1‐2 ハンバーグのソースは
◆
ユッカが微睡みから体を引き上げると、カーテンの隙間から柔らかで眩しい光が差し込んできていた。
どうやら、雨は止んだらしい。
(生き返ったからでしょうか。……勇者が)
そしていつの間にか陽が高い。お昼どきと言っても差し支えない時間帯だ。
ぼんやりとベッドのなかでたゆたっていると、急に耳が反応した。
「おはよう!」
「!?」
窓の外から聞き慣れた大声。
慌てて窓を開けると、店の前に立っていたのは案の定、勇者イトウだった。
イトウは二階から見下ろされているのに気づき、ぱっと顔を上げた。
「中に入れてくれないか?」
しかも、何やら大きな荷物を背負っている。
満面の笑みで見上げられると、ユッカはもう何も言えなかった。
服を着て自室から階下へと駆け下り、扉を開ける。
「おはようございます。朝から、一体どうしたんですか」
「市場に行ってきたんだ」
「い、市場?」
イトウが少し体を捻って、背負っている袋をユッカへと見せてきた。
「流石に喪に服すといっても、市場は開けざるを得ないだろう。おかげで割引品が多くてよかったよ」
「はぁ……」
(てっきり旅立っていったのだと……)
イトウの意図が分からずユッカが困惑していると、流石に彼も言葉足らずだと気づいたらしい。
「ということで、厨房を貸してくれないか? お代はちゃんと支払うから」
どうやら、イトウは市場に行って大量に買い込んできたらしい。
テーブルの上に買ってきた食材が次々と並べられる。
「この町の市場は広くて面白かった。見たことのない食材がたくさんあったよ」
「イトウでもそんなことがあるんですね」
「もちろん。特に、この五年くらいは寝たきりだったから。それよりも」
言葉を区切って、生き返った勇者は、元魔王へ笑顔を見せた。
「イトウって呼ばれるのはなんだかくすぐったいから、イト、に縮めてくれないかな」
当然ながら、ユッカも、勇者がずっと別の名前で呼ばれていたのは知っている。
それを踏まえた上での提案だった。
「分かりました」
「よし。これで僕は、今までとは別の人間だ」
イトは気合を入れ直すように拳を握りしめる。
そして服の両袖を捲った。
ふ、とユッカの口元が緩む。
「それで、あなたは何を作るつもりですか? イト」
「もちろん、ハンバーグさ。昨日のお返しだよ。ユッカは座って待ってて」
宣言すると、イトはキッチンに立った。
手を洗ってから、玉ねぎの皮をぺりぺりと剥きはじめる。
真っ白な姿を現した玉ねぎも洗い、ナイフで半分にカットすると、平らな面を下にしてカッティングボードに置いた。
まずはボードと水平に、切りきってしまわないように、切り込みを入れていく。
それから垂直に切っていけばある程度のみじん切りはできてしまう。
「みじん切りなんて何年ぶりだろう……」
イトが涙目になっているのは感動というより玉ねぎの成分のせいだろう。
細かいみじん切りができたところで、熱したフライパンにバターを落とした。
玉ねぎもすべて入れる。弱火なので、音は立たない。
「パン粉は買ってきたよ」
「それくらいお分けしましたのに」
「いやいや」
じっと座っていることができず、ユッカは立ち上がった。
「コーヒーは飲めますか?」
「うん。ミルクがあるとうれしいけれど」
「承知しました」
ユッカはユッカで、空いているコンロでお湯を沸かしはじめる。
コーヒー豆をミルでがりがりと挽けば、それだけでふわっと香りが漂う。
しょわしょわ、とお湯が沸いてきた。
まずはドリッパーや器に少し注いで、温める。火傷しないようにお湯を捨ててから、ドリッパーにペーパーをセットして、挽きたてのコーヒー粉をさっと入れた。
もう一度沸いてきたお湯を、軽くコーヒー粉に注ぎ、蒸らす。
「いい香りだ……」
フライパンを見守りながら、イトが呟いた。
「特注のブレンドなんです。酸味と苦みのバランスを考えて、ブラックでもカフェオレでも美味しく飲めるような配合にしてもらいました」
「だったら、やっぱりブラックでお願いしていいかい」
「承知しました」
コーヒー粉はしっかりと蒸らしたところで、数回に分けてお湯を細く注ぎ入れる。
ユッカは慎重に、サーバーへと落ちていくコーヒーを見守った。
(慌てないこと。丁寧さを心がけること。それが、美味しくコーヒーを淹れる秘訣)
感情の揺らぎが味に影響する。
だから、ユッカはまず、起きたらコーヒーを淹れるようにしている。
美味しければその日は問題なく仕事ができるという願掛けでもあった。
こと。
サーバーからマグカップに注いだブラックコーヒーを、油跳ねの届かない場所に置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
ユッカはフライパンを覗き込んだ。
玉ねぎの輪郭が熱されたバターによってしゅわしゅわと揺らいでいる。少しずつ、色づいてきた。
じっと見守っていたイトだったが、頃合いだと判断したのか、木べらでゆっくりとかき混ぜ出す。
自分用のマグカップを手に、ユッカはカウンター席へと戻った。
(キッチンに人が立っているのを眺めるのは、どうも不思議な感覚ですね……)
コーヒーを飲みながらキッチンの音に耳を傾ける。
玉ねぎは無事に飴色へと変わったようだ。
イトが、炒め玉ねぎをフライパンからバットへと移し広げる。
「コーヒー、いただくね」
ずず、とイトがコーヒーを啜った。
「はぁ……落ち着く……」
「お気に召したようで何よりです」
ユッカの言葉通り、イトはコーヒーの味が気に入ったらしい。
一気に飲み干すと一息つくように口を開いた。
「ユッカはすごいね。この店の全部を切り盛りしているんだ」
当然のことに驚かれ、かえって、ユッカは目を丸くした。
「そうですね。誰かを雇うなんてことは決してできませんから」
不死不老だということを明かせないとしても、いずれ怪しまれてしまう。
だから、他人と一緒に何かをすることはできない。
そんな意図が込められた回答だった。
「そっか。そうだよな」
イトは、バットの上に手をかざした。どうやら炒め玉ねぎの粗熱が取れてきたようで、作業が再開される。
ボウルには牛と豚の合いびき肉。
塩を振り入れて、まず、こねて粘りを出していく。
しっかりと粘り気が出てきたところで、スパイスを投入。
「黒こしょう、ナツメグ、それからクミン」
まるで歌うように、スパイスの名前を読み上げるイト。
「クミン、ですか」
「好きなんだ。香り高く、どことなく甘いところが」
「ハンバーグに使ったことはないので楽しみです」
炒め玉ねぎ、パン粉、ほんの少しのミルク。
この時点で既に、昨日ユッカの作ったハンバーグとは別物だ。
しっかりと混ざり合った肉だねを、イトは慣れた手つきで丸く整え、空気を抜く。
じゅわー。
焼き方は、ユッカと同じ。
肉の焦げる音とにおいはいつだってたまらない。
「はぁ……。最高……」
イトがうっとりとしている。
「そうですね」
これにはユッカも同意せざるを得ない。
「さて、ソースを準備するよ」
イトが買い物袋の中に手を突っ込んだ。がさごそ。
取り出したのは、瓶に入った黒い液体だ。
「まさか」
「そのまさか。醤油さ」
次々と姿を現したのは、料理酒、みりん、それから砂糖。
かしゃかしゃっ。手際よく小さなボウルで混ぜ合わせるイト。
そして、フライパンの蓋が外されると、一気に湯気が立ち昇った。
じゅわーっ!
ソースをフライパンに投入した途端、甘辛い香りも店内に広がった。
フライパンを傾けながら、ハンバーグにソースをからめていく。
「お待たせ! 照り焼きハンバーグだよ」
イトがフライパンを持ち上げてユッカへと見せてくる。
音がしないのに、何故だかほかほかと聞こえてくるようだ。
「それだけじゃ寂しいと思って、パンも買ってきた。パン粉と同じ店で」
「もしかして」
ユッカはイトの手元を見つめた。
右手にバンズ、左手には真っ赤に輝くトマト。
「レタスもある。つまりどういうことかというと」
「……ハンバーガー?」
「大正解!」
にっ、とイトが笑った。
しっかり洗って水気を拭いた、ぱりっと張ったみずみずしいレタス。
分厚くスライスされた、鮮やかなトマト。
そして照り焼きハンバーグ。
真ん中で切ったバンズに挟めば、ボリューム感たっぷりのハンバーガーの完成だ。
崩れてしまわないように、長めのピンが刺さっている。
「さぁ、食べようか」
イトが皿を運んできて、ユッカの隣に座った。
「ありがとうございます。いただきます」
厚みのあるハンバーガーは、潰して食べるのが正解かもしれない。
しかし潰すにはなんだかもったいないと、ユッカは思い切って口を開けた。
「!」
とろりとした甘辛いタレの香りが鼻を抜けていく。
しゃきしゃきのレタス。
ジューシーなトマト。
ハンバーグはユッカのものよりしっかりとした食感。肉の主張が強いのに臭みがない。意外とスパイスは控えめに感じられた。
ふわふわではない、むぎゅっとしたバンズがそれらをまとめている。そんなハンバーガーだ。
「美味しいです」
「よかった! 僕もいただこうっと」
はぐっ、とイトが大口を開けてハンバーガーを頬張る。
「うん、うん」
そして満足そうに頷いている。
その後はふたりとも無言でハンバーガーを平らげた。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
べたべたになった手をペーパーで拭きながら、ユッカは言う。
「へへへ。それはよかった」
イトもどことなく満足そうだ。
「ところで」
「なんでしょう」
コーヒーのお替わりだろうかとユッカは立ち上がった。
「僕にもきみの食堂を手伝わせてくれないか」
「えっ?」
ところが予想外の提案に、ユッカはそのまま立ち尽くす。
席から立ち上がったイトは、名案と言わんばかりに両手を振った。
「生き返ったとはいえ魔力もほぼほぼなくなったし、これからどうやって生きていこうって思ってたんだ。僕を雇ってはくれないだろうか、どうか」
立て板に水のごとく、イトがまくしたてる。
「落ち着いてください。自分が何を言っているか分かっていますか?」
「僕は正気だよ。僕だって、食堂をやりたかったんだ」
「それならあなたはあなたでお店をやればいいのでは」
「君と一緒にやりたいんだ、ユッカ」
イトは、きらきらと瞳を輝かせた。
(頑固だというのは六十年前に身をもって知っていましたけれど、まさか、こんなことを言いだすなんて……)
ユッカは怯んだが、めげてはいられない。
「わたしは元魔王です。六十年前、あなたに封印された異世界からの転移者です」
「だからこそ言ってるんだよ」
「勇者と元魔王が一緒にいたら大問題です」
「君は鎧に操られていただけで、何も悪くない」
あなたにとってはそうかもしれませんが、とユッカは反論を続ける。
「生き返ったことをご家族に伝えた方がいいのでは? お孫さんもいると聞いていますよ。国王だって、いえ、国中が泣いて喜ぶと思います」
「僕だって生き返ったからには一度目の人生でやれなかったことに挑戦してみたいんだよ」
「……我儘すぎます」
「勇者は死んだんだ。ここにいるのは、何でもないただの人間、イトだ。僕の気持ち、君にだって分かるだろう」
ユッカは、見えないように拳をぐっと握りしめた。
「それでも、その提案は受け入れられません」
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