ep2 思いがけない再会―Part.5

 飲食店でのアルバイト経験はあるものの、喫茶店のようなところは初めてになる。とは言っても、席に通して注文を取る接客に変わりはなく、レジの打ち方も少し違うだけで経験があれば難しくは感じない。


 バイト初日だと言うのに僕と沙歩に店を任せ、店長は休憩に出てしまった。


 コーヒーの淹れ方や料理だったりは沙歩が行い、お客を席に通して注文を取るのは僕が行う。レジに関しては、その時々で手が空いてる方がする。


 そんな感じで店を回しているわけだが、今日は随分と暇だ。昨日来た時は五組くらいのお客がいたような覚えがある。今は老夫婦が一組いるだけで店内に流れるBGMが静けさを際立出せる。


 いろいろと仕事を覚えてしまいたいのでキッチン部分のことも沙歩には教えてもらいたかった。しかし、そうなるとホールで接客する人がいなくなってしまう。そして沙歩が言うには「私より、店長に教えてもらった方がいい」とのこと。


 お客が来ないため、接客の仕事は皆無だ。給料を貰っている身として何もせずに突っ立っているだけなのは忍びない。テーブルやカウンター、窓を拭いたりして時間を潰し、それでも全然お客が来ないから、床を掃いて掃除する。


「綺麗になった?」

「まぁある程度は。もともと床とか窓も綺麗だったから、あんまし変わらないけどね。そっちは?」

「湊と同じ。店長、意外と綺麗好きなところあるから」

「それにしても店長戻って来なくない?もう一時間くらい経つけど」


 『いろり』での初日のアルバイトは十六時から閉店までの十九時。最初の十分くらいまでは店長がホールでの仕事をあれこれ教えてくれたが、一通り教え終わると休憩に出て、かれこれ一時間が過ぎた。


 十分程度で教えてもらった仕事内容も、接客業経験のある身からすると注文の取り方さえ教えてもらえれば何とでもなるようなものだ。


「さっき店長から連絡あったけど十八時には戻るって。腰を痛めてる奥さんの通院に付き添ってるみたい」

「そうなの?店を出る時に言ってくれればよかったのに」

「そうよね。私もそう思う。でも、今日は空いてるみたいだから、二人でも何とかなる」

「いつもこんな感じ?」

「今日は特に空いてるかな。混んでも、席は埋まらないくらい」


 専門学校に通っているため、沙歩は基本的に十五時か十六時に入って閉店まで働き、それをほぼ毎日している。


 もとは店長と奥さんの二人で店を切り盛りしていたが、そこにアルバイトとして沙歩が雇われ、奥さんが腰を悪くしたため再度アルバイトを一人募集し、僕が雇われることになった。


「いらっしゃいませ」


 カウンターを挟んでの沙歩との会話はドアベルが鳴ったことで中断される。本日三組目のお客への接客もつつがなく済ませ、コーヒーを淹れ始める沙歩を眺める。インスタント以外のコーヒーを作ったことのない僕では、豆から挽いてコーヒーを作ることは出来ない。


 沙歩がコーヒーを淹れるのは今日で三度目となり、こうして眺めるのも三度目だ。何となくだが、手順のようなものは覚えた。しかし、練習もなしに淹れたコーヒーをお客に提供するわけにもいかない。沙歩の方が仕事量が多く、自分だけ暇しているのは何となく悪い気もする。


 淹れ終わったコーヒーをお客の下へ持って行く。戻れば、沙歩はカウンター裏の調理スペースへ姿を消していた。手持無沙汰になる僕は綺麗な店内の掃除を再開させる。


 その後、十八時になっても店長が店に帰ってくることはなかった。十八時を少し過ぎ、店に掛かってきた電話に沙歩が出ると店長からだった。「長引いてて、もしかしたら十七時になっても帰れないかもしれない」という電話であり、十九時になったら店を閉めておいて欲しいと。


「店長、バイトに任せすぎ」

「そのために二人雇ったんじゃない?」

「そうなら事前に言ってほしい。締め作業とかあるんだから」

「しなくていいんじゃないの?」

「そういうわけにもいかないの」


 そう言って、調理スペースへと足を向ける沙歩を見て、自然と笑みがこぼれてくる。沙歩のそんな真面目なところは昔と変わらない。閉店十分前になって締め作業を始めるわけだが、ホールは既に掃除をしていたのですることが余りない。


 テーブルとカウンターを再度拭き直し、閉店の時間になってから床に掃除機を掛ける。二十分もしない内にホールの締め作業は終わり、沙歩はもう少し掛かるみたいだった。


 先に制服を着替えてしまう。

 スマホを見ると着信が入っていた。誰からの電話かと思えば、澪那さんからのだった。この店に来ると澪那さんから電話が掛かるようになっているのか。昨日も電話があって、今日もまた電話が掛かっていた。今回はバイト中で電話に出なかったからか、ラインの方にもメッセージが届いていた。


『まだ帰らないわけ』


 電話が掛かって来ていたのは十七時十分。その後、ラインのメッセージが十八時六分に届いていた。そして現在の時刻が十九時二十六分。


 バイト中だったので、どうしようもなかった。「何かあったら連絡してください」とは言ったけど「必ず出る」とは言っていない。確か「連絡くらいなら取れる」と言った。


 とは言え、澪那さんからの『まだ帰らないわけ』というメッセージは非常に怖い。何せ語尾に『?』が入っていない。気分屋な彼女だから、こういったちょっとしたことでも機嫌を悪くする。


 メッセージを返すのではなく、折り返しの電話を掛ける。


 四度、五度とコール音が鳴り響くだけで応答はない。十コールほど待ったが、出ないようなので切ろうとした矢先、コール音が止んだ。通話時間の数字が刻まれ始めたのを見て、一定時間が経過したわけじゃないと分かった。


 すぐに耳へスマホを当てる。


『もしもし、澪那さん……?』

『午前中で終わるんじゃなかったの』


 開口一番の言葉からは機嫌の悪さが滲み出ていた。どうにか話を逸らせないかと模索する。


『体調はもう、大丈夫そうですね』

『何かあったら連絡してって言ったよね』

『バイト中で出れなくて……』

『バイト?今日は何か食べに行く予定だったでしょ。あんたから誘ったのに何でバイトが入ってるのよ』


 なぜ僕が責められているのか理解に苦しむが、まずはちゃんと説明しないと澪那さんに責められ続ける。


『昨日、バイトの面接に行って、今日の十六時からバイトに入ることになりまして。だから、澪那さんには『食べに行くのは明後日にしないか』と言おうとしたんですけど、澪那さんが酔ってて話せなかったんです』

『あんたも今日は無理だったってことね』


 理解してくれたみたいで何より。

 ただ、思ってもみない言葉が続いた。


『そんなことどうでもいいのよ』

『ど、どうでもいい……?』

『わたし、電話に出なくてラインも返さない人、嫌いなの。分かった?』


 そんな理不尽なことあってたまるか。


『でも、バイト中は』

『分かったって聞いてるの?』

『………わ、分かりました』

『何か買ってきて。お腹空いたから』


 電話はそこで切られる。

 澪那さんの機嫌の浮き沈みは、もはや災害と言っていいレベルだ。気分屋にもほどがあるし、自分勝手にもほどがある。連絡してとは言ったけど、それは友達としての言葉だ。


 これでは友達じゃなくて、ただの使い走りではないか。


「大丈夫?揉めてそうだったけど」


 澪那さんとの電話を終えると扉の前に姿を現した沙歩が心配そうに言葉を掛けてくれた。そんな沙歩にパシられてる、なんてダサいことは言えないので「何でもないよ」と一言。


「でも、ちょっと急いで帰らないと不味いかも」


 ロッカーから上着を取り出し、羽織ながら言葉を続けた。


「女の人……?電話の相手は……?」

「大学の先輩的な人で、彼女とかじゃないよ……?」

「それは分かってる」


 勘違いされたかもと思って一応言ってみたのだが即答だった。電話での会話は終始下手したてだったので、女の人の名前が出てきたところで誰もそれが彼女だとは思わないか。


 変に否定して、墓穴を掘ったみたいになった。


「じゃ、じゃあ、先帰るね」

「うん。じゃあね」


 こんなはずじゃなかったのだが、こうなってしまった以上は澪那さんの下へ直帰しなくてはならない。加えて「何か買ってきて」という難関過ぎる澪那さんからの頼み事がある。


 何を買って帰ればいいのか全く思い付かない。澪那さんの好きな食べ物とか分かんない。ヤンニョムチキンを買って帰るのは流石に不味いか。違う気がする。澪那さんの求めているものが何なのかを変える道中は必死に考えた。


 考えて、考え抜いた結果、二日酔いに効くというカレーを買って帰った。


 帰る道中にカレー専門店があるのは以前から把握していた。ターメリックが二日酔いに効くはずだが、電話越しに聞いた澪那さんの声音からは二日酔いを感じなかった。だから、なぜカレーを買ってきたのか問われれば、苦し紛れの理由を述べることになってしまう。


 辛さを上乗せしていない普通のカレーでも、かなりの辛さがあるが澪那さんなら食べれるだろう。万一、食べれないとなれば自分用に買った甘口のカレーがある。


 ビニール袋内のカレーに一度目を落とし、澪那さんの家のインターフォンを押した。家中に鳴り響く独特の電子音が微かに外にまで聴こえてくる。同時に近づいてくる足音も。


 開かれた扉にチェーンは掛けられておらず、一息の間に扉が全開になった。二日酔いを感じさせない、相変わらずの冷めた表情を澪那さんは向けてくる。


「カ、カレーを買ってきました……」

「わたしがカレー嫌いだったら、どうするつもり?」

「……カレードリアにでもしましょうか」


 カレーの入ったビニール袋を澪那さんに渡すと中身を確認し始めた。


「二つあって、一つは甘口です」

「そう。じゃあ甘口の方をカレードリアにして」

「僕がですか……?」

「他に誰がいるのよ」


 そう言い残すと澪那さんは家の中へ戻って行く。開けっ放しの扉やカレードリアにしてという言葉から、僕が中へ入っても問題はないのだろう。中へ入らなければカレードリアも作れない。


 澪那さんがリビングへ姿を消したタイミングで、家の中へ入る。早歩きでリビングに出るとソファに腰を下ろした澪那さんは容器の蓋を開け、カレーを食べ始めていた。


「本当にカレードリア作るんです?」

「あんたがね。わたし今日何も食べてないから、お腹空いてるの」


 テーブルに置かれたビニール袋から甘口のカレーを取り出し、キッチンの方へ向かう。


「出前でも取ればよかったじゃないですか」

「連絡していいって言うから、あんたを頼ったのに出ないから」

「それはバイト中で」

「言い訳はいい」


 一方的に僕が悪い感じに話を進める澪那さんはやはり気分屋で、自分勝手な人だと思う。思うじゃない。そういう人だ。そしてそんな人と友達になってしまったのが運の尽きだったのかもしれない。


 前にも見たけど冷蔵庫の中はスカスカだ。澪那さんは自炊をしないのだろう。そんな自炊をしない人の家にチーズなんてものがあるわけなく、見つけられたのは粉チーズだけだった。粉でもチーズはチーズなので変わらないかと思いつつ、耐熱皿に移したカレーの上に振りかける。後はオーブンで三、四分くらい熱すれば完成だ。


「辛くないですか?」

「全然」


 平然とした顔で澪那さんはカレーを口へ運び続ける。しかし、キッチンからでも澪那さんの額や鼻筋に水滴が見える。汗をかいてしまうくらいには辛いはずで、全然という言葉の説得力に大分欠ける。


 ティッシュの箱を持って、澪那さんの下へ。無言のままティッシュで汗を拭き始めるので持って来て正解だった。


「何?」

「いや、辛いのかなと……」

「辛くない。これは生理現象」

「それにしては結構汗かいてません?」

「なら、あんたも食べてよ」

「辛いのは嫌いです」

「だから、食べさせるの」


 いじめっ子みたいなことを言う澪那さんがスプーン一杯にすくったカレーのルーを近づけてくる。


「絶対食べませんよ」

「食べないなら、あんたに投げる。もったいないから投げさせないでよ」


 なんて横暴な。

 カレーの入った容器を投げるように構え、スプーンを差し出す。


 辛いのは嫌いだけど、一口くらいなら別に何とでもない。ただ、受け取ったスプーンをまじまじと見つめてしまう。


「気になるの?間接キスが?」

「いいえ。友達同士ですから」


 揶揄われるのは癪なのでスプーンを口に入れる。間接キスとは言え、味に変化があるわけじゃない。間接キスなんてものは気にするか気にしないかの問題でしかない。


 スプーンを返すと澪那さんは面白くなさそうな顔を見せる。


「つまんな」

「間接キスくらいで僕が動揺すると?」

「じゃあこれは」


 立ち上がった澪那さんが身体を密着させてきた。何をするのかと思えば、首に腕を回し、顔を近づけてくる。キスされるのかと思って目を瞑ってしまった。そして、それが澪那さんの狙いだったようだ。


「キスされると思った?」

「……もう、離れてくださいよ」


 首に回された澪那さんの腕を掴んで離す。


「動揺してるじゃん」

「しますよ、普通。キスされそうになったんですから」

「じゃあ、ほんとにしてあげようか?」


 せっかく距離を離したのに、澪那さんがまた一歩詰めて来る。


。揶揄って楽しいですか?」

「楽しい」

「僕は楽しくないです」


 鈴の音のような音が鳴り、オーブンに入れたカレードリアが熱し終わった。澪那さんに背を向け、キッチンへ向かう。


 チーズの色合いはちょうど良さげだ。熱せられた耐熱皿を素手で触るなんて出来ないので、食器棚から取り出した比較的平らな皿の上にスプーンを使って乗せる。


「カレードリア出来ましたけど、澪那さん食べれるんですか?」

「あんたにあげる。さっきお菓子食べたから、二つも食べれない」

「さっき何も食べてないって……」

「言ったっけ?そんなこと?」


 適当に返す澪那さんは食べかけのカレーに手をつけ始める。


 元より、甘口のカレーは自分用に買ったものだ。カレードリアになってしまったものの食べられずに済んだので結果オーライか。


「美味しい?」


 カレードリアを一口食べた僕に澪那さんが訊いてくる。


「カレーは美味しいですね。チーズが粉チーズなので、そこは微妙ですけど」

「一口ちょうだい」

「どうぞ」


 端ではなく真ん中をスプーンですくう遠慮のなさが何とも澪那さんらしい。カレードリアを一口食べて「うまいうまい」と。そのまま二口目、三口目と食べ続ける。


「一口とは?」

「じゃあ、わたしのも食べていいよ。食べれるならね」

「自分のを食べ終わってからにしてください」


 澪那さんにちょくちょく食べられながらもカレードリアを食べ進めていく。


 気付けば時刻は二十一時に迫っていた。毎日一時間以上は資格勉強に費やしたいため、まとまった暇な時間が取れる夜中は勉強をするには丁度いい。お酒を飲んだ守屋先輩がうるさかったり、訪ねて来たりするのは鬱陶しいが。


 帰る前に昨日のことを訊ねる。


「どうして守屋先輩とお酒なんて飲んだんです?」

「何でだろ。わたしも一応、シェアハウスの同居人だから?」

「何ですか、その理由」

「わたしも余り覚えてない。あんなに酔ったのも久しぶりだったし。別にわたしもシェアハウスの同居人なんだから、あの家の共有スペースを使うのは大丈夫でしょ。大家も何も言ってこなかった」

「僕はただ、澪那さんが守屋先輩とお酒を飲むなんてあり得ないと思っていたので。今までは無視して来たわけですから。急な態度の変わり振りに皆、困惑してますよ」

「いいんじゃない。困惑させておけば」

「それはそれで、僕と澪那さんの関係を問い詰められるんですよ。特に守屋先輩が」

「友達だって言えばいいでしょ」

「言っても信じてくれないんですよ。響輝は信じてくれましたけど、守屋先輩はリレイ《あなた》のファンなんで信じたくないのかもしれません」

「めんどくさ。あんた一人で何とかして」

「もとからそのつもりですよ。頼んだら、澪那さんから守屋先輩に何か言ってくれるんです?」

「ボコボコにしてファン辞めさせる」

「澪那さんって、野蛮ですよね」

「こんな可愛い女の子が野蛮に見える?」


 可愛いって。まぁ、確かに可愛いけど。


「野蛮ですよ。野次を飛ばす観客に殴り掛かろうとするくらいですから」

「わたしは悪くない。ライブ中に野次なんか飛ばす奴が悪い」

「そうですけど、普通は殴り掛かりにいきませんよ。それにそのせいでライブが中止になったって友達から聞きました」

「あんたまでわたしを責めるつもり?」

「責めはしませんけど、怒りは抑えた方がいいですよ」

「それ親にも言われた。あんたまで、そんなこと言わないで」


 本気で嫌そうな顔をするので、これ以上何か言うことは出来なかった。しかし、そのおかげで話の腰が折れてくれた。辞め時があるなら今だろう。


「そろそろ帰りますね。勉強したいので」

「勉強って、真面目過ぎ。あんたの生き方って息苦しい。わたしを見習ったら?」


 愉快そうに小首を傾げ、挑発的に問う澪那さんだが、彼女が思うような答えを返すことは出来ない。


「少しくらいなら、いいかもしれませんね。そんな生き方も」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カナリアの歌 @Winter86

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ