岐天駅

緑川 つきあかり

岐天駅

 人はいつだって選択する。


 通学路の分かれ道や、通勤時の改札口の列とか、疲れ果てながらの帰り道だったり……。


 だが、何気なく進んだ道の先。


 其処は本当に望んだ道だったのだろうか。


 人は、此処での選択に必ず後悔する。


 それは誰であったとしても、どんな理由であろうとも、決して納得など出来はしない。


 それでも、それをまだ知らない者がいる。


 そう、見知らぬ電車でいつまでも呑気に眠りこけている、この呆れた人のように――。


「起きてください。起きてください」


 何処にでもいるような中肉中背の中年男性が、椅子に凭れ掛かって夢路を辿っていた。


 さぞ草臥れたご様子で中小企業の重苦しい残業から解放され、おまけにコクリと不安定に小首を傾げていて、角ばった地味な眼鏡が今にもズレ落ちそうで、足が地に着かない。


 ほんの一時の幸せを噛み締めるような寝顔で、苦しげにぶつぶつと何かを呟いている。


「ってる。わかぁってるよ……ったくぁぁんでおれぇが」


「起きてください」


 毛布で包み込むような暖かな呼び掛けに応える訳もなく、ただ時間だけが過ぎていく。

 

「ハァ。起きてください!」


 嘆息しながら丹田に力を込めて、怒号を飛ばせば――その一言に僅かに眉根を寄せる。


 そして、何とまぁ不機嫌そうに、不服そうで、不満げそうにようやっと右目を眇めた。


「……?」


「ようやっと起きられましたか」


 チラチラと周囲に微睡んだ目を泳がせる。


「あれ、此処は?」


「……」


 窓の先に垣間見える駅の看板に目を配る。


「岐天? 知らない駅だな」


「……」


「君も寝過ごして此処に?」


「まぁ、そんなところですかね」


 男性はチラリと全開となった扉を一瞥するが、未だに閉まる気配がない様に安堵した。


「終点かな……。君が起こしてくれたの?」


「えぇ」


「わざわざ、ありがとうね」


「いえ」


 慌てふためく様子もなく、悠然とした表情を浮かべ、重い腰を上げて徐に立ち上がる。


 ふらふらと酔っ払いの立ち振る舞いかのように歩みを進めていき、俺もそれに続いた。


「すみませーん! あれぇ? おかしいな」


 一両、二両と静寂なる車内を跨いでいく。


「いやー乗り過ごしちゃったなぁ」


 だが、「そうですか」と乾いた返しを告ぐ。


 車内には雑音ばかりが行き交い、谺していた。そんな些細な音に草食動物のように怯えた様子で耳を立てて、幾度となく振り返る。


 先程まで薄ら笑いを浮かべていた他人事の面構えは、次第に顔面蒼白に変色していく。


 運転席の扉に手を掛けんとした瞬間――俺は咄嗟に声を大にして、静寂を切り裂いた。


「まだっ……止めておいた方がいいですよ」


「えぇ? まぁ、そっかぁなぁ。その内、出てくるかも知れないしね」


 そして、電車の外へと目を向ける。


 淡々と……けれど、何かを気取ったように、不規則でいて散漫とした足並みで進みゆく。


 もう解っている筈なのに、知りたくない。そう立ち振る舞いから赤裸々に心情を吐露するかの如く、電車の乗車口から飛び出せてしまう、あと一歩の所で踏み止まってしまう。


 再びの静寂で徐に息を呑む。


 その音は傍に佇む俺の鼓膜に響くほどに。


 ただの武者震いか、将又身震いなのか……体を小刻みに震わせて、俺を尻目に扉のように無機質に、茫然と立ち尽くしてしまった。


 畑に入ればカカシとなり、ダルマさんが転んだをしてれば、一位になれる逸材だろう。


 絶え間なく滴り落ちる雫を除けば、だが。


「行かれないんですか?」


「……」


 きっとまだ、俺の言葉すら届いていない。


「なら、元の席へ戻られたらどうです?」


「……」


 無情な言葉を躊躇いなく言い連ねていく。


「戻られたら如何ですか。もう一度夢の続きを見るといい。きっと夢見が良いでしょう」


 間。


 その一言にようやっと大きく踏み出した。


 そして、全開になった扉から後ずさっていき、キョロキョロと挙動不審に周囲を見回す。


「な、何だ此処は?」


 ついつい俺も好奇心に駆り立てられてしまい、決して車内から一歩も出ないように最大限の注意を払いつつ、そっと顔を覗かせた。


「あー今日は曇っているようですね」


 ふと、静止画みたいに微動だにしない男性に目を向ければ、正に暗雲立ち込める光景に開いた口が塞がらぬまま、唖然としていた。


「……」


 いつもながらに駅のホーム全体が鈍色の雲に包み込まれており、列車の先頭と後尾の姿だけがどうにも見えず、ずーっと横目に映ったまんまのあの人は完全に言葉を失っていた。


「降りられるんですか?」


「君は……降りないのかい?」


 乗車口を前にして、静かに変な姿勢を維持する俺を不思議そうに見つめ、そう言った。


「降りません。いや……降りられませんよ」


「そ、それはどう意味かな?」


「此処はまだ終点じゃないです。いや」


 無意識のうちに下顎にそっと手を当てて、意味もなく真左の遥か遠くを呆然と眺めた。


「捉え方によっては始点かも知れませんね」


「き、君は一体、何が言いたいんだ?」


 怪訝な形相で白眼視を向ける様に、緩慢に手を下ろすとともにそーっとそっぽを向く。


「此処で降りる者に告げる事はありません。どうか、夜道にはくれぐれもお気をつけて」

 

 またしても、静寂。


 じわっと干からびそうなほどに額に汗を滲ませ、スローモーションに息を呑んでいた。


 一呼吸終えると――立ち止まった歩みを再び進めてゆく。心底嫌がっていた車内へと。


 だが突然、腰を抜かして地に尻餅を付く。


「あ、あっ……‼︎」


 どうやら男性は足から目を離せずにいた。


「足がっ!」


「当然でしょう」


 まぁ、突然膝から下が綺麗さっぱり消えているのだから、無理もないのかもしれない。


「ぇ?」


「だって貴方、もう死んでますから」


「……は?」


 三度、いや幾度となく訪れただろう静寂。


 そして、泳がすように視線を移し変えた。


「き、きみはあるじゃないか!」


「へぇ……」


 そう見えてるのか。


「ふ、ふざけるてるのか! 君はっ‼︎」


 耳を劈くような怒号が飛び交い、谺する。


「そんなに俺と話がしたいのなら中でしましょう。椅子に座って、落ち着いた状態でね」


「あぁ、ああ! そうさせてもらおうか!」


 そう言い、男は拳を握って立ち上がり、使えない脳みその所為でなんだかんだと文句を付けつつも、原点回帰を果たしてしまった。


 今にも手が出そうなほどに握りしめた拳を小刻みに震わせて、瞬くことなく凝視をし、腹痛なのか自らの懐に片手を忍ばせていく。


 痛いのは嫌なので僅かに顔を仰け反り、苛立てぬように事の概要を殊更、手短に説く。


「此処は善悪が均衡した者のみが乗る場所。岐天です」


「岐天? 起点じゃないのか?」


「それは創設者の匙加減でしょう」


「それで、どうすれば正しく降りられる」


 俺は徐に両の掌を差し伸べ、天を仰ぐ。


「此処に在りますは、天秤に乗った善と悪。右には悪を。例えて言うなら窃盗に暴力と暴漢、殺人を。こちらの左には善。些細なゴミ拾いや、身を挺して誰かを護ったり、命を賭してまで、赤の他人を助けるなんかですかね」


「私は一度たりとも刑務所に入ったことなどない」


「えぇ、だから余程、善行を為さずに亡くなられたんでしょう」


「……」


「そして、これは本来であれば、どちらかに傾き、明確なる道が開かれる。けど稀に平衡に、つまり横並びになることがあるんです」


 まるで稚児に勉学を教えるような気分だ。


「まぁ簡単に言って、最終審判の試験みたいなものだと思ってください」


「試験?」


「えぇ、貴方の明日が掛かった重要な試験」


「どうすれば、此処から出られるんだ?」


「この電車の前後の運転席に立ち入れば――一応は出られると言えるでしょう」


「前と後ろ? 出口は二つあるのか?」


「一つは過去、もう一つは未来へ行けます」


「過去と未来?」


「えぇ自らの行いを顧みる過去か、全てを忘れ去り未来へ行くか。全ては貴方次第です」


「随分と博識じゃないか」


「何せ、瞼の裏側に焼き付いていますから」


「……?」


 まだ理解が追いつかないのか、不思議そうに寝坊けていた時そっくりに小首を傾げる。


「君はここの運転手かい?」


「いいえ、違います」


 俺は食い気味にそう云った。


 そして、まるで一流探偵のように口元に手を当てて地に俯き、足組で思考を巡らせた。


「……」


 狐疑逡巡。


 と、言ったところだろうか。


 長考。


 未だ尚、結果を出さずに逡巡とする様に、暇過ぎるこちらは僅かながらに倦んでいた。


 だが、チラチラとこちらに視線を泳がせるようになり、次第に慎ましさを覚えるようになっていく。遂に足を丁寧に折り畳み、仰々しく哀れみを乞うような上目遣いを向ける。


「最近は近代化が進んでいるんですよね」


「それはどういう意味だい?」


 先程とは打って変わって、朗らかに満面の笑みを浮かべて問いに随分と丁寧に尋ねる。


「まぁ、あまり深く悩まないでください。程度だと思えば、とても気が楽でしょう?」


「はは。小テストの点が悪くても、心は沈むよ」

 

 そっと懐に仕舞われた懐中時計を取り出す。いつ何時に於いてもこれを見ていると、茫漠とした夢のように不思議な感覚に陥ってしまう。まぁ、それが楽しみで仕方ないのだが。


 此処では特に。


「良い時計だね」


「え?」


「かなりの古そうに見えるけど、新品みたいに綺麗だ。余程、大切にしているんだね」


「別にそんなことしてませんよ。でも……そうですね。とても、とても大切なものです」


 そう云い、胸元にグッと押し当てていた。


「私にも君くらいの娘がいてね」


「はぁ……」


 唐突な過去語りに僅かに眉根を寄せる。それでも減らず口は留まる所を知らずにいた。


「昔はよく私に何処までも付いてくる甘えん坊だったんだ。帰ってくるなり、抱っこを要求してきてね、『大きくなったらパパと結婚するんだ』なんてことをよく言っていたよ」


「慕われていたんですね」


「あぁ、懐かしいな。あの頃は妻も私に尽くしてくれたんだ。どれだけ帰りが遅くなっても、玄関でずっと待っていた。なのに――なのに、なんで私より先に行ってしまうんだ」


 そう目。覆い隠すように掌を当てがった。


 俺は其を茫然と見下ろし、手を拱く。

 瞬き一つせずに明確なる侮蔑を含んで。


「じゃあ、お先に」


「もう行くのかい?」


「えぇ、長くなりそうなので」


「色々と……ありがとう」


「いいえ、当然のことです」


「また、何処かで」


「存外、直ぐに会えますよ」


 そう言い残し、その場を後にした。


 今頃、あの人は決して結果の変わらぬ長考に入り浸っているのだろうか。そんな思いを馳せ、悶々と瞼の裏をじっと見つめていた。


 そして、ようやっと足音が近づいてくる。


 とても落ち着いているけれど、何処か不安を漏らすような一歩一歩を踏みしめていく音。


 それは案の定、傍らでピタリと止む。


「き、君が何故、此処に⁉︎」


 騒々しく喚き散らかす姿がありありと目に浮かびつつも、これ以上車内で五月蝿くされても困るので重く閉ざした瞼を渋々、開く。


「そんなに驚かないでください。まるで幽霊でも見たみたいに」


 大袈裟に目を名一杯見開いて、茫然自失。


「ところで……こちらは未来行きですが?」


「い、いや違うんだ。駅員に会いに」


「彼にお会いになりたいんですか? それなら、どれだけ探しても無駄だと思いますよ」


「は?」


「だって、私が車掌ですから」


「……。さ、さっきと言っていることが違うじゃないか!」


 情けなく狼狽えながらも、無駄に物覚えの良い記憶を駆使し、俺に尖った指を差した。


「先も言ったように目的地まで貴方を運ぶ事は私にはできません。ですが、お客様にとっての正しい道を開き、導くことはできます」


「……」


「家族が亡くなられたのも嘘ですよね?」


「……」


「私は一流探偵でもないので、仕草や言動からしか貴方を判別することが出来ませんが、最愛とまで宣っておきながら、やけに思い悩むなとは思ったんです。だって家族が死んだんなら、こっちには来ないでしょう普通……」


 我を忘れて、舌剣なる言葉を突き立てた。


「き、君は一体、何がしたいんだ! 私を弄んで何の意味がある⁉︎」


「そんなに怖がらなくても……まるで幽霊でも見たみたいに」


 全てを悟ったように頬を引き攣って、暴君さながらに両手を乱暴に振るう。


「何故、教えてくれなかった!」


「試験官に淡い期待を抱かないでください」


「なら! 邪な考えを持って逆の道へ行ったらどうなる⁉︎」


「恐らく望み通りになっていたでしょう。それも選択ですから」


「ふざけるなっ、ふざけるなよ! こんなふざけた問題ごときで私の運命を勝手に決められてたまるか!」


「善行。あるいは悪行を積んで来なかった己を呪ってください」


「私は、私はこれから先、どうなる!」


「それは貴方が一番良く分かっているでしょう?」


 理不尽を憎もうが、恐れを含もうが、怒りを孕もうが、決して結果は変わりはしない。


「切符を拝見します」


 グッと奥歯を噛みしめ、無情に進みゆく時の流れを味合わなければならないのだから。


「私は報われるべきだ! 全てをやり直す資格がある筈だ! きっと必ずそうなんだ!」


「貴方はその資格取得の試験に堕ちました。残念ながらこれが現実です、受け止めてください」


 意味もなく閉ざした道へと振り返った。


「恨むなら……前の車掌を恨んでください」


 颯と、その一言にピタリと動きを止める。


「前の?」


 恐らく、この人とは最後であろう静寂。


 そして……天啓。


 緩やかでいても一切の揺らぎなく、踵を返すとともに禽獣たる視線だけを俺に向けた。


「君が死ねば、次の車掌は誰になる?」


 こっちは、悠長に天を仰がせてもらった。


 残り少ない海馬を切り刻むようなズキズキとした鋭い痛みが、前頭部を絶え間なく襲った。


「それだけは……『やめておけ』」


 親父狩りを恐れての護身用にしてはちょっとばかり物騒な刃渡り数センチのナイフを懐から取り出し、その鈍色に輝く鋼の刃の鋒は、静かに俺のガラ空きの胸を捉えていた。


 そんな最中、悟られぬように一瞥する。


 ゆっくりと閉ざしてゆく扉を。


 淡々と引き摺るようにして躙り寄っていき、次第にヒートアップして、駆け出した。


 眼前に迫り来る刃に己の瞳が映り込む。

 まるで泥濘に嵌ったかのように生気が微塵も感じられない、ドブのような真っ黒な瞳。


 そして、「ハァ」静かに一歩を後ずさり、

ダンッ。と云う音とともに扉は閉ざされた。


 振るったナイフと時同じくして、俺の身体は幽霊に触れるさながらにすり抜けてゆく。


 男は扉に激しく打ち付けられ、悶絶した。


 いや、正しくは犯罪者と呼ぶべきだろうか。


「だから言ったでしょう……」


 もう中身まで出てしまいそうなため息を零しながら振り返れば、膝から崩れ落ちたまま小さな呻き声を上げて、打ち拉がれていた。


 そんな真っ只中にこんなことするなんてとても心苦しくは無いのだけど、苦渋を味わうような面差しを見繕い、胸元にそっと手を添えて、手繰り寄せるように切符を取り出した。


 まだ新品。


 それでも、もう二度と戻ることの出来ない片道切符に穴を開けて、いつまでもピーピー喚く犯罪者の元の場所へとそっと返還した。


「――ご乗車ありがとうございます。ご到着までの短い時間をどうかお寛ぎください。次の駅は、地獄。地獄です。お忘れ物の無いよう、ご注意ください」


 そう言い残し、俺はその場から逃げるように真反対へと弾んだ足取りで消えていった。


 窓の先に映り込む、たわいもない日常。


 この長ったらしい駄作なる走馬灯を最後まで見届けた者は、果たしているのだろうか。


 無情に過ぎゆく時間に、ただ只管に自堕落に流されていく。そんな傍ら、徐に懐の真新しい懐中時計を弄って、閉ざした蓋を開く。


 それは、グルグルと針が目にも止まらぬ速さで回転し、今にも弾け飛びそうであった。


 この懐中時計も相不変に老いることを知らないな。――あの人は成仏したのだろうか。


 本当に面白みのない不変なき光景を延々と眺めていると、気が滅入ってしまいそうだ。


 頻りに睡魔が襲ってしまうほど…にぃ…。


 カチカチ。蛍光灯が点滅する。


 最近は電気の調子が特に悪く、薄暗い食卓を囲む家族の顔がよく暗闇に呑まれていた。


 だから、買いに行った。


 学校の帰りに一人で、買いに行ったんだ。


 遠回りもせず、道草も食わず、正しい道を最短で進んでいった。


 けれど、照明の箱を小脇に抱えた頃には既に日が暮れていて、闇夜が静かに漂っていた。


 それも、最悪なことに携帯を忘れて……。


 父母も妹も今日は早く帰るとのことだったので、俺もいつになく慌てて帰路を辿った。


 ようやっと息を切らして我が家に着いて、玄関前へと淡々と足を運んでいく。


 ドアノブに手を掛ける瞬間。


 いやに不気味な静寂。


 そして、何故だか扉が開いていた。


 半開きになった扉からは何も聞こえない。


 いつもなら、母と妹のたわいもない口喧嘩な、父の乾いた笑い声がしている筈なのに。


 わかっている。けれど、俺は知りたくない。


 そんな思考を読んでいるのか、そう望まぬ形で扉の隙間から緋色の鮮血が眼下に伝う。


 まるで悪夢を見ているような気分だ。


 これが運悪く覚めぬ夢だと信じ、小刻みに手を震わせて鼓動が早鐘を鳴らしながらも、必ず地獄が待つ、先の扉を開いてしまった。


「はい」


 自らをも欺く善良な一市民を演じる、ずっとテレビ越しでしか目にしたことが無い男。


 それは何度も何度も何度も、幾度となく目に焼き付けた憎き野郎の面がようやっと……俺の瞳に映り込む。平和ボケした両の眼に。


 配達員を装う俺の姿に、一瞬の強張りを見せる最中、ナイフを土手っ腹に突き立てた。


 徐に天を仰ぐ。


 曇天。


 まるで己の心情を表すかのように、空はこんな時だけ鈍色の暗雲が覆い尽くしていた。


 真っ赤でいて皮膚によく残る血に染め上げたナイフを片手に、ふらふらと進んでいく。


 何処に行く訳でも、帰る場所がある訳でもない。ただ只管に途方もなく彷徨うように。


 だが、人には平等に、不平等に罰が下る。


 視界の端にチラつくエレベーターを横切り、階段を蹌踉けるよう軽快に降っていく。


 それでゴミ袋を両手に抱えた一人の女性。

足先から前髪に至るまで徐に視線を泳がせ、お互いの視線がぶつかり合い、間が生じる。


「あ……」


 一刹那の間が、不思議と聞いた通りに時が止まったかのようにゆっくりと流れていく。


 そして、パンパンに詰められたゴミ袋を両脇に抱えて、女性は一心不乱に駆け出した。


 その必死な後ろ姿にどうしてか微笑んだ。


「は、はは」


 それはきっと、ずっと止まっていた時間が突然、動き出したからに他ならないだろう。


 いきなり部屋中に響き渡るインターホン。


 落ち着いた足取りで玄関前に進んで、何気なく扉を開けば、白髪混じりの老婆がいた。


 まるであの小説に出てきそうな姿で――。


 ドンッ、と衝撃が丹田を突き抜けていき、徐に異物感が絶えず訴える腹に目を向ける。


 生暖かなじわっと粘ついた液体が、真っ白なTシャツを次第に真っ赤に染め上げていく。


 その老婆はそのまま覆い被さるようにして、背から床に倒れ込み、打ち付けた背中一帯は息ができないほどに鈍い痛みを訴えた。


 朧げな意識が続く中、ふと扉の先へと仰ぐ。


 其処には燦々たる太陽光が降り注ぎ、天には雲一つない澄み切った青空が広がっていた。


「返してッ!」


 耄碌して戯言をほざく老婆の頭上へと、今正に振り上げんとしていた拳をそっと下ろす。


 視界の端から徐々に暗闇が広がっていく。


 耳障りな音だけがいつまでも鼓膜に響き、痛みも感覚も光さえも、もう何も見えない。


 そして、斯くも呆気なく自らの人生に終わりを告げた俺が次に目を覚ましたのは、見知らぬ駅のホームであった。


 周囲を見回せば、雑音ばかりが行き交う駅周辺は、ただ一人を除いて他は誰もいない。


 けど凛とした好青年が丸眼鏡を掛けて、出入り口前の壁に凭れ、静かに凝視していた。


 車掌の制服を纏い、首にぶら下げた真新しい懐中時計に、ほんの一瞬、目を奪われた。


「き、綺麗な時計ですね」


「ん? あぁ、そうなんだ。とても大切な物だよ」


 そう言い、時計を胸に力強く押し当てる。


「誰ですか? ……というか、此処は?」


 車掌は、懐中時計を一瞥する。

 驚くほど似合わぬその様に玩具のペンダントを掛ける子供の姿が、頻りに頭に浮かぶ。


「始まりであり、終わりの場所。岐天駅だよ」


「始まり?」


「人によっては天にも地獄にも変わる場所。まぁ大抵の場合は、堕ちてばかりだけどね」


「はぁ……」


「詳しくは中で話そうか。時間は幾らでもあることだし」


「……」


 不思議な人だな。


 そして、駅へと踏み出すとともに、運転席への道に第一歩の足を乗せる。


「おめでとう」


「は?」


「君は天国に行けるよ」


「天……国?」


「あぁ、君はこの試験に合格したんだ」


「試験。試験ってじゃ、じゃあ! 過去に戻れるって話は?」


「……」


 悄然とした顔つきで、突然、口を噤む。


「俺、言いましたよね。過去に戻れるのかって、で、それで、だから、俺は……」


「君の心情も汲まずに軽率な発言をしてしまったね、本当に申し訳ない」


 疾くに拳を握りしめる。


「どんな考えがあってか解らないけど、やめておけ。それだけは……」


 気付けば、彼の眼前へと瞬く間に迫り、俺は振り上げた拳を顔面に振り下ろしていた。


 車掌の上に跨り、鮮血に染まった拳を骨が透けて見える頬に矢継ぎ早に振るう。


 車掌は憐れむような目を向ける。


「すまない」


 その一言が俺の拳を更に強く漲らせると共に、懐中時計を俺の胸元に強く押し当てた。


「これは君にとって必要な物だ」


 鈍器を振り翳すように渾身のいちだを振るう。


 だが、最後の一振りを受け止めたのは冷然たる床だった。


「は?」


 ふと窓に目を向ければ、其処にいたのは、車掌なる制服を纏っていた俺だけであった。


 彼は雲のように雲散霧消していた。

 地に臥した懐中時計だけを残して……。


「……」


 ……またか。


 緩やかに目を開く。


 最近はよく、この子守唄ならぬ子守映像に魅せられてしまい、眠りこけてしまう。


 懐中時計。


 もう顔も声も色褪せたかのように、鮮明には覚えていない。


 けれど、貴方が大事にしていたこれだけは、いつまでも記憶の一頁に残り続けるだろう。


「暇だな」


 そして、眠気覚ましに駅内の捜索に当たった。


 意味がないと分かりつつも、隅々まで目を凝らし、淡々と進んでゆく。


 ん?


 だが、幸運にもその行いは吉と出た。


「落とし物か」


 一枚の写真。


 小学生くらいの少女と若々しい父母が仲睦まじく肩を並べ合っていた。


「……」


 その写真をそっと元の場所に戻し、椅子に置かれた別の忘れ物を掴み取り、車内の四隅に足を運ぶ。


 そして、一本の筒を口に咥えた。


 親指で小突くように爪弾く。


 キンッと高らかな音を奏でて、疾くに歯車を回せば、紅き炎が周囲を照らす。


 火を付ける寸前、視界の端に貼られた一枚のポスターがするりと眼下に舞い込んだ。


「あ? 禁煙?」


 ふざけたポスターをそそくさと掴み上げて、腹いせに火を灯す。


 だが、その瞬間。


 天罰が降った。


 頭に絶え間なく滴り落ちる大雨に、一刹那の安らぎを燻らす紫煙は敢え無く鎮火した。


 そして、


「何で電車にスプリンクラーが付いてんだ……?」


 煙草とジッポは泡沫夢幻に霧散していく。


 雲を掴むような感覚だけが手に残るばかりで、視界の端に映り込むふざけたポスターまでもが綺麗さっぱり、元通りとなっていた。


「はぁ……」


 壁に張り付く正直な背を強引に剥がし、淡々と歩みを進めていく。


「忘れ物にはくれぐれもご注意を~」


 次なる乗客の元へと。

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岐天駅 緑川 つきあかり @midoRekAwa

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