第5話
夜の纏う闇は、山の奥深くへと入っていく度により深いものになっていった。車のヘッドライトで照らされたその辺り以外に目を向ければ呑み込まれてしまいそうだった。
「湊っ! もっと急いでっ!飛ばしてっ」
「分かってますよ、もう十分に急いでます」
湊の言う通りだった。車はこれ以上ないくらいのスピードで切り開かれた山の斜面を駆け下りていた。私が予め導きだしていた冬の帳村の位置に着いたのが十分程前のこと。途中、一度車を止めてしまったことで大幅に時間を費してしまっていた。その少し手前辺りから見覚えのある社名や標識の看板を至るところでみたのだ。山の奥深くを切り開いた中には、その場所には似つかわしくないコンクリート製の大きな建物があり、その隣には透明なガラスで覆われた同じくらいの大きさの施設があった。そこには等間隔に並べられた水縹草が咲き乱れており、明らかに野生でない事は確かだった。
「湊、あれうちの会社だよ」
車を路肩に止めた。ガードレールの先には切り立った崖がありその真下に広がる景色をみながら、私は呟いた。人為的に遺伝子を作り変えられた水縹草。それが父の会社が製造している『雪溶け』と呼ばれる忘れ薬の原料だ。そしてそれは、奇しくも別の次元で生きる私が住む冬の帳村の位置とぴったりと当てはまっていた。
「私のせいじゃんか……向こうの世界の私達を苦しめてたのは私じゃんか」
「違います」
「でも、現にこれをみてよ」
私は指を指した。大きなコンテナのようなものがみえる。そこには恐らく廃棄され焼却処分待ちの水縹草が山のように積まれていた。
「きっとあれが原因だよ。どんな原理が働いてるのか分からないけど、あそこに積まれた水縹草の花粉が穴を通ったんだって、こんなの事情を知ってる人なら誰でも思うじゃん」
「違います。事実としてそうなのかもしれませんが、それは瑠奈さんのせいではない。恐らく、瑠奈さんのお父さんだって向こうの世界があんな事になっているとは夢にも思っていないでしょうし」
私はガードレールに手をつきながら小さく頷いた。確かに、湊の言う通りなのかもしれない。この世界とは別の次元の世界があり、そこでは今の私達と同じように当たり前に生きて生活をしている。こんな話をまともに聞いてくれるのは、その研究に生涯を捧げている人達か、気でも触れたのだと半分馬鹿にしながら面白半分で聞いてくれる人達くらいのものだろう。
「とにかく先を急ぎましょう。三島が死んだ今、僕たちに出来る事は穴を塞ぐことです」
振り向きざまに湊が言った。そう、私達は三島の脅威は去ったと思っていたのだ。後は、この世界と向こうの世界との穴を塞ぐだけ。そう思っていたのに。
「なんであいつが生きてるのよ」
車が速度をあげていく中、目の前にあるグローブボックスを蹴り上げた。
「分かりません。確かに僕には向こうの世界で生きる湊の映像をみたのでそう確信していたんですけど」
目の前で項垂れなような声色で呟く湊の肩に私は手をかけた。
「違う。現に私も血まみれになりながらも歩く三島の姿を、新奈の目を通してみてる。あいつの生命力が以上なだけよ」
三島が死んだかもしれないと聞かされたのは父の会社の一つが冬の帳村の位置にもあると知った二十分程前だろうが、もうずいぶん遠い昔のように感じる。
湊の言う通り、向こうの世界で生きる湊は生きていた。あの古びた家の窓枠から飛び出したその瞬間、向こうの世界の湊の目に映ったのは、腹部を手で抑える父親の姿だった。溢れ出る鮮血がその手の隙間から零れ落ちていた。次に映ったのが、銃を構える三島。何を考え、何故瞬時にそのような行動を取れたのかは分からないが、湊は両手一杯に掴んだ雪を三島に投げつけ、ひるんだ隙に飛び掛かっていた。しばらく揉み合いにはなったが銃を手にしながらも三島の持つ大人の力は強く、払いのけられた。銃身の長い、その銃口を額に突きつけられ、死を覚悟し目を閉じた。だが、次の瞬間には車の走行音が鼓膜に触れ、程なくしてあまりの衝撃音に目を開けると、紙切れのように宙を舞う三島がいた。三島はそのまま雪原から伸びていた太い木々に叩きつけられたのだ。雪に伏す三島は身動き一つしなかった。何が起こったのか訳も分からず身体を動かずにいた湊に「早く乗ってっ!」と声をかけたのは運転していた一人の女性だった。
道中、意識の奥底で映像のように流れたというそれら全てを湊が話してくれていた。
「後ろから二発も撃ってきていたのであの瞬間は生きている事は分かっていましたが、あの怪我では到底無事では済まないだろうと思っていたのに」
湊の声は私の鼓膜を微かに震わせるだけで、私の胸に入り込んでくることは無かった。新奈の深い悲しみが、強い覚悟が意識の中になだれ込んできていたからだ。空からは雪が舞っていた。木々が風で揺れ、静まり返っていたその世界に、三島のあげる大きな声が鼓膜に触れる。それから銃声が鳴り響いた。
──もし、この世界から離れることになるなら、その時も一緒に
目の前で横たわる沙羅に向けて、向こうの世界の私が言った。
──私は何があっても離れないから。どの世界に行っても必ず沙羅を見つける
駄目。駄目。そんなこと言わないで。私が絶対に助けるから。諦めないで。お願いだから……そんなこと言わないで。
──沙羅と会えて良かった。こんな私を愛してくれてありがとう
感情が爆発した。目の淵から流れ出す涙を拭い、私は声を張り上げた。
「湊っ! もっと急いでっ!飛ばしてっ」
「分かってますよ、もう十分に急いでます」
「そんなのじゃ駄目なの」
「一体何があったんですか? 僕は今三島が生きていたと言う事すら分からないんです」
「新奈と沙羅が、生きる事を諦めた」
その声を放ったその瞬間、湊がアクセルを強く踏み込んだ。車は切り開かれた斜面を加速し続けたが、やがてヘッドライトに照らされた先に突如として太い幹が現れ正面から激突とした。一瞬だが意識が飛んだ。目が覚めた時には幹にめり込むような形の車体が目に入り、運転席ではだらりと腕を落としながらハンドルに頭をつける湊がみえた。
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