1.

 厳原いずはられいの髪型は安定しなかった。

「なぜ、みんな整った髪型で街を歩いているのか」

 澪は寝癖を大幅に変更する技術を持ち合わせてはいない。毎朝、起床後に洗面所の鏡の前に立ち、その静謐な眼差しで己の踊り狂った黒髪を射抜くのが日課である。目元が隠れるか隠れないかの長さの、緩く癖の付いた前髪だけはいつも同じだが、それより上がなんともまあ。時より呆れて半眼になってしまうのも無理はない。

「なあ、いっそ、最早これは芸術的なのではないか?」

 そうだ。きっとそうなのだ。

 安定世界の中に偶発的に生じた「不安定」はオリジナリティという絶対的な価値を得る。この常に変化する髪型こそオリジナリティそのものではないか。

「しかし、おれは学校に来るまでに無数の奇異の眼を集めてきた」

 それは、一度屋外に出れば万人から惜しみなく注がれる。そして間違いなく、賛美や憧憬ではなく侮蔑や憐みの色を含むとげとげしい白眼視。

 あろうことか、澪を知る人の中には、澪の髪型がまともな日は厄日になると主張するものもいた。

 なぜ世間は評価しない。なぜおれは評価されない。

「澪は背丈もちゃんとあって顔も悪くないんだから、その髪型さえなんとかすれば様になると思うんだがなぁ」

「おい、おれの話を聞いていたのか。これは就活生が喉から手が出るほど渇望している個性だぞ」

「……そのうえで、だよ」



 千葉県柏市、交通量の多い大きな国道沿いに、春暖の空気にけったいな会話を響かせている二人が在籍する津下戸つかと高校は所在する。

 最寄りの柏駅からも程近いこの高校は県内で三本の指に入る進学校であり、毎年有名大学に多くの生徒を送り出しながら、勉学以外での分野の成績も目を瞠るものがある。校風は自由、校是は「創造と自律」。学校側もこの校是を気に入っているらしく、文化祭の時期には「創造と自律Tシャツ」なるものが販売され、「創造と自律ソング」が校内スピーカーから流れ出す。昨年度の卒業記念品は「創造と自律マグカップ」だったらしい。実用性があって大変素晴らしいことだ。

 遥か昔に学生が制服撤廃運動を起こし、学校側と火の粉を散らす大激戦を繰り広げた後にこれをものにし、今では私服で登校することが許されてもいる。

 制服がないことをどう捉えるかは人それぞれで、なんでも気楽に着たいものを着て行けるから良いとする者もいれば、毎朝時間のない中で服を選ばなければいけないのは面倒だと難色を示す者もいる。後者は人にそれなりの好感を持たれるよう身なりに気を遣い、制服代が浮いた分、社会で通用するファッションセンスを身に着けようと努力する、これからの未来を担う学生としては大変結構な心構えを備えた生徒に多いと言われているが、もちろん澪は前者である。

 服なんてなんだっていい。かっこ悪く見られるのは嫌だけれど、まあそれなりに見えるのならばそれ以上は目指さない。最低限の見た目と、重視するのは機能性。パーカー最強。てか、パーカーのヒモってなんかオシャレじゃない?


 そんなわけで今日も紺のパーカーに身を包んだ澪と、相出あいで創世そうは部室で放課後を過ごしていた。

 髪型は乱れているが質自体は程よい艶の黒髪である澪に対面するは、短く刈った茶髪が目立つやや強面の野生的な顔立ちをした青年。彼も服装にこだわりはなく、基本的に部活動のジャージかユニフォームを着ている。創世は偏屈な澪が真の意味で気を許している、数少ない友人である。

「にしてもほんと、何とも牢屋みたいな部室だよな」

 別段不満があるわけではないが小さく吐き捨てた澪の言葉が、くわん、と壁に反響した。

 全部で四つの棟から構成される東西に長い校舎の背に隠れるように、主に運動部が使用する部室棟は古びた白壁を春風に晒している。

 コンクリートにそのままペンキを塗りたくった壁面に、錆が目立つ鉄製の重い扉がずらりと並ぶ。部室なんて所詮は物置と更衣室になれば御の字であるのだから、冷たいコンクリートに囲まれ広さは四畳半ほど、扉と反対側にささやかに設置された小窓から校舎に遮られなかった微弱な光が差し込む程度の粗末なお部屋でも文句をつける者はそうそういない。

小窓の外には何故か鉄格子が取り付けられているので、天井に設置された配線剥き出しの蛍光灯を消してしまえば本当に独房のようであるが。今みたいに。

「なんで電気付けてないの?」

 創世は至極真っ当な疑問を、先に入室していた澪に投げかけるが、

「ん、いや別に…………めんどくさかった……的な?」

「……忘れてたとか言うんじゃないでしょうね」

「……んふ」

「んふって。……ほんといつか人間であること捨てちゃいそうだよなおまえ」

 呆れてため息を漏らしてしまうが、澪は気にも留めない。

「この暗さも、割と嫌いじゃないし」

「……」

 創世も気持ちはわからなくもなかったから、取り敢えずそのまま電気を付けないで腰を下ろした。

「にしても、ここは特別牢屋感が強いけどな。他の部室はもっと充実しているでしょ」 

 二人は部屋をぐるりと見渡すが、あるのは各々が向かい合って腰掛けている二台の長椅子だけだ。長椅子といっても、並んで座れる程度の長さをした木製の箱を、学校のゴミ捨て場から二つ見つけて運び込んだという有様。

 右隣のサッカー部の部室はサッカーボールがたくさん詰まったキャスター付きのカゴやらカラーコーンやら部員たちの私物やらでごちゃごちゃしているが寂しい印象は受けないし、左隣の男子硬式テニス部はやたらと内装に凝っていて、暖かみある木目調の壁紙や隅に設置されたお手製のラッカーが洒落ていた。そこに置かれたボールカゴや、足元に綺麗に積まれた備品のテニスラケットまでまるでインテリアの一部のよう……は流石に無理があるけれど。

 いずれにせよ使っている団体の色が出る部室模様に対して、澪たちが入り浸っているこの部屋はなんとも寂しいものである。

「そうね。でも、あんまりいじってもよくない気がするし」

「まあ間違いねぇ、おれたち勝手に使ってるだけだからな!」

 ケラケラと創世はわざとらしく笑ってみせる。

「なぁー。一向に咎められる気配もないし、意外とザルだよなこの高校」

 部室棟右から四番目の部室がこんなにも簡素になっているのには理由があって、つまるところ澪たちは部活動でこの場所を使用しているわけではないということだ。

 半年ほど前までは開かずの扉で放置されていたこの部室に、彼らが久方ぶりに新しい空気を吹き込んだ。

 一年と幾何か前に澪たちが入学した当初から人が出入りしているところなど見たことがなく、いつも扉が固く閉じられていたため自然と誰もが施錠されているもんだと思い込み、嫌な噂話まで囁かれていた。そんないわく付きの四番部室が実は鍵すら掛かっておらずいつでも開く状態だったとは拍子抜けもいいところであるが、今はこうして放課後の大切な時間を過ごす居場所となっているから文句はない。

 もちろん使用する許可などもらってはいないが、しかしこれまで学校側から一切の言及は為されておらず、ただ単純にバレていないのか、わかっていて見逃されているのかは判断しかねる。この学校は生徒に厚い信頼を寄せており、割とルール外の行動でも柔軟に対応してくれる印象はある。こればかりは、ただただその懐の深さに感謝である。

「いつまで使えるか不安はあったけれど、案外長く保ちそうだな」

「だなぁ」

「ソウちゃん、部活は何時から?」

「ん、休み」

「そっか。あ、……それはそうと、見たか? あの――」

 ――バンッ‼

「お、今日は二人の方が早かったかぁ!」

 澪の話を盛大に遮って扉が勢いよく開かれ、

「残念。ね、サク」

「別に競ってないし」

 逆光を浴びながら二人の少女が風のように登場した。

「おー、きたきた。よいっしょと」

 澪はおもむろに立ち上がり、移動して創世の横に座り直した。

「ん、ありがと!」

「……ありがと」

 先に入室して椅子に座るのも先だった女子生徒はあおいシュノ。その後に続いて少し遠慮がちにシュノの横に腰を下ろしたのはあきさくらである。

「ひゃー。担任、あ、瀬尾先生ね、の話が意外と長くてさぁ」

 げんなり、といった感じで椅子に手を付いたシュノは、さらりと長い黒髪に健康的な素肌が映える、彼女の活発さと天真爛漫さを悠々と物語る大きな瞳をいつもきらきらさせた津下戸高校二年生の女子生徒。彼女もパーカーをよく着ているが、白パーカー等を上手にコーディネートしたオシャレな着こなしで澪とは雲泥の差があった。本日のワンポイントはパンツのベルトループに覗くキーチャーム。

 一方の桜は白銀の柳髪にあまり血色を感じない雪肌、伏し目がちな双眸は精気に乏しく近寄りがたい高嶺の寒花といった風貌の少女。しかし時折見せる笑顔は実に素直で可愛らしいから、それを見て澪たちはちょっと安心させられる。彼女は、本来女子高生はこのイメージ! といった制服に身を包んでいる。

「へぇ、あの先生話長いんだ。若くて貫禄ある伊達男って感じなのに」

「意外だな」

「てか、なんで電気付けてないの?」

「いや、何となく。たまには暗いのもよくない?」

「まあ、別にいいけど」

「いいんだ、シュノ」

 がやがや言い合う澪と創世とシュノの横で、そんなこと気にもせず小首を傾げる桜。

「……瀬尾?」

「あそっか! サクの前で瀬尾先生の話したことなかったっけか!」

 シュノは桜の方に身を乗り出して、その瞳にはキランと輪光が一周する。

「四月からわたしの担任になった男の先生なんだけどさ、結構カッコよくて人気あるんだ!」

 迫られた桜は気持ち身を引き、いかにも興味はなさげに見える。

「……そ、そう。それはなんというか……シュノも好きなの?」

「ん、それは違うかなぁ。わたしのタイプではない!」

「それは違うんだ」

 つい横槍を入れてしまった澪であるが、最近のシュノは担任の話をするときやたらと生き生きしていたから意外であった。

「うん。なんか、一人の人間として興味があるなって感じ? はするけど」

 頭の中で瀬尾先生がバッサリと切られた感じがして面白おかしく、創世は一人でクツクツと笑ってしまう。

「……そうか、で、人として興味あるってのは?」

「うーん、先生掴みどころがないって言うか。たまにイメージとちぐはぐなこと言ったりするから面白い」

「三十代って謎にミステリアスな感じがするときある」

「あー、確かに。んまあ、それだけじゃない気もするけど」

「……瀬尾先生か。一応、覚えとくよ」

 桜は小さく呟いて、そっとシュノを押し返した。

「ああ、その方がいいな。校内じゃ有名人だから、話題になることもひょっとしたらあるかもしれないし」

「厳くんの言うとおりだね。覚えとき、サク!」

 小さく首肯した桜に、創世は問う。

「にしても、は一度もないの?」

 桜はしばし左斜め上を見た後、

「……ないね。生徒からの視線はたまに感じなくもないけど。校内ではシュノが一緒に行動してくれることも多いから」

「そうかぁ。おれらには都合いいけど、やっぱザルだな」

 澪は思わず苦笑を漏らしてしまう。

 がほぼ毎日のように出入りしているというのに、半年以上経過した今現在まで何も不審がる様子が窺えないというのは、学校としてどうなのか。

 制服がないから他の高校よりは部外者を見極めるのは難しいかもしれないが、それにしたって銀髪の目立つ桜に少しくらいは違和感を持ってもいいのでは、と感じてしまう。

「まあ、でも。バレないに越したことはないから、余計なことは言わないけどさ」

 この部室は澪たち四人にとって便利で希少な居場所なのだ。

 放課後の時間をただ一緒に過ごしたい、というのが毎日彼ら四人が集合する動機で、揃ってここまで皆勤賞を維持している理由でもある。

 集まって何をするというわけでもなく、他愛のないお喋りに興じるのが常であるが、ただお喋りをするにも場所というものが必要である。しかし、周りに迷惑もかけない且つこちらも気を使わない、それでいてお金を掛けずに長時間居られるスペースというものはなかなか見つからない。カラオケやボーリングに行くのも悪くはないが、澪らの中でそれらの娯楽はたまに行くからよいのであり、そもそも高校生の心許ない収益では毎日行けるものでもない。教室は他の生徒がいる場合が多いし、都合の良い公園も周辺には見当たらなかった。

 そこで部室である。部室こそぴったりであったのだ。

 人目を気にせず思い思いに時間を潰すことができる理想的なスペース。

「桜がバレたり、そうじゃなくてもここを追い出されたりしたら面倒だもんな」

「だね!」「……うん」

 この時、創世に応じた桜の、不穏当に切実な眼差しに気付く者はいなかった。



「……あ、そうそう。あれよ。今朝から空、おかしいよね」

 シュノたちの登場で遮られた話題を思い出して、澪は少し声を潜めた。

「もちろん、見たよ」

 シュノも眉間にしわを寄せる。

「なんだありゃあ、って感じだよな」

「……ちょっと出てみる?」

 桜は閑雅に立ち上がって部室の外に出て、後から三人も続いた。

 直ぐに、ほんの微かに砂埃で淀んだ空気が出迎える。

 部室の表側には大きく校庭が広がっていて、この時間はサッカー部が砂埃を巻き上げていた。

 濁りに慣れると、砂色の校庭とそれよりも遥かに広遠な青空が視界を占める。

 さらにその蒼穹の奥に目を凝らす。

 果たして。


 万斛の満月が、広大な青の向こうからこちらを見下ろしていた。


 太陽という強烈な光源によって明度こそ抑えられているが、薄くても輪郭のはっきりした真円の白い月。それが無数に空を埋め尽くす。

 この現象は世界各地で観測されているらしく、仮称〈満月まんげつ〉はどうやら地上二千キロメートルから五千キロメートルの範囲に、ある程度のコロニーを形成して浮遊しているようであった。

「ほんと、きもちわるい」

 シュノはさっきから苦虫を嚙み潰したような顔をする。それを見て澪は、自分自身も顔を歪ませていることに気づく。

「なんか……見てると終わりを感じるんだけど」

「……終わりって……なんの?」

「いや、そんな明確にではないけれど、ここら辺がザワザワするとういうか。……え、してない? みんなは」

 胸のあたりを撫でながら、澪は違う種類の悪寒が背を這って顔が引き攣った。

「ん、いやなんとなくはわかるよ。おれも気分悪くなるからあんまり見ていたくない」

 創世の同意に少し救われて、澪は胸のあたりを「の」の字に撫で続けた。

 今朝、パンを齧りながら流し見していたテレビでは、どの局も〈灯の満月〉の話題で持ち切りだった。世界各地の都市の映像が順番に画面に映し出されて、その何れにも満月が映り込む。

 やたらと不安を煽るコメンテーターの声に傾ける耳はないけれど、今空を見上げると本能が警鐘を鳴らし、目を背けよと大脳が神経にシグナルを送る。しかし同時に、気を抜くと蠱惑的な超現象に引き寄せられている内方にハッとする瞬間もあった。

「これ、ずっとこのままなのかな……」

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