は瀬尾先生の話から意識を遮断した。
なんとも、心が苦しくなる歴史である。
制歴二〇二四年の今からすれば遥か昔の出来事ではあるけれど、世界の変貌に自由を奪われ、散っていった種がいるということ。彼ら〈旧人類〉の犠牲の上に、澪ら〈人類〉は生きているということ。
〈旧人類〉が自由を奪われた、なんて言ってしまうのは彼らを〈人類〉の常識に当てはめた暴力的で無意味な同情であると自覚しているが、それでもやっぱり思うところがある。
歴史を学んでいると、数多の「死」の上に自分が生きているのだと思い知らされる。
実際に見たことなんかないのに人が死ぬ瞬間が脳内を駆け巡って、その「死」のトンネルの先に自分がいる感覚に陥る。
だからか、同時に「生」についても思考する。
死んでいった彼らの分まで生きる、なんて利己的な情動に突き動かされるわけではないのだけれど、「生きるってなんだろう」と強く思う。
個人としての「生」と、人類という種全体の「生」。
意識と身体。
一人称視点から逃れられない自分と、同じく別の一人称視点を持つ他者との関わり、などなど。
そんなことを考えても仕方のないような気もするけれど、思い至ってしまうし、思考を放棄したくないというこだわりがある。
「……ん?」
しばらく瀬尾先生の語りをバックミュージックに取り留めのない思考を繰り返していると、ズボンのポケットに入れていた携帯端末が振動した。
『みんな元気してた? わたしちょっとやりたいことがあるんだけど』
シュノからだった。
今の携帯端末はホログラムで画面を空中に表示することができるのだが、電池消費が速くなるので澪は滅多にしない。よって、机の下でこっそりグループチャットを開く。
画面から目を上げると創世も不自然に屈んでいて、澪と同じことをしていると見て取れた。
『何? やりたいことって』
『わたし、テニスしたい』
『いいね。テニスなら、おれ現役硬式テニス部員だから腕の見せ時だ』
『絶対ソウちゃん無双じゃん』
『そういう澪だって、中学時代はソフトテニスやってたんだろ』
そうだけれど。確かに部長ではあったけれど。硬式と軟式じゃ最早別のスポーツだってソウちゃんだって知ってんだろ。
『てか、なんで急にテニスなんだ?』
『わたし、この身体の性能をちゃんと把握できてないなと思ってさ。いろいろやってみて、得意なこと、そうじゃないこと、確かめてみたいんだよ』
『なるほど。いいよ、今度テニスコートとってみんなでやろうか。ソウちゃん、コート取れる?』
『ああ、手続きしてあるから柏市内のコートなら取れる』
『みんなで、ソフトテニスしたらいいんじゃない?』
ここで自分が送ったメッセージの既読が三になり、オンライン上の会話に桜も参加した。
『確かに。それなら現役のおれと、本業だった澪とでバランス取れているかもな』
『シュノはどっちでも大丈夫なの?』
『全然問題なし! どっちも未経験だからね!』
話は纏まった。ふう、と再び画面から視線を上げると、瀬尾先生とばっちり目が合った。
「そこ二人。当てられたからって気ぃ抜くなよー」
怒っている気配は感じられないが、腹の底に響くような渋い声には迫力があって、澪と創世は慌てて携帯端末をしまって背筋を伸ばした。
「……はい、見えてるからね。集中してね」
「「すみません」」
その後もポケットは振動しっぱなしだったが、授業が終わるまで携帯端末に触れることはできなかった。
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