白夜月

楠木夢路

第1話

 その日もまた僕は眠れずにいた。

 蒸し暑さのせいにしたいが、そうじゃないことは自分が一番わかっている。それでも眠れない理由を認めたくなくて、ベッドにもぐりこんでみたけど寝返りを打つたびに目が冴えていく。暗がりで天井を見ているうちに、だんだん苛々が募ってくる。

 何だか不意に馬鹿馬鹿しくなった。

 眠りにつくことを諦めて、僕は乾いた喉を潤そうと台所に向かった。でも、すぐに冷蔵庫を開けたことを後悔した。開けっ放しの冷蔵庫から漏れる光が、ふすまを開いたままの和室に差し込んで真新しい仏壇が見えたからだ。

 母が死んでから、まだひと月も経っていない。

 見たくないものを見てしまったことが僕をさらに苛立たせた。僕は冷蔵庫を乱暴に閉めると、出したばかりのペットボトルを持ったまま表に出た。

 真夜中の住宅街はしんと静まり返っていた。僕はなるべく音を立てないように気にしながら、自転車に乗るとあてもなく走り出した。

 家の前の坂道を下ったその先には、暗い海が広がっている。潮風に誘われるように僕は緩い坂道を下った。ひと気のない国道にさしかかる頃には、潮の香りが強くなっていた。海岸線と並行する国道を少し東に走ると砂浜に降りれる石段がある。その階段脇の道路の隅に、僕は自転車を停めた。

 真っ暗な砂浜に降りると、僕は履いていたサンダルを脱ぎ捨て、ごろりと寝転んだ。月のない真っ暗な空には、たくさんの星がきらめいていた。

 寄せては返す波の音に耳を澄ましていると、海を独り占めした気分になってくる。僕は心地よい開放感をしばらく満喫していた。

 ふと気配を感じて周りを見渡すと、少し離れた場所で何かが動いた。目を凝らすと、若い女がひとり座っている。僕と同じくらいの年頃だろうか。彼女は僕に気がついていないのか、膝を抱えてじっと海を見ていた。

(いつからいたのだろう……)

 気付かなかったふりを決め込もうと目を逸らそうとした瞬間、彼女が僕の方に視線を向けた。目が合ってしまったことが何となく気まずくて思わず軽い会釈をした。すると彼女は目をいっぱいに見開いた。その顔を見た僕は、とこのまま知らん顔をすることができなくなってしまった。

「ごめん。脅かすつもりはなかったんだ」

 波の音で聞こえないかもしれないと思って、僕は両手を合わせて頭を軽く下げてみた。すると彼女はますます驚いたような顔をした。怖がらせてしまったのかもしれないと不安に思っていると、彼女は何も言わずに立ち上がった。それから僕の方にほんの少し近づいてきたかと思うと、少し離れた場所に腰をおろした。

 そのまま何も言わずに海を見ている。沈黙に耐え切れず、僕は彼女に問いかけた。

「こんな時間に、こんなところで何しているの?」

 彼女は答えるかわりに黙って僕を見つめた。それから何も言わずに、ゆっくりと視線を海に戻した。わざわざ近くまできておいて無視するなんて性格が悪い女だと、僕はちょっと不愉快だった。帰るつもりで腰を浮かせた時、彼女が呟いた。

「何をしていたのかしらね……忘れちゃったわ」

「忘れちゃったって……」

 彼女の意外な返事に気が抜けてしまって、僕はその場にまた座り込んだ。

 夏の夜とはいっても、海から吹き上げる夜風は冷たい。暗闇の中でも彼女のワンピースは白く浮かび上がってみえた。黒くて長いストレートの髪が風になびいている。

 彼女の横顔を盗み見ていると、彼女が不意に僕の方を向いた。大きな瞳でじっと見つめられて僕は動揺していた。まっすぐに僕を見つめる彼女の白い肌は暗がりの中でも透けるようだった。

「あなたは何をしていたの?」

「僕? 僕は……波の音を聞いていたんだ」

 彼女は不思議そうな顔をして、少し首を傾げた。

「こんな時間に? どうして?」

 聞かれて僕は考えた。どうしてだろう。寝苦しかったから。苛々していたから。一人ぼっちで家にいるのが辛くなったから。どれも本当で、でもどれも本当じゃない気がした。

 ふらりと外に出た。で、何となく海が見たくなった。海に来たから波の音を聞いていた。ただそれだけだった。

「なんでだろう。僕にもよくわからないよ」

 僕の言葉が間抜けだったからなのか、彼女は抱え込んだ膝の間に顔をうずめて、くすくすっと笑った。

「じゃあ、私と変わりないじゃない」

 確かにその通りだった。

「どうでもいいことよね、ここにいる理由なんて」

 彼女の言うとおり、どうでもいいことだ。

 ただ、僕はもう少しこのまま彼女と一緒にいたい、そんな気になっていた。

 僕はちょっとしたコミ障だと思う。話そうとするとどもってしまうし、相槌もまともに打てない。長い沈黙が続くと息が詰まって逃げ出したくなる。だから誰といても楽しくなんかない。気を遣いながら誰かと一緒にいることよりも一人でいることの方がずっと気楽だった。

 でも、今はそうじゃない。母が死んでからほとんど誰とも話をしていなかった。誰かと話をしたかった。

 彼女とは初対面なのに普通に話ができていることに僕は自分で驚いていた。彼女が黙って海を見ていても、なぜか逃げ出したくなることはなかった。知らない人と一緒にいたいなんて思ったのは初めてだ。

 もしかすると、彼女も同じだったのかもしれない。僕らはほとんど言葉を交わすこともなく、長い時間、暗い海をただ見つめていた。穏やかに繰り返す波のリズムのおかげなのか、沈黙でさえ不思議と心地よく感じた。

 どれくらいそうしていただろう。不意に彼女が小さな声で何か呟いた。でもその声は波の音にさらわれてしまった。

「なんて言ったの?」

 聞き返した僕に聞こえるように、彼女は波音より大きな声で叫ぶように言った。

「夏美。私の名前、夏美って言うの」

 ちょっと微笑んだまま彼女はじっと僕の顔を見つめている。鈍感な僕はしばらく考えてからようやく、彼女は僕が名乗るのを待っているらしいと思い当たった。僕は夏美に負けないくらい大きな声で叫んだ。

「信也…伊藤信也」

 夏美は小さく頷いて、それからまた海に視線を移した。

 夜の海は暗くて、どこまでが空でどこからが海なのか境界線がわからない。何もかもが曖昧だった。

 波の音を聞きながら星空を見ていると幻想の中にいるような気分になった。実は僕らは別世界に迷い込んだんじゃないかとか、この空と海の間には僕と夏美しか存在していないんじゃないか、とか僕はそんなくだらない妄想を楽しんでいた。

「もう帰った方がいいんじゃない」

 夏美がそう言ったとき、僕は思わず口にした。

「また会える?」

 僕の言葉に夏美はちょっと微笑んだ。

「いつでもここにいるわ」

 それが夏美と僕との出会いだった。


 次の夜も、僕は夏美のいる海に向かった。

 夏美は昨日と同じ場所に座って海を見ていた。僕が声をかける前に、夏美は振り返ってひらひらと手を振った。それを見た瞬間、夏美も僕を待っていたんだと思った。でもそれは僕のつまらない自惚れかもしれない。

 夏美は相変わらず口数が少ない。僕も何を話せばいいのかわからなくて、ただ黙って海を見ていた。

 繰り返す波音を聞いていると、時間が止まったように感じる。

 時々、夏美は思い出したように僕に話しかけてきた。たいして意味もない、他愛ない話ばかりだったけど、僕は嬉しかった。

「月ってね、一年にほんの数センチずつ地球から離れていっているんだって」

 空を見る夏美に倣って、僕も空を見上げた。

 雲の合間から下弦の月が顔を出していた。遥か遠くにある月が、今よりもっと遠く離れてしまって、いつか見えなくなってしまうのだろうか。

 僕は心の中では饒舌だ。でも、うまく言葉にすることができない。

 夏美はいつも海を見ながらひとり言のように呟いていたから、僕の返事なんか期待しているわけじゃなかったのかもしれない。それでも僕は夏美ともっと、ちゃんと話をしたいと思っていたから、それをできない自分にもどかしさを感じていた。

「月が消えると、満ち潮も引き潮もなくなっちゃうんだって。そしたら波も消えてしまうのかしら。波のない海なんて、何だかつまらないと思わない?」

 夏美が言い終わる前に、月は雲に隠れてしまっていた。見えなくなっても、そこに月があることを僕は知っている。でも気がつかないうちに月がどんどん離れていずれ消えてしまうなんてこと、今まで一度だって考えたこともなかった。

「そこに月があるのが当たり前だって思ってるけど、いつか月は消えちゃうのかもしれないのよ」

 何気ない夏美の言葉が、小さな棘のように僕の胸に刺さった。夏美は僕の胸の内には気づかないまま、またぽつりと呟いた。

「ねえ、昼の月を見たことがある?」

「昼の……月?」

「私、昼の月も大好きなんだ。青い空に浮かんでる真っ白な月。夜みたいに光っているわけじゃないの。雲の合間にうまく紛れていたりするんだけど、でもやっぱり月は月なんだよね」

 僕が返事をしてもしなくても、夏美はお構いなしだった。黙り込んだかと思ったら、急に思いついたようにおしゃべりをする。

 僕は時々、相槌を打つ。それでおしまい。会話なんて成り立っていないのかもしれけど、それでも僕は夏美といることが心地よかった。


次の夜も、その次の夜も、僕は夏美に会いに行った。

「夏美は海が好きなんだね」

 僕の言葉に、夏美は暗い海を見つめたままで呟いた。

「好きじゃない。前は好きだったけど、嫌いになったの」

 嫌いになったのに、どうして夏美はいつも海を見ているの? 喉元まで出かかった言葉を僕は飲み込んだ。夏美が怖い顔をしていたから。

 僕は相手の気持ちを汲むことが苦手だ。

 夏美を怒らせてしまったんじゃないかって僕はすっかり落ち込んでしまった。そんな僕の気持ちを察したように夏美はくすくすっと笑った。

「でも、また好きになれそうよ。ひとりぼっちじゃなくなったから」

 夏美が笑ったから、僕は心底安堵した。

 僕はただ夏美がいてくれればそれでよかった。自分でも馬鹿馬鹿しいと思うけど、僕はあっけなく恋に落ちていた。本当はうまく気持ちを伝えたいのに、何気ない会話でさえ頓珍漢な返事しかできない。何を話していいのかわからなくて黙り込む僕に、夏美は優しかった。

「僕と一緒じゃあ、つまらないんじゃない?」

「どうして?」

 夏美は意外そうな顔をした。

「だって、面白い話なんかできないし、退屈なんじゃないかと思って……」

 夏美はいたずらっぽい眼で僕の顔をのぞきこんだ。

「そんなこと気にしていたの? 退屈なんかじゃないわ」

 僕は夏美の一言に救われた気分だった。

「しゃべってなきゃダメ? 別に黙っていても構わないじゃない。それとも退屈?」

僕は慌てて首を横に振った。

「だったら、問題ないじゃない。沈黙が気にならないって、なんかいい感じよね」

僕はいつも自分がどう見えるか、気になっていた。夏美がどう思っているか、何を考えているか、そればかりを気にしていた。夏美が僕と同じように、ただ一緒にいて心地よいと思っていることが嬉しかった。

「沈黙が気にならないって、なんかいい感じよね」

 夏美の言葉が僕の中で何度もリフレインして響いていた。この瞬間、僕にとって夏美は特別な人になった。


 いつもと変わらない一日のはずだった。

 いつもと同じように学校が終わってからバイトに行った。何も変哲のない日のはずだったのに、そうじゃなかった。

 警察からかかってきた突然の電話。

 病院に自転車を走らせながら、僕は心の中で「きっと人違いに決まっている」と自分に言い聞かせていた。でも僕の望みは打ち砕かれた。霊安室で横たわっていたのは、まぎれもなく僕の母だった。

 両親はとうの昔に離婚して、家族は僕と母だけだった。

 こんなときどうすればいいのか、僕にはわからなかった。叔母に連絡をすると、飛んできてくれた。叔母の顔を見て気が緩んだのか、後のことはあまり記憶にない。

言われるがままに喪主として振舞っていたが、まるで実感がなかった。読経を聞きながら、まるで芝居の中の役者にでもなった気がしていた。

 それが終わると何でもない日常が戻ってきた。でもそれは決定的に以前とは違っていた。何気ない日常の中で欠けてしまった母の存在がどれほど大きかったのか、僕が気がついたのは母が死んだ後のことだった。

 叔母はあれこれ世話を焼いてくれた。「うちに来ない?」と言ってくれたけど、僕はその誘いを「高校に通うのが大変になるから」ともっともらしい理由をつけて断った。これからどうするか考えていたわけじゃない。ただ一人になりたかった。

 でもいざ叔母が帰って一人になると、長い夜をひとりで過ごすことは思っていた以上に辛かった。真新しい仏壇に線香をあげる時にも、水やご飯を供える時にも、母は死んだのだという事実が目の前に重くのしかかる。

 事実は受け入れるしかないと思う反面、どうしても事実を受け入れられない自分がいた。その挟間で、僕はどうすることもできずにただ苛々を募らせるばかりだった。

 だから僕は夜中に家を抜け出したのだ。

 でも夏美に出会ってから、僕は長い夜がもう怖くなくなっていた。そうして少しずつ現実との折り合いをつけられるようになっていた。


 その日は闇夜で夏美の姿は闇の中に溶けてしまっていた。思い出したように語る夏美の声だけが、夏美がそこにいる証だった。

 僕は砂浜にごろりと寝転がって、夜空を眺めてた。こぼれるようにきらめく星がたくさん見えた。ぼんやりと空を見ていると、急に空が明るくなった。そういえば、今夜は花火大会があると誰かが言っていた気がする。花火が上がるたび、闇に消えかけていた夏美の姿が浮かびあがった。僕は花火なんかより、それを見つめる夏美のほうがずっときれいだと思っていた。

 でも夏美の横顔はなぜか、寂しそうだった。

 花火が終わるとまた闇に包まれた。さっきより闇が濃くなった気がするのは気のせいだろうか。

「もう終わっちゃった。何だか寂しくなっちゃったね」

 夏美の声は波の音に紛れて聞きとりにくい。僕はその声があまりにも儚げだったから、そこにちゃんと夏美がいるのか不安になってしまうほどだった。

「誕生日」

「えっ?」

 僕はほんの少し夏美との距離を詰めた。すぐ耳元で夏美の声がした。

「今日、わたしの誕生日なの」

「そっか」

 気の利いた台詞も思いつかず、間抜けな返事しかできない自分が情けない。

「花束をもらうのが夢だったんだけどな」

 夏美の声も寂しさを含んでいた。僕は夏美の手を取ると立ち上がった。夏美の手は凍えるように冷たかった。

「行こう」

「どこに行くの?」

僕は返事もしないまま夏美の手をひいて小さな階段をのぼると、夏美を自転車の後ろに乗せて思いっきりペダルを踏んだ。どこかで落としてしまったんじゃないかと心配になるほど夏美は軽かった。僕の腰に回した夏美の手を、僕は何度も確かめずにはいられなかった。

 街外れの公園に自転車を停めると、夏美はひらりと自転車から降りた。

「どこ行くの?」

 答える代りに、僕は夏美の手をとると駅前の商店街に向かった。花火大会の帰りなのか、浴衣を着た人たちで通りはまだ賑わっていた。

 人混みは苦手だ。

 でも今日は夏美と一緒だから大丈夫だ。僕は自分にそう言い聞かせて、ぐいと背筋を伸ばした。夏美と逸れてしまわないよう、僕はしっかりと夏美の手を握って人混みの中を歩いた。花屋はすぐそこだった。

「伊藤君」

 突然、声をかけられて僕はびくっとした。知り合いがいてもおかしくないのに、誰にも会わないと無意識に決めてかかっていたらしい。

 そのまま聞こえないふりをすればよかったのに、僕はつい振り返ってしまった。通りの向こうから、中学時代のクラスメイトの澤井さつきが見知らぬ小さな女の子の手を引いて、こちらに走ってきた。

「久しぶり、元気?」

「ああ」

 僕は愛想笑いをした。本当は早くこの場を離れたかったけど、彼女はそんな僕の気持ちなんかお構いなしで話しかけてくる。僕はほとんど聞いていなくて、それでも会話を切り上げる術もなく、適当に相槌を打った。

 ふと強い視線を感じた。

 視線を落とすと、澤井が連れている小さな女の子が僕の肩越しに夏美をじっと見つめていた。女の子は真っすぐに夏美を見つめていた。僕の後ろで夏美が固くなっているのがわかる。僕はそっと身体をずらして、女の子の視線から夏美を隠した。

 女の子はちょっと驚いた顔をして、僕を見上げた。

「こんな小さな妹がいた?」

 僕は女の子の視線を躱しながら、澤井に問いかけた。

「従妹なの。柚葉、あいさつくらいしなさい」

 女の子は澤井が何を言っても何も言わずに、ただじっと僕の顔を見つめている。相手は子どもだというのに、僕は一瞬たじろいだ。

「柚葉、いい加減にしなさい。ホントにごめんね、この子、ちょっと変わっているのよ。お兄さんに失礼でしょ、柚葉ってば」

 その子は瞬きもせず、僕の瞳をまっすぐに見つめたまま呟いた。

「そのお姉ちゃんとは、一緒にいちゃダメなんだよ」

 僕の身体は怒りでかっと熱くなった。

 初対面の子にこんなことを言われる筋合いはない。僕の後ろで夏美がそっと僕のシャツを引っ張った。僕は小さく頷いた。

 僕は無言のまま踵を返した。夏美の手をしっかりと握って、そのまま歩き出した。

「伊藤君、待って。伊藤君ってば」

 僕は澤井の声を無視した。

「柚葉、どうして急にそんなこと言うの!」

「本当のこと、言っただけだもん」

 二人が言い争う声はだんだん遠くなっていく。僕は何も聞きたくなかった。自転車をとめた公園まで戻ってから、僕はようやく足をとめて、夏美の方を振り返った。

「大丈夫? 嫌な思いさせちゃったね」

 僕は夏美が心配だった。

「別にかまわないわ」

「ここで待っていて」

 僕の言葉に夏美が頷いたのを確認してから、僕は花屋まで走った。花屋にたどり着くと、僕は迷った挙句に白いバラの花を買った。

「誕生日のプレゼントなんです」

 僕がそう告げると、花屋のおばさんは奥に引っ込んだままなかなか出てこない。待っている間、夏美がいなくなっているんじゃないかと不安で仕方がなかった。

 やっと出てきたおばさんは、淡い水色のリボンをつけた花束を、僕の方へ差し出した。僕は花束を受け取ると、急いで夏美が待つ公園に戻った。

 公園に夏美の姿はなかった・

 帰ってしまったんじゃないかと心配しながら僕は夏美の姿を捜した。夏美は花屋とは反対側の道路にいた。街路樹の下に佇んでファミレスの入り口を見つめていた。

 白々しい灯りのついたファミレスからちょうど家族連れが出てきたところだった。先に店から出てきたらしい小学生くらいの女の子が、母親らしき人と店の入り口で楽しそうに話をしている。その後ろから、高校生くらいの男の子と父親らしき人が肩を並べて店から出てきた。出てきた父親が女の子に話しかけると、女の子は嬉しそうに跳びはねた。どこにでもいる普通の家族だった。その家族を夏美は食い入るように見つめていた。

「夏美?」

 声をかけても、夏美は気がつかない。その家族が楽しそうに車に乗り込んで行ってしまうまで、夏美はじっとその様子を見つめていた。車を見送ってから、夏美はふうーっと長いため息をついた。

「長い時間が経ったのね」

 何か言わなきゃと思ったけど、何を言えばいいのかわからなかった。代わりに僕は持っていた花束を夏美にそっと差し出した

「お誕生日おめでとう」

 花束を両手で受けてとって、夏美はにこりと笑った。

「ありがとう」

 夏美は、あまり嬉しそうには見えなかった。

「バラは好きじゃなかった?」

 夏美は首を横に振った。

「大好きよ。また夢がひとつ叶ったわね」

 笑ってみせた夏美の表情から、鈍感な僕にも夏美には花束をくれるはずの人がいたことがわかってしまった。僕にとって夏美は特別な人だったけど、夏美にとっての特別な人は僕じゃなかったんだ。

「本当に嬉しかったのよ。ありがとう」

 夏美の言葉に僕は素直に喜べなかった。

 花束を抱えた夏美を僕は自転車の後ろに乗せた。

「家まで送るよ」

「いつもの海まで、でいいの」

 もしかしたら、夏美はずっと迷惑だったのかもしれないと僕は考えずにはいられなかった。いつもの海まで戻って自転車をとめると、夏美はふわりと自転車を降りた。

「ここでいいわ。ありがとう」

 僕は小さく頷いてそのまま自転車を走らせた。いつもより冷たい夜風が、僕の体と心に沁みるようだった。


 次の夜、僕は迷った挙句、夏美のところに行くのは辞めにした。ひとりよがりな思いが夏美を困らせているのかもしれないと思ったから。でもその日は眠れなかった。さんざん悩んで、次の夜は夏美に会いに行くことにした。

 もし僕に会いたくなければ、夏美はきっといないだろう。でもそうじゃなければ、きっと今夜もいつもの場所にいるはずだ。

 自転車を停めて階段を降りると、夏美はいつもと同じ場所にいた。僕はほっとしながら夏美の隣に腰をおろした。夏美も僕を見てほっとした顔をした気がした。

「もう来ないつもりかと思ったわ」

 僕は返事をせずに海を見ていた。話したいことは沢山あったのに言葉が出てこない。今日の海は少し荒れているのか、いつもより波の音が大きい。

どれくらい経っただろう、夏美がふいに切りだした。

「私、本当は……」

「何も言わなくていいよ」

僕は夏美の言葉を遮った。夏美がこれから言おうとしていることがわかっていたから。でも今はまだ聞きたくなかった。

「聞いてほしいの」

 ごまかせないのなら自分から切りだす方がいい。

「知っていたんだ」

 夏美は一瞬、驚いて、それから笑い出した。

「そうだったんだ。いつから?」

「出会った瞬間から」

「あなたって本当は人が悪いのね」

 僕は頭を掻いた。

「騙すつもりなんてなかったんだよ。僕だって驚いたんだから」

 夏美は頷いた。

「ここはもう、私がいる場所じゃないのよね」

 そんなことはないって言いたかったけど、もう嘘をつくことはできなかった。そう、最初に会ったときから僕にだってわかっていた。それでも頷くことができなくて、僕は膝を抱えこんだ。

「私を見つけてくれたのは、あなたが初めて」

「だから最初に会ったときに、あんなに驚いたんだね」

 夏美は答える代りに、ふふふと笑った。

「この前の家族、覚えてる?」

「うん」

「昔、付き合っていた彼なの。隣にいたのは私の親友。可笑しいでしょ。あんなに歳を取っちゃってたなんて思いもしなかったわ」

何となくそんな気がしていた。目の前の夏美は、僕と同じくらいにしか見えない。だとしたら、ずいぶん長い間ひとりぼっちでここにいたことになる。

「私が死んだとき、彼はたくさん泣いていたのよ。彼は君を忘れないって言ってくれた。すごく嬉しかった。でも、時が経つにつれ、ずっと彼のそばにいて支えていた彼女を、彼が好きになったのがわかった。私は嫉妬したの。ずるいよね、どんなに想っていても、彼には私が見えない。そばにいればいるほど、寂しくなってしまった。二人が一緒にいるのなんか見たくないって思っているうちに、いつの間にかここにいた。それからはずっと一人……」

 だから、夏美は消えなかったのだろうか。あの人への未練が夏美の魂をこの世に留まらせたのだろうか。僕はそれほどまでに夏美の心を掴んでいた彼が、正直いうと羨ましかった。

「でも、あんなおじさんとおばさん相手じゃ、妬くのも馬鹿らしくなっちゃった」

 夏美は本当におかしそうに笑っていた。僕はあの家族のことを思い出していた。どこにでもいる普通の家族。そんな普通の幸せを、夏美はもう永遠に手に入れることはできない。そう思うと、何だか切ない。そんな僕の気持ちを察したように、夏美は明るい声を出した。

「本当はね、そんなこと、もうとっくにどうでもよくなってたんだと思う。ただ、誰にも知られずにこのまま消えちゃうのは悲しすぎるなって。でも、あなたが見つけてくれたから、もう気がすんだわ」

 夏美は立ち上がった。

 引き留めちゃいけないことはわかっている。わかってはいたけど、このまま別れるなんて嫌だ。僕も慌てて立ち上がった。言いたいことは沢山あっても、やっぱり言葉が出てこない。

「また会えるよね?」

 そう言うのが精一杯だった。夏美はふわりと微笑んで、首を横に振った。

「夏美、僕は……」

「ありがとう。楽しかったわ」

「嫌だ。もっと話をしたい。夏美がいなくなったら……」

 僕はまた一人ぼっちになってしまう。そんなの到底、受け入れられない。

「あなたは大丈夫。これからたくさん出会いがあるわ。きっと楽しいことがいっぱい待っているから」

 微笑んだ夏美の体はすでに透けていた。このまま夏美が消えてしまったら、きっと僕は後悔するだろう。これが本当に最後になるんだとしたら、せめて、ちゃんと伝えておきたかった。

「好きだったんだ、夏美」

「私も最初から知ってたのよ」

 夏美はいたずらっ子のように笑った。

「嬉しかった、ありがとう。私が消えても、私のことを覚えていてくれる?」

「約束するよ」

 僕がそう言うと、夏美は満足そうに微笑んだ。

「さよなら、信也」

 それが最後だった。

 僕はその場に座り込んだ。

 夏美はもう天国に行ってしまったんだろうか。死んだらどこへ行くのか、僕にはわからない。でも、ひとつだけわかっていることがあった。もう二度と夏美に会えないだろう。

 夏美、僕は初めて君を見た瞬間から知っていたんだ。君がいつか消えてしまうことも、それがどうしようもないってことも、ちゃんと知っていた。

 それでも、時間の流れさえ止めてしまいたかった。ずっと一緒にいたかった。でも、それがどれほど儚い夢かってことさえも、僕は最初から知っていたんだ。

 僕はまたひとりぼっちになってしまった。前よりもっと寂しくなるのかもしれない。それでも僕は君に出会えて良かった。

「ありがとう。さよなら、夏美」

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白夜月 楠木夢路 @yumeji_k

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