5‐2 隣町の路地裏
◆
空は青。爽やかな風が歌うように抜けていく。
元々賑やかなリコルドだが、ここ数日はさらに活気に満ち溢れているようだ。
陽気という言葉から最もかけ離れた存在であるユッカは、苦虫を嚙み潰したような表情になっていた。
街中が祭りの準備で盛り上がっている。
『聖女祭』が近づいているのだ。
人々の話題のほとんどは祭り関係。何もかもが、聖女に紐づけられる。
(……これは、想像以上にしんどいですね)
何度目か分からない溜め息を吐き出す。
視線を下げた先、蝶が低い位置から軽やかに飛んで行った。
グレタとキアラが乙女役として踊りを披露することは、気にならないといえば嘘になるかも……しれない。
しかし、聖女の象徴である赤いアネモネやそのモチーフがいたるところに飾られたり、聖女の正装である純白のローブを着た子どもたちがはしゃいでいたりすると、どうにも居心地が悪い。
フィウーメ川の水面はきらきらと光を流している。
その河川敷に腰を下ろす。雑草の生えた地面はひんやりと湿っていた。
(……静か)
瞳を閉じて耳を澄ませると、人々の声がいつもに増して、遠い。
ぼんやりと眺めていると声が降ってきた。
「前と逆だね」
ユッカに影を落としたのは、ルーチェだった。
白いシャツに黒いトラウザーパンツ。私服ということは、休みなのだろうか。
「ここにいても寒いだけだよ」
前、というのは、ルーチェが落ち込んで河川敷に座っていたときのことを指すのだろう。
そのときユッカがかけた言葉をなぞるように、ルーチェが微笑みかける。
「そうですね。思っていたより地面は冷たいです」
ユッカはルーチェを見上げて、淡々と答えた。
「こういうときは美味しいものを食べに行くのがいいんだ」
「はぁ」
「隣町に美味しいプリンを食べられる店があるらしいよ」
(……だから?)
ユッカは、わざとらしいくらいに眉を顰めた。
しかしルーチェには届いていないようで、ばっと両腕を大きく広げた。
「今から行こう! 乗合馬車ならあっという間だよ!」
えっ、とユッカが声を上げた。
「早くー! ユッカさーん!」
そして、あっという間に歩き出すと、ルーチェは離れた場所から手を振ってきた。
「わたしはまだ行くとは言っていませんが……?」
断ることはいくらでもできる。
今までの街でも何かに誘われ、断ったことは数知れずあった。
しかも、相手は
「……」
しかし隣町ならば、聖女の影はさほど多くないかもしれない。
(一時しのぎにはなるかもしれませんね。プリンにも興味はあります)
ユッカは渋々と歩き出した。
◆
フィウーメ川を超えたあたりから空は薄い雲に覆われていた。
ユッカが遠くへ視線を遣ると、鈍色の稜線が見えた。
米の売っている西側市場からさらに抜けて行った先の隣町。
建物のつくりや未知の雰囲気こそリコルドに似ていなくもないが、色彩に乏しいというのが第一印象だった。
それよりも、アネモネが見当たらないことに、ユッカは内心安堵していた。
ユッカの視線の先に気づいたルーチェが隣に立つ。洗濯洗剤の香りだろうか、ふわり、と爽やかな香りが鼻に届いた。
「あぁ。あれは魔石鉱山だよ」
魔石は今や人々の生活に欠かせない原料である。
冷蔵庫、オーブン、その他大きな力を必要とする生活道具には魔石の力が展開されている。
そんな風に魔石から生活道具を作れるようにしたのは
(ひょっとして、グレタの父親が働いている魔石鉱山でしょうか。なかなか連絡を寄越さないと彼女は嘆いていましたが、これくらいの距離ならば休日に帰ってきてもよいでしょうに)
「ユッカさん?」
黙っていると、ルーチェが屈んで顔を覗き込んできた。
ユッカも背が低い方ではないが、ルーチェはさらに背が高い。
「いえ、何でもありません。それで、目的の店はどちらでしょうか」
「路地裏らしい。職場の人に教えてもらったんだけど……どこかな……」
日中だというのに人の往来が少ない。子どもの姿も見かけない。
やせ細った犬がよろよろと歩いている。
彩りが少ないだけではなく、あまり栄えているような雰囲気ではない。道もリコルドのように舗装されてはいなかった。
通りをゆっくりと歩きながら、ルーチェが一本一本、路地裏を確認する。
まるで安全な場所を探す番犬のようだ。
(しかし、変な風に懐かれてしまったようですね……)
ルーチェの背中を見ながら、ユッカはにわかに反省する。
河川敷で声をかけて喫茶店のモーニングへ連れて行ったことが裏目に出てしまったようだ。
イトの事情を知っていることで、信頼に足る人物とでも思われているのだろうか。
「あっ、ここだこだ。ユッカさん、こっちー!」
ルーチェが振り返って手招きしてくる。
(訂正。子犬ですね。しっぽが見えます)
路地裏という表現がこれほどにも合うだろうか、というくらいの暗い路地裏に、目的地はあった。
花の形をしたオレンジ色のランプがぼんやりと軒先に点っている。
ぎぃ、と軋む音を立てながら扉を開けると、路地裏よりも薄暗い店内の奥で店主らしき人物が食器を拭いていた。
「いらっしゃい」
喫茶店のマスター然とした老人だ。落ち着きのある招き声に、ルーチェとユッカは足を踏み入れる。
コーヒーの香りが満ちた店内は、外と同じ花のランプに照らされている。壁は本棚。見たことのない本ばかりがずらりと並んでいた。
「こんにちは。二人なんですが」
「お好きな席にどうぞ」
他に客はいない。狭い店内にカウンター席が三つ、テーブル席が二つ。
ルーチェがテーブル席に腰かけた。
テーブルの中央には一枚の羊皮紙。流麗な文字でメニューが並んでいる。
ユッカもルーチェの向かいに座る。すっ、とルーチェがユッカ側にメニューを向けてきた。
「どうも」
「あっ、ここは僕の奢りだからなんでも好きなものを頼んでいいよ。この前のお礼」
「はぁ」
シンプルなプリンか、プリン・ア・ラ・モードか。
チーズケーキやガトーショコラもあるようだ。
「では、せっかくなので、プリン・ア・ラ・モードにします」
「僕も同じものを。すみませーん」
ルーチェが手を挙げた。
「プリン・ア・ラ・モードをふたつ。飲み物は、僕はホットコーヒーで……」
「わたしもホットコーヒーにします」
「かしこまりました」
コーヒーはサイフォン式で淹れるようだ。アルコールランプに火が点る。
「楽しみだね!」
「そうですね」
ユッカは改めて目の前の青年を見た。
ルビーの瞳の下、隈は以前より薄くなったように感じる。とはいえ、いちいち観察している訳でもないので、なんとなくではある。
彫りの深さはイトには似ていない。聖女側、つまり、この世界の人間の血が濃いのだろう。
「イトさんの家に行ったことある?」
「いいえ」
「外壁に木が生えてるんだ。木が先か、建物が先かって訊かれたんだけど、本当にどちらか分からない」
ははは、と楽しそうにルーチェが笑った。
反対の耳には、サイフォンでコーヒーを淹れている音が届く。
「たまに泊まらせてもらってるんだけど、狭くてごちゃごちゃしてて、実家とは全然違って面白いんだ」
(実家。つまり、勇者の家、ということでしょうか)
「さぞ大きなお屋敷なんでしょうね。ご実家は」
「そうでもないよ。王都の外れにあるし。ただ、お手伝いさんのおかげで整理整頓が行き届いているから、イトさんがあんなに片づけ下手だとは知らなかった」
調理器具や見たことのない調味料がいっぱいあるんだ、とルーチェは続けた。
店主が会話の切れ目を窺うように近づいてくる。
「お待たせしました。プリン・ア・ラ・モードと、ホットコーヒーでございます」
「わぁ!」
ルーチェが表情を綻ばせる。
楕円で足つきの銀色の皿の中央には堂々としたプリン。
カラメルの上にホイップクリームで真っ赤なチェリーが飾られている。
周りにはいちご、キウイ、バナナ、オレンジなど。
この町のどんな場所よりも鮮やかで華やかだ。
ホットコーヒーはごつごつとした陶器のマグカップに入っている。
「マグカップは私が作りました」
「多彩なんですねぇ」
ルーチェと店主の会話も弾む。
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