3.

「そろそろ、〈灯の満月〉がいい感じになってきたんじゃない」

 一通りみんなが笑い尽くして、笑いが笑いを呼ぶ際限のないループをようやく抜け出したあたりで、シュノが長椅子から立ち上がった。

 小窓の外、鉄格子越しの空を見遣ると、すっかり日は落ちて待ち構えるは夜闇の暗。

 扉の一番近くに座っていた澪も腰を上げた。

「じゃあそろそろ、夜の〈灯の満月〉とのご対面といきますか」

 三人の無言の首肯を確認して、錆び付いた重い扉を静かに押し開けた。

 特段、覚悟などしていなかった。だからだろうか。

 目に飛び込んできた光景に、笑い過ぎてポカポカに温まっていたはずの心が、さーっと瞬時に冷却された。


 そこに待ち受けるは、燃えるように緋色に輝く燎原の火。

 思わず息を呑む。

 今度こそ吸い込まれるように、それを見続けることしかできない。

 身体を襲うは怪奇への悄然であり、威容への畏怖だった。

 五月闇の澄んだ黒に滲む、赫々と睥睨する満月たち。

 身を燃やしても眺めていたいと思わせるほどのうつくしさ。


「これは……やばいな」

 語彙力など真っ先に焼却される異様に、澪は何とか抗って目を背けた。

 こんなものが昨夜からずっと地上を見下ろしているのか。

 昼間もその厳然具合は大概のものであったが、暗夜に浮かぶそれは比べ物にならない。

「――なんなんだ、あれは」

 創世の呟きには意思が感じられず、何も言えない自分を誤魔化すために取り敢えず口にした、といった風であった。

 シュノも桜も、押し黙っている。

 澪は基本的には周囲に無関心で、その思考は内に内にと向かっている。故に、内心に生じた情動の断片を掴んで言語化することには長けていて、言葉を用いて己が心情を整理することにも熟達していた。

 だから、彼は妖月の威光の下でも真っ先に心魂を取り戻すことができた。

「これは何なのか。どこから来たのか。……いつまであるのか」

 けれど澪の問いに返る答えなどあるはずもなく、やはり落ちるのは沈黙だけ。

「綺麗であることは間違いないんだけれど。まさかそれで終わるなんてことはないよな」

 ようやく我を取り戻した創世の呟きに、澪は静かに頷いた。

「荘厳で、蠱惑的で、しかも何処にいたって何をしていたって拝めるっていうお手軽な超現象。……ほんと勘弁してほしいよ。こっちはただ平凡な高校生活が送れればそれでいいってのに」

 こんなに神々しい麗姿であるのに、いや、有り得ざる夢幻的な崇高美であるからこそ、〈灯の満月〉はいずれ人間に惨害をもたらす厄災に思えて仕方なかった。

 ただ、そこに在るだけで。ただ、視界に入るだけで。我々人間は忘我を免れない。

 それは〈灯の満月〉がうつくしいからであり、実害のない今は陶酔することはできても対策を講ずることは叶わない。

 いつまでも、そこに在るというのか。

 これからの日々は、本能が鳴らす警鐘と付き合い続けていかなければならないのか。

 澪にはそれが心底うんざりするものであった。

 正体がわからないからこそ、日々の思考に常時まとわりつくノイズ。これだけの怪奇へのプロテストだから強度も相当で、それに抵抗し続けながら今を過ごしていかなければならない。

 そんなの、たぶん、心がもたない。

「ほんと、きもちわるい」

 シュノの消え入りそうな囁きに、澪は大きく頷いた。


「――ん、あの月、なんか変じゃない?」

 不意に桜が上空を指さした。

「今は正常な月というものが存在してないんだけど……そういうことじゃないな?」

「違う。一つだけ明滅してる月がある」

 何となく意識的に満月を見ることは避けておきたかったのだが、桜にこうも言われてしまっては見ないわけにもいかない。

 桜の指差す空を見上げると、確かに、ちょうど校庭の端に設置されたナイター照明の内一つの延長上にある〈灯の満月〉が変則的に点滅していた。まるで電池が切れかけた懐中電灯のように。

「おわ、ほんとだ。あれだけ変」

 ちかちか、ちかちか。ちかちか、ちかちか。ちかちか――っ。

「危ない‼」

 明滅していた満月の灯がぷつんと途絶えた瞬間と、創世の叫びはほぼ同時だった。

 突如、上空から一台のナイター照明が落下した。

 それは夜闇のから出現し、澪ら四人ごと圧し潰さんと部室棟に接近する。物質は重力によって地面に引きつけられる。それが出所不明の怪品だろうと物質ならば例外はなく、理不尽な挙動から回避する間もなく、強烈な光を放つ照明によって禄に状況も確認できぬまま四人は潰されようとしていた。

 澪は反射的に閉じられた瞼の裏に、唐突に訪れる自らの終わりを想像できてしまった。

 ぎり、と歯を食い縛る。人間の反射神経では、人間の脚力では、迫りくる巨躯を逃れることは最早叶わない。畢竟、己の運のなさを嘆く暇もなく――。

 たんっ、と隣の地が鳴った。

 脊髄反射で音の出所に移った視界に、黒髪の少女の残像が映る。

 彼女は跳んだ。尋常ならざる反射速度で地を蹴って、異次元の速さで元凶を迎え討った。

 地上十メートルほどの地点で身を捻り、生じた回転を鮮やかに力と変換してナイター照明のど真ん中を蹴りつける。彼女の華奢な身体の質量では、落下する巨躯のエネルギーを受け止めきれない。よって、足が接触した瞬間に彼女も部室棟の背後に建つ校舎に向かって吹き飛ばされたが、それも空中で身体をコントロールし壁面に着地を決めてみせる。

 受け止めきれずとも弾くことには成功したナイター照明が校庭へと吹っ飛び、砂地に支柱から突き刺さって停止した。

 浅い呼吸の音が三人分、閑寂を取り戻した校庭に響く。


「いやぁ危ないところだったね」

 ようやく呼吸が安定してきた頃、彼らの命を救ったヒーローは帰ってきた。

「……はは、ほんと。助かった」

 乾いた笑いが漏れた。

 シュノには感謝してもしきれない、なんてどころじゃない。

 命の恩人へのお返しを、澪は想像することができなかった。

「ありがとう。本当に」

 おれからも、わたしからも、と続いた創世や桜に「そんな改まんなくたっていいよ」と照れ臭そうに笑うシュノ。

 彼女の驚異的な運動機能。凡そ人ならざるそれ。

「これぐらい、わたしたちアンドロイドには何てことないんだから!」

 そう。彼女は文字通り人ならざる存在。人間として生きながら、超常的な性能を有した上位種。人知を結集して約二年前に開発された〈完全なアンドロイド〉である。

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