2.

 時刻は午後八時半。

 澪たち四人はいつもより長く学校に居残って、夜の〈灯の満月〉を観察することにしていた。

 一度校庭に出て砂埃を浴びた後は、部室に引きこもって夜が来るまでひたすらお喋りに興じていた。

 今日も相変わらずの、当たり前となった最上の時間。

 四人の中での大抵の話題は本当に取るに足らないくだらないものばかりで、澪は時たま家族に学校での話題を問われることがあったが、直ぐには思い出せないか、答えたくないものがほとんどだった。だからいつも適当にごまかしてやり過ごしていたりして。

 でも本当は、この過ぎ去っていく四人での瞬間だけは大切に大切に扱う自分で居たくて、適当な言葉に当てはめて体外に放出してしまうのがもったいないような気がしてしまっていただけで、それを覚えていないとか恥ずかしいとかいう感情で上書きして納得していた。

 しかし今日は一味違った。

「なあ、自然選択ってなんか惹かれるものあるよな」

 こんな創世の台詞から始まった、今日のお喋りは珍しく人にも話せそうな時間であった。

 こっちが楽しく喋れればいいのだから、親に話せそうとかほんとどうでもいいのだけれど。

「んあ? 自然選択?」

「えらく急だねソウちゃん!」

「……それは、どういう意味なの?」

「……あ」

 澪は思い出す。

そういえば、創世は生物オタクなところがあった。

 今学期が始まって直ぐに行われた文理選択で、澪と創世は理系クラスを選び、シュノは文系クラスに進むことを決めた。

 澪は理系に特別な興味があったわけではなかったのだけれど、選択で悩んでいるときに生物オタクの創世の強烈な勧誘に推される形で、提出用紙の理系の欄に丸をしてしまった。

 論理的思考も数字にも特段苦手意識はなかったから後悔しているわけではないが、創世と二人でいるときに彼の熱烈な生物トークに付き合わされる羽目にはなった。

 創世自身もその異常なまでの熱さを人に知られるのは幾らか抵抗があるようで、彼のこの一面を知っているのは澪だけであったのだが、めでたく本日、新たに二人に解禁された。

 シュノと桜の場合は、生物オタクであることを知られるのが恥ずかしいというよりも、興味がない話を展開されても苦痛だろうな、という気遣いから話さなかった側面が強かったようではあるが。

「自然選択っていうのは、ある集団において生存に有利な形質をもつ個体が次世代により多くの子孫を残すってことなんだけどさ」

 いつにも増して、創世の瞳は凄いキラキラしていた。

 もう、その衝動を抑え切れなかったのだろう。

 澪は創世の心中を想像して口角が上がってしまったが、シュノや桜は言わずもがな平然と受け入れてくれることだろうから、何も案ずることはなかった。

 ただ、教室移動の最中とかに「ダイニンって可愛くない?」みたいなことを頻繁にぶっこんでくるから、生物未履修の彼女たちにそういうのはやめてあげて欲しいけれど。因みにダイニンというのは細胞中にある細胞骨格というレール上を、必要な物質を載せて移動するモータータンパク質というタンパク質の一種である。物質を頭上に担いで尺取虫のようにえっちらおっちら運ぶ様子が堪らないらしいが、澪にはいまいちピンとこなかった。

「あー、なんかこの前生物の授業でやったなぁそんなこと」

「これ生物の話なんだね?」

「わたしもシュノと同じく生物未履修なので……」

「そうそう、生物これ。でね、この自然せ………………んはぁ! やっちまった!」

 創世はふと我に返ったらしく、軽く頭を抱えながらさり気なく女性陣の様子を窺って、

「……実はおれめっちゃ生物が好きで、生物の話をしたくなっても今まで何とか我慢していたんだけどなんか箍が外れたというか――」

 シュノはニカっと笑って創世の膝をバンバン叩いた。

「べっつに我慢しなくてもいいじゃん! 話したいこと話しなよって!」

「わたしも、別に、全然聞くよ。たまには知的な話も嫌いじゃないし」

 桜にも受け入れられたところで創世の表情は日の出の空のようにぱあっと明るくなって、こいつこんなに可愛かったっけ、と澪はクツクツ笑いが込み上げてしまう。

 なんにせよ、めでたしめでたし――、

「それに隠せてなかったし。創世がそんな出で立ちで生物が引くほど好きだってこと、気付いてたし。ね、シュノ」

「そうだね、全然知ってたよ。毎日いるんだから隠し事なんかできないと思いな!」

 シュノにわざとらしく指を突きつけられて、創世は疑問と反省と安堵が混じり合ったよくわからない顔になっていった。

「……なんだ。そうか、ならこれからは遠慮することはないのかな。……あれでも今サク引くって!」

「言葉の綾だよ」

 澪は耐えきれず吹き出した。


「生き物は『進化』をするじゃん? それってほんと奇跡みたいなことで、よくよく考えてみたら想像つかないくらい細い線を辿って生き物って今を生きているんだなって思うんだ」

 何とか創世は調子を取り戻して、澪らも彼の話に耳を傾けていた。

「生き物の身体は細胞って単位が大量に集まって形作られているわけだけどさ、その一個一個の細胞の中にも、またその細胞を構成する微小な器官が存在しているわけ」

 澪は記憶の奥底に直行してしまっていた生物の授業をなんとか引っ張り出した。

 確か、葉緑体やらミトコンドリアやら小胞体やらが細胞の中にはあるんだったか。やっぱりあまり覚えてないけれど。

「んで、そういった身体の中に存在している本当にちっちゃい器官たちの絶妙で精密な振る舞いによって生き物は生きてるんだ。DNA周りの仕組みとか、おれが個人的に好きなネクロトーシスとか、知れば知るほど魅力的過ぎて」

 創世の鼻息は荒い。

 澪は生物の分野でこれほどの熱量を持つことはできないし、生物に限らず、ここまで熱くなれる何かに出会ったこともなかった。だから、こんなにも熱中できるものをもった創世には素直に感心させられるし、羨ましいとも感じていた。それはそれとして。

「ネクロトーシス? ……アポトーシス? なら聞き覚えがある気がするけど」

 先程のシュノのように、今度は創世の瞳に輪光が一周する。

「アポトーシスってのは制御された細胞死のことで、細胞にあらかじめ組み込まれたプログラムによって一定の手順に沿って細胞内部から崩壊して細胞死が生じるんだけど、まあこれも凄い惹かれるものがあるよね。うん、まあ今はそれは置いておいて、制御されない細胞死ってのがネクローシスと呼ばれる現象のことで、ネクローシスは基本的に外的な要因によって細胞膜がぶっ壊れて中身が出てきちゃうような死に方をする。でも、中にはネクローシスみたいな死に方をしているのに実は制御されているってものも存在して、これをネクローシスっていう」

「一見、他所の攻撃によってやられたようで、その実、自己に内蔵されたプログラムによって死んでいるってことか。……なんか確かに、生物学以外の分野にも当てはめられそうで想像を掻き立てられるかも」

 勉強しているときに使う部分以外の神経が刺激されているような感覚になって、澪は奇妙な高揚感を覚えた。まるで夢の中で、自分の能力を超えてマルチタスクをこなしているかの如き。

「そう、それよ! 生物を知るとそれぞれの器官や組織が織りなすストーリーを肌で感じるんだよ。そのストーリーが信じられないくらい精巧で精密で。これが自然に組み上げられたものだって言うんだから言葉にならない。それがおれの思う生物の魅力!」

 創世の熱量によって、部室内部の温度も徐々に上昇してきているような。

「なんか、わたしもちょっと興味でてきたかも」

 シュノの嬉しい返答に、創世は指を鳴らす。

「……わたしは、まあ変わらず。話ぐらいは聞いてあげるけど」

 間髪入れずの桜の低温に僅かに創世は前のめりにずっこけて、けれど爽やかに笑ってみせた。

「それでもよし。興味を持ってくれたらそれは嬉しいけれど、おれの話を聞いてくれるだけである種の欲求は満たされるから」

 桜は穏やかに微笑んだ。

「わたしたちが使われているみたいで癪だけれど、みんなで過ごす時間になるわけだし……悪くはないよね」

 こういった、内に触れられるような感情の吐露を、最近になってようやく桜はしてくれるようになった。低温ながら、それでも確かにある温度の暖かみを知れるようで、澪たち三人は思わず頬を綻ばせる。


「と。それで。その奇跡みたいな、おれら人間を含めた生き物たちって『進化』の果てに辿り着いた身体を有しているわけで。まあ、ここが境地ってわけでもないけどさ」

 話しながら、創世は良い仲間に出会えた幸運をひしひしと感じていた。

 別に興味を持ってくれなくたっていいのだ。ただ、専門外でとっつきにくくて小難しい話を、こうやって真剣な眼差しで聞いてくれる。自分でもたまに嫌になる、この偏好具合を当たり前のように受け入れてくれる。いや、曝け出す前から受け入れてくれるだろうと確信すら持てる。そういった距離感が心から尊いものに思えた。

 他の思考――自分が身を置いている環境への感謝に神経を割く余裕が、何度も何度も繰り返した勘考の再生にはあった。

「『進化』って聞くとさ、この奇跡みたいな身体に辿り着いた軌跡に思いを馳せるとさ、どうしてこの構造に辿り着けたんだろって思わない? 同じ種はみんなその形をした身体に辿り着いていて、それらの構造に進化するまでに生じた、成熟の要因ってなんだろうって」

「確かに。何があったらこの再現性のある完璧な仕組みに辿り着けるんだろうって思うかも」

 いつも前向きに自分の話に付き合ってくれるシュノも、その後ろで結局は耳を傾けてくれる澪も桜も。彼らの醸し出す雰囲気は他のそれとは一線を画していて、暖かさ、というより創世にとっての居心地の良さがまるで違った。

 社交的な性格で友人も多い創世であったが、そんな彼にとってもこの部室での時間は何にも代えがたいものがあった。自分も彼らにとってそんな存在であってほしいと、切実な思いが零れるほどに。

「そう、でもさ」

 創世は小さく息を吐いた。この事実に行き当たったときの衝撃が、当時の鮮度を保ったまま再び身体を貫いたような。

「今を生きる生物が現在の姿になった理由ってのは、その身体が優れていたから進んで変わっていったってよりかは、ような環境に身を置かれて、なんだよな。それを何度も何度も繰り返して、その数多の死の果てに生み出された正解なんだよ」

 言葉にしただけで、心なしか心拍数が上がってしまうようなこの事実。

「これが自然選択。生物に選択権があるわけでもなく、絶対的に優れたものが生き残るわけでもなく。選択する権利はいつも『自然』にあって、その環境に適応できたものが生き残って、そうじゃないものは子孫も残さず死んでいく。ちょっと極端には喋ったけれど、……残酷な自然界はこうやって回っているんだとさ」

 しばしの沈黙が部室に落ちる。

 この身体に生まれ落ちた幸運と、自分が正解である日はいつまで続くのかという焦燥。

「……シュノが生まれた理由って、おれたちが生きられない世界に変わったときに、ちゃんと生き残れるようにってことかもな」

 澪がふと呟いた。その声音は決して冷たいそれではなかったのに、台詞の残響までが、部室に重く落ちてなかなか消えはしなかった。

 創世もそうだと思った。

 この中で生き残るのはシュノだろうなと。

 ちらりとシュノを見遣ると、彼女の視線は葛藤に所在をなくしていた。

「まあでも、『進化』って凄い長いスパンで起こるものだから、おれら一世代でどうこうなるもんでもねえけどな!」

「そういうことなら、考えてもしょーがねぇ」

 創世も、応じた澪も。

 少し無理をして軽い声を出してみても、一度その空間に落ちた諦念の憂苦は直ぐには消えてくれない。でも、四人は安直な比較に惑乱するほど愚かでもなかったから、気まずい雰囲気にはならなかった。ただ、一時心に不自然な凪が訪れて、次第にそれもぼやけていった。

 ……あー、でも、やっぱり。

「ちょっと話題間違えたかな。こんな時に」

 部室の外には生まれたての怪奇が空を席巻していて、厭にリアリティが付与されてしまう。

 暗く人気のない学校の一室でする話ではなかったかもしれない。言霊だって、馬鹿にはできない。

 澪も余計なことを言ってしまった、という顔をしていた。

 けれどこの話を始めたのは自分の方だし、と創世は反省して、

「冷静になると、なんか違うなぁ――」

「自然せんにゃ……く」

 何を思ったか一切表情を崩さない桜の静謐な声が、甘噛みに歪んで部室に響いた。

「ん、自然……?」

 困惑に一瞬固まった創世に見つめられて桜の頬はみるみる紅潮し、その横でシュノがたまらず吹き出した。

「ぷっ、あはははちょっとごめんサク! ごめん、可愛い、あははははは!」

 赤面のまま精一杯澄んだ顔を作ったってもう遅い。

「………………緊張と緩和はお笑いの基本」

「え⁉ ちょっとお笑いってあははははお腹痛い!」

 どっと部室に笑いが爆発する。

「……、そんなにうけるのこれ」

 部室に起こった想定外の爆笑に桜は驚いて、何故か少し満足気でもあった。

「ははははは、なんでちょっと得意気な顔なの⁉」

「……くくく、っははははは!」

 もうこうなってしまったら終わらない。

 創世も澪もよくわからない相乗効果で最早止まらなくなってしまった笑いに悶絶しながら、「今度ジュースでも奢るか」と心の声がシンクロした。

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