5.
制歴二〇二四年、七月二二日。
この日は一学期最後の登校日で、体育館に集められて校長の話などに時間を潰される終業式とかいう行事を終えた後は放課となっていた。
「……いや、高校になってからはわりかしためになる面白い話してくれるからいいんだけどさ」
例のごとく右から四番部室にやってきた澪は、誰も来る気配がないので一人で弁当の包みを広げていた。
「夏休みかぁ」
明日から学校に来なくてよくなることは大変喜ばしいことなのだが、同時に、これまでのように放課後みんなで集まるということもできなくなる、という事実に気付いて少し寂しくも感じる。
長椅子の右端に座って、左隣の空いたスペースに弁当箱を置く。
今日の弁当はうどんに冷凍食品のかき揚げ。別添えのちっちゃいタッパーにきんぴらごぼうとほうれん草のお浸しが入っていて、小分けになった市販の麵つゆも付いていた。
この学校は食堂がないから生徒は昼食を持参する。毎朝、ほぼ欠かさずに弁当を用意してくれる母には、何かと分かり合えないことが最近多いのだけれど、感謝はしている。
かき揚げの上から麺つゆをかけて、そこからは黙々と食べ進めた。
最近は暑くてしょうがない。この部室もシュノが持ち込んだ扇風機のおかげで幾らかマシに過ごせるけれど、それも八月に入ってしまったら長居はできないだろう。
アンドロイドが日常生活に普通にいるぐらい科学が進歩しているというのに、何てったってこんな暑い思いをしなければならないのか。まったく。
「あ、そうか。ここは誰にも使われていないことになっているんだった」
流石に無人の部室にエアコンを設置するほどの余裕はないということか。というか、そんなことをするほど馬鹿ではないってことか。
「……悪くない高校なんだよな、ここ」
うどんを啜るなんていう動作は十七年も生きていれば自動的に行えるというもので、澪は食事をしながら一年生の頃に思いを馳せた。
自分で呼称するのも何であるが、スーパー中学生だったという自負を担いでこの津下戸高校に入学した厳原少年は、早々に、聳え立っていた自信という塔を根元からへし折られた。
だって、通っていた中学の中では比肩するものがいないほど優秀だったのだ。中途半端な人に指図されるくらいなら自分でやると、学級委員も、在籍していたソフトテニス部の部長も引き受けた。その年齢にしては要領も悪くなかったため難なくこなしてみせたし、学業においても部活動においても成績優秀。
ただ、それらを両立させ得る能力に任せて中学生活を優等生として振舞う中で、心の中には悶々とした情動が蓄積していった。
「リーダーに価値があるのって、他人のために苦しむことができるからでしょう?」とか、「試験のために勉強する今日という日。大会のために練習する今という時間。試験も大会もいざやってくればあっという間に過ぎ去ってしまうただの一日であるのに、その一日の付属品に成り果てた今日を積み重ねることに意味はあるの?」とか。
それでも、一度あの空間で自分に与えられた「優等生 厳原澪」という役割を捨てることなんてできなかった。それに、その役割が澪に絶対的な自信を与えてくれていたことも事実で、自信によって己を保っていた澪に、それを放棄する強さなどとてもなかった。
それが津下戸高校に進学してみればどうだ。如何に自分が井の中の蛙であったかを思い知らされた。
しょうがなく優等生を引き受けているんだ、という大義名分を掲げてその実必死になって守っていた自信が、そんなもの津下戸高校の生徒の中ではどうしようもなくちっぽけで馬鹿らしいものだったかと気付かされるのに、それほど時間は必要なかった。
ここの生徒は自分より要領がよくて、努力ができて、優秀な学生ばかりだ。
檻に囲まれた猿山でお山の大将気取って、被害者ぶって仮初の自信に酔っていた自分の未熟さを思い知った。
「まあ、ここで腐らなかったこの性格だけは、今でも胸を張れるかな」
徒に積み上げた自信を綺麗さっぱり吹き飛ばされた澪は、寧ろ肩の荷が下りたといった感覚になっていた。
今までの少し苦しいプライドの維持方法は間違っていたし、そんなことで維持されるプライドなんて些末なものだったのだな、と。
第一にその事実に気づかせてくれた時点で、津下戸高校に来た甲斐はあったってものだ。
加えて、この学校の生徒は心のどこかで津下戸生であるというプライドを持っていて、思考力のある出来た人間である。よって、皆が自立して自律しており、他所に気を回す必要が端からなかった。
生み出される安心感と居心地の良さは程よく客観的な視線を感じさせ、それでいてどんな自分であっても認めてもらえるのだという更なる安息をもたらしてくれた。
元来、極度にマイペースな澪にとって、津下戸高校という空間は極上のそれだったのだ。
だが、厳原澪という人間は不思議なほどに一筋縄ではいかない。
個人の精神充実具合と対人関係の充足度合は別の問題であり、澪は己の性格に正直になった結果としてどんどん他人への興味を欠落させていってしまった。
「ほんと、めんどくせえ人間」
でも、その面倒臭さも含めて「自分」を大切に思っているから、澪は直ぐには変われないのだ。
思考の矢印はほとんど自分に向いていて、他人に興味がないから期待もできない。
他人に期待していないから何があっても何をされても心は穏やかで、結果的に澪は優しい人。
だから、周りからの好感度は高くてそこそこの交友関係を築いてはいたけれど、ある一定の深度は超えない、どこか物足りない関係。
津下戸高校という箱を大切に抱えて、でもその箱の中身は空っぽのまま。
その空洞が、箱の軽さが、いつからか日々への虚無感へと変換されていた。
「そういえば、今はそんなことないんだよなぁ」
心の穴が埋められ出したのはいつからだろうか。
思い当たる節は、当然ある。
それは、ここで出会った日。
――ピコン、と携帯端末が鳴った。
「ソウちゃんはテニス部の練習で来られない。……シュノも友達と遊ぶから今日はごめん、と」
一人空き部室で昼飯を食っているのって惨めだよな、と急に世間体が気になってきて、澪は無言で残りのうどんを啜り上げた。
「あ、二人は来ないらしいね」
それから程なくして、桜が部室に姿を見せた。
「らしいね。……ソウちゃんは夏休み始まって直ぐに大会があるって言ってたからな」
「シュノもクラスの人と一学期お疲れ様カラオケに行くんだって」
「なんか二人とも充実してるな」
「……ね」
最近の桜は更に表情が柔らかくなって、言葉数も増えた。
「……あ。というか、もしかして明日から夏休みってこと?」
今の少し瞠目する顔も、二か月も遡ればしていなかっただろう。
「そうだよ。今日が終業式だった」
今度は、僅かに瞳に影が落ちる。その振れ幅は小さいながら、相好がころころと変化するようになったものだ。
「……そっか」
「こうやって気軽に集まれなくなっちゃうのは残念」
桜の返事が遅れた。
「……そ、そうだね。それは、ほんとにそう思う」
「? なんかあったか?」
「いや、何もない」
「……そう」
「ほんとに」
「……なんかあったら言ってくれよ?」
「大丈夫。ありがとう」
「ん」
今は無理して追及する時ではないと、澪は判断した。
「てか、桜もここじゃない学校に通ってるんだよな。そっちも夏休みに入るんじゃない?」
「うん、まあそうなんだけど。……明後日から、夏休みかな」
しばし落ちる沈黙。
扉の向こうでは、次第に砂を鳴らす音が大きくなっていた。サッカー部がウォーミングアップでも始めたのだろう。
遠くから、蝉の鳴き声が聞こえる。
夏休みの話題で盛り上がる生徒の声も微かに聞こえてくる。
そこにいる人間が黙りこくっても、部室には絶えず夏の音が鳴っている。
「ねぇ、そろそろ通ってる高校、聞いてもいい頃……?」
「……まーだ」
「まだか」
「まだ、というか。やっぱり、こればかりはしばらく不問にしておいてくれないかな」
「……わかったよ」
さっきまで少し泳いでいた瞳にがっちりと見つめられて、澪は頷くしかなかった。
それに、その眼差しこそ桜の意思表示であるから。
桜にとってこの話題は、話さない、と決めたことなのだろう。
その決断には意味があって、興味本位で無下にしていいものではない。
今の澪に隠し事はないけれど、でも、ひとつふたつなら隠し事だって悪いものではないと知っている。
「逆に、おれに対して何か言いたいことがあったりしたら何でも言ってね」
「……?」
「あ、いや。ついでに、というか。おれは言いたくないことを無理に話してもらおうとは思わないけれど、反対に、言いたいことを我慢されるのは嫌だから」
「……ふふ。澪はほんと人がいいよね。その距離感が、今のわたしたちを作っているんだと思うよ」
「そうかもな」
「あれ、自覚あるんだ」
「そういうわけでは、ないかもだけど」
「なにそれ。……これぐらいが、丁度いいよ。澪が実はパリピでしたって言われても、ギリなにも感じないと思うもんわたし」
「それは何かしら感じて欲しいところだけど。でも、確かにおれらって、毎日のように顔を合わせる程度に仲いいのに、近過ぎはしないよな。丁度いい」
「たぶんこれは、奇跡の距離感だよ。キセカン」
「……最近、小ボケ挟んでくるよな」
「え? よくない、キセカン」
「半笑いで何言ってんだか。自分でも馬鹿らしくなっちゃってんじゃんか」
「……キセカン」
「シュノあたりに吹き込めば流行るよ、きっと」
ぷっ、と吹き出した桜に、知らず澪は頬を緩ませる。
その後、部室で話をしているうちに身体を動かしたくなって、澪と桜は学校を出て散歩をすることにした。
通用門を出て左に進み、しばらく進んでからもう一度左折して小路へと入った。
「……こっちに何かあるの?」
「いや。そうではないけれど、この道に惹かれた」
「え、ただの路地だと思うんだけど」
「それがいいんじゃない。学校の前の道は車も人もビュンビュン通って忙しない。なのに一本入っただけでこれだぜ。喧騒を背後に静かな道を歩くのがいいんだよ」
「……なるほど。流石散歩マスターだね」
澪の趣味の一つとして散歩があった。以前から一人考え事をしながら歩くことが好きで、ふとした暇な時間によく行っていた。見知った道を歩くのもよし。初見の道を自分の勘頼りに進むのもよし。一人で歩く時間は不思議と頭が冴えて、思考が促進する感覚が心地よかった。
それが最近になって、桜風に言うならばキセカン組で歩くこともぼちぼち増えてきた。どちらかと言うと四人で歩くことは稀で、誰かが欠けているときに二,三人で津下戸高校近辺を散歩することが多かった。
「しかし、意外とみんな歩けるよな。十キロくらいなら平気で付いてきてくれるじゃん」
「ま、確かに……? でも、喋りながら歩いてるとあっという間だし、なんなら物足りない時もあるし、そんなもんなんじゃない?」
たぶん、そんなもんではない。
澪はよく一人歩きをしていたため今では十キロ単位で散歩をしてしまうが、それが異常であるということは心得ていた。だから、散歩の良さを広めたいと思ったこともあったけれど、人に無理に歩かせてしまうのは気が引けて自重していたのだ。
「いや、まあ歩く人は歩くかもだけど、歩かない人はほんと歩かないよ? 一キロとかでも歩きたくない人っていっぱいいるみたいだし」
「へぇ、そうなんだ」
桜はいまいち納得していない様子で首を傾げていた。
「おれは、逆に何で桜がここまで余裕なのか知りたいけど」
「ま、小さい頃スイミングスクールとか通ってたし、体力はあるんだよ意外と」
「……へぇ、そんなもんなのか?」
幼少期の経験はその後に多大に影響するとは言う。スイミングは確かに体力が付きそうだ。なにせ、幼少期に水泳を習っていた経験はない澪だったので、その発言を完全に否定することはできなかった。
「お、川が流れてる」
しばらく歩くとその道は大堀川という小川と直行しており、澪と桜はそこで右折し川沿いの道を進むことにした。
「……そういえば、この川沿いの道は歩いたことあった。流山の方からずっと続いてんだよね、確か」
川の流れと道の雰囲気に記憶が呼び起されて、澪は少し前に流山市のショッピングモールから徒歩で帰ってきたときのことを思い出した。
「同じ道でいいの?」
「あー、もう全然いいよ。おれ特に川沿い歩くの好きだし」
「それは何かわかるかも。水の流れている音が落ち着くし、こういう道は脳死で真っ直ぐ歩いていればいいし」
「そうそう、……わかってるね。サクも、わかってきたね」
おどけて言って口の端をわざとらしく吊り上げた澪に、桜も大袈裟に顔を顰めてみせた。
「別にわかりたくもないね。散歩マスターの気持ちなんて」
「釣れないねぇサクは」
「そんなブラクリじゃいつになっても、ね」
待っていてばかりでは、ってことだろうか。
「はは。……おれに、自分から動く勇気とかないしな」
ここでしんみりする必要などないとわかっていたのだが、澪はどうしても言ってしまいたい衝動に抗えなくて、浮かんだ言葉たちを放出した。
「おれは他人の気持ちがわからないから。正確に言うと、わかるはずもない人の気持ちを、わかっているなんて納得することはできないから」
「人は経験というフィルターを通して物理世界を把握して、それを元に思考もしているから、それぞれの経験が違ってその後のプロセスも異なる人間が同じ世界を見ている保証だってないし、ましてその内の気持ちなんてわかるはずもない、だっけ?」
「……ああ」
澪が続けようとしていた言葉をすらすらと空で唱えた桜。
「前もこの話したっけか」
「前もっていうか、二人で散歩するとかなりの確率で話しているよ」
そうだったか。
澪はポリポリと頭を掻いた。
「でも、厳くんのその慎重さは尊重するけどさ、厳くんがわたしたちのことを思って話してくれた言葉は大抵的を射ていて、ありがたいものだよ」
今日の天気は快晴で、相も変わらず〈灯の満月〉に見守られた川岸にさらさらと風が流れる。
二人は歩みを進める。しばしの沈黙。
散歩のいいところは、沈黙で待たされている方も手持ち無沙汰にならないことだ。
「そうなのか。……おれはこの思考に囚われているから。それに、このこだわりをまだ捨てる気にもなれないから。だから、サクがそう言ってくれても簡単には納得することはできないけれど。でも、そうやって認めてくれることは本当に嬉しいから、ありがとな」
「うん。いい意味でめんどくさいね、厳くんは」
小さく頷きながら、今度は桜が頬を緩ませた。
「……いや、しかし暑いな」
もうしばらく歩くと大堀川に沿った道はまた別の道に直交してしまい、川岸を歩くことはできなくなってしまった。
「……あづい。ここらで、引き返しとく?」
桜の疑問符をぶら下げた決意表明に、澪とて反対する理由はなくなっていた。
「よし、帰ろうか」
「帰ろう」
「来た道でいい?」
「いいよ。……じゃあ、帰ろう」
そうして、川と直交した道を歩き出す桜。
「ちょ、そっちじゃないって。何かそういうボケ、どきっとするからやめてよね」
「ああ。そっちかそっちか」
一足先に来た道を歩き出した澪の後ろを、桜は小走りで追いかける。
追いついて、横に並んで、二人の影が道沿いの外灯を等間隔でなぞっていった。
二人が津下戸高校の前に戻ってくると、丁度よいタイミングで友達と別れたシュノが合流した。
「ねね。わたしたちで〈灯の満月〉の調査、してみない?」
開口一番、興奮気味なシュノはいつにも増して瞳を輝かせていた。
クラスの友達との間で、頭上の奇月の話で盛り上がったりでもしたのだろう。
「いいんじゃない?」
あくまでそっけなく応じたけれど、澪は控えめに心を躍らせていた。これで夏休み中も頻繁に集合する口実ができたから。彼らと過ごせるならば、どんな夏も実のある時間になることが保証されたも同然だから。
「高校生の自由研究、だね」
「お、それいいねサク! その響きワクワクする!」
「そんな平和なものなのかね、あれ」
「それはやってみなきゃわからないじゃない?」
「……取り敢えず、ソウちゃんにも伝えよう」
桜がグループチャットに送信したメッセージには秒で既読が付き、「よし、ちょっくら本気を出しますか」と創世愛用のダイニンちゃんスタンプを添えた返信が返ってきた。
「じゃあ、決まりだね! 夏休みも部室に集合!」
声高に宣言したシュノの声が、湿度の高い夏の熱気を爽やかに伝って響き渡った。
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