第4話

「沙羅、みて」


 息も絶え絶えになりながら私が指を指す方向をみて、沙羅は息を呑んだ。私達の目の前には穴があった。木々に囲まれたその中に、直径は一メートルくらいの闇がみえる。穴は、全てを呑み込む。実際に目にしてその言葉が恐らく真実であることを理解した。黒ではなかった。闇という表現では柔らかすぎる。深淵だ。底すらみえないその穴の周りには見たこともないくらいの量の水縹草が咲き乱れていた。作り物のような鮮やかな水色の花弁が、その穴の持つ禍々しさをより際立たせていた。


 私達はこの穴を目指していた訳ではなかった。ただ必死に、三島から逃げる為に斜面を駆け上がり、森の奥深くへと入っていった。木々や葉で至る所を切り肌や服はぼろぼろで、凍てつくような寒さにずっとさらされていたせいで手足の感覚は随分前から無かった。沙羅は何度も意識を失い倒れたがその度に私が呼びかけた。何度も。何度も。そうしている内に、目の前を蝶が飛んだ。水縹草と同じような鮮やかな色の羽を羽ばたかせ、ふわりふわりと飛んでいく。私達はその蝶に導かれたのだ


 足を持ち上げ、それから雪を踏みしめる。ゆっくりとだが着実に、一歩ずつ私達は穴へと向かっていた。時折、靴の裏で足元に咲く雪忘花も一緒に踏みしめると、葉が擦れる音と共にぐしゃりと茎の潰れる音がした。それに銃声が重なると私達のすぐ真横を銃弾がかすめ、私は咄嗟に穴から背を向けて沙羅の身体を支えながら駆け出していた。至る所に木々が群生してくれているおかげで狙いが定まらないようだった。ふと、振り返ると遠くの方に三島の姿がみえた。ふらり、ふらりとよろめきながら向かってくる。何があったのかは分からないが三島の顔の半分は血で覆われているのが遠目にみても分かった。逃げ切れるかもしれない、そう思い一歩前へと足を踏み出した時、私の肩から滑るように沙羅が倒れた。


「沙羅」


 必死に身体を揺すり呼びかける。ん、と小さな声が唇の隙間から溢れた。もう歩けないよね。沙羅、ごめんね。道中、何度も意識を失いながらもここまで歩いてきた。銃弾は背中から入り込み、鎖骨の辺りから突き抜けたようだった。雪に倒れ込んだ沙羅の身体のその辺りが真っ赤に染まっている。私がその場所にそっと手をのせると、「にいな、ひと、りで、にげて」と消え入るような声が鼓膜に触れた。だが、その声はすぐに掻き消された。


「大城っ、新奈ーっ!お前さえ居なければこんな事にはならなかった……よく、も、よくも私の研究をっ」


 三島は先程から聞いたこともない声をあげている。よろめきながらも木々を掻き分け、私達との距離を詰めてくる。傷口を抑えていたその場所からは未だに血が溢れてきていた。


 もう無理だ。ふいに頭にその考えが浮かんだ。今の沙羅の姿をみて、そう思わずにはいられなかった。顔や肌は新雪よりも更に白く、青白く染まっている。息も荒い。沙羅はもうきっと、歩くことは出来ない。私一人なら逃げ切れるかもしれない。けれど、私は沙羅のいない世界でいくつもりは毛頭ない。頬を伝う涙を拭い、微笑みかける。


「ねぇ沙羅、聴こえる?」


 横たわる沙羅の隣で私も横になった。仰向けで、身体の全てを預けた。私の重みの分だけ、雪に沈む。曇天の空から舞い落ちてくる雪が、はらはらと舞い落ちてくる。白い真綿のようなそれが、ちいさなそれが、丁度私のまつ毛に引っかかっている。そう思った傍から、儚く消えた。十年ぶりに綺麗だと思った。


「きこえ、る」


 沙羅が顔だけをこちらに向けてくる。血の気を失ったその顔が、雪の色に染まってみえた。三島は未だに叫び声をあげながら私達の元へと距離を詰めてきているはずだが、その声は遠のいていく。


「今日が終わったらさ、一緒に村から出てみない?」

「え?」


 沙羅は少しだけ目を見開いたが、その大きな目に前髪がかかってしまっていた。だから、髪を手でそっとよけた。


「別の次元の世界をみるようになってから私は世界の広さを知ったの」


 銃声が聴こえ、すぐ傍にある木々が破裂した。


「一面に平原が広がっててね、風でさわさわと揺れたら波みたいに揺れ動く所もあれば、夜なのに真っ昼間みたいに明るい街もあってね、そこにはみたこともないくらい大きな建物が沢山あるの」

「……みて、みたいなぁ。私達が目にするのって山と、雪ばっかりだもんね。みたい。みたかったなぁ」 


 沙羅の頬をゆっくりと涙が伝っていく。私はその涙をみて、鏡を映すように同じ速度で涙を流した。


「いけるよ。だから、つっ」


 銃弾が私の肩をかすめたようだった。少し遅れて金属の破裂したような大きな銃声が鼓膜に触れる。それから皮膚を焼かれたような痛みが走った。服の中で、皮膚の上を何かが伝っていくのが分かった。


「だから、さ。一緒にいこうよ」 

「どこ…に」

「この村じゃないどこかに」


 そう言ってから、ううん、と首を横に振り「どこでもいい」と微笑みかけた。


「別にこの世界でも、この世界じゃなくてもいいの。私は沙羅と一緒なら、どこでもいい」


 本心だった。十八年もの間、私達はこの村から出たことがない。だから分からなかった。目を向ければ、すぐ傍に広い世界が広がっていたのに、私達は言わば水槽の中で生きる魚と同じで自分達の目の前にあるものが世界の全てだと思い込んでいたのだ。けど、実際の世界は広い。どんな悲しみも苦しみもその広さに目を向けたら、馬鹿らしく思えた。だからさ、と声をかける。


「沙羅、一緒にいこ?」


 沙羅は虚ろになりながらも私の目を真っ直ぐにみて、微かに頷いた。その目が一瞬だけ深い悲しみに染まり、程なくして強い光を宿した。どうやら私の意思を汲み取ってくれたようだった。


「新奈、キスして。最後に」


 沙羅のその言葉に、私は泣きそうになるのをこらえ、口元の両端を持ち上げた。風に散らされ頬にかかった髪をよけ、沙羅の唇と自分のそれとを重ねた。空からは雪が舞い落ち、時折銃声が聴こえ、それから木々が砕け散る音が鼓膜に触れる中、目を閉じた。真綿みたいに柔らかいその感触に頭の先から身体の奥底にかけてが痺れていき、甘い匂いに目眩をおこしそうになる。互いの唇が別れを惜しみかのようにゆっくりと引き剥がされていく。目を開けたら沙羅が微笑んでいて、同じように私も笑みを浮かべた。


「沙羅、立てる?」と呼びかけながら沙羅の身体を起こし、肩を貸した。


「もし、この世界から離れることになるなら、その時も一緒に」

「うん」

「私は何があっても離れないから。どの世界に行っても必ず沙羅を見つける」 

「うん」


 ゆっくりとだが一歩ずつ着実に、私達は足を動かし、その度に雪を踏みしめ、距離を詰めた。そうして向かい合った。


「もう逃げるのは辞めたということですか。それとも殺さないでと説得でもしにきたのですか? 前にも言ったが、私は人を殺すことに躊躇いなんてありませんよ」


 内蔵に轟くような銃声が鼓膜に触れた時には私の真横を銃弾が通り過ぎていった。私達と三島の距離は五十メートルも離れていなかった。その距離であれば恐らく以前の三島であれば私の眉間を撃ち抜くこと造作も無かったのだと思う。だが、近くに対峙してみてやっと分かったことだが、三島の姿はひどい有り様だった。額からは顔の半分を覆う程の血が流れており、足を引きずりながら歩いてる。それに、左手の肘から先はおかしな方向に向いている。


「この穴をみるのは初めてですか?」


 三島が問い掛けてきたので、私は頷いた。


「そうですか。まあ、皆そうです。死にゆくあなた達にも教えてあげましょう。あの施設から出た子ども達がどこに向かったのか」


 ゆらりゆらりと揺れながら、三島は私達との距離を詰めていき、話し始めた。以前湊が送られた懺悔室の真下には、あの施設が修道院の時に作られた避難用の古いトンネルがあり、それは礼拝堂まで続いている。そして、そのちょうど礼拝堂の真下には血液の栽培場があるとのことだった。


「栽培……場」

「そうです。αアルファからεイプシロンまでの水縹草に対する抗体反応が強い子ども達には、十九の歳を境にそちらへと送る。一人ずつにカプセルが与えられ、管を通して生命維持活動に必要な栄養を送り、その対価として数ヶ月に一度血液を抜き取っているんです。それは被検体が死に至るまで半永久的に続きます。何故十九の歳を境に施設からそちらに移動させるのか分かりますか?」

「分かるわけないでしょっ!」


 私は聞きながら手を強く強く握りしめていた。悔しくて、悲しくて、今すぐにでも三島の首を絞めてやりたいと思った。


「こんな事態を防ぐ為です。知力も体力も養われた、まさに今のお前達のような事をされたら困るからです」


 三島は額から流れ出た血を拭いながら、吐き捨てるように言った。


「物事には裏と表がある。表の部分ではあの施設は健全たるものでなければならない。だから、必ず地上で当たり前のように施設で幸せに過ごす子ども達が必要だった。だが、この一年でそれは間違いだと気付きましたよ。端から全員栽培場に送って、使えなくなった者は全員その穴に投げ入れたら良かった。そうすれば、上の人間達が心配している情報漏洩なんて起こることもない」


 そして、被検体として使えなくなった者達は全員この穴に投げ入れた。三島はそう言った。


「恐らくこの穴は、僕たちが天国と呼ぶ場所に繋がっている。だから僕は神に肉体を献上しているんです。彼らは被検体はその貢ぎ物みたいなものですよ。きっと僕は、その使命を神から請負ったのだと思っています。君たちのお友達は先に行った。だから、向こうでまた仲良く過ごせばいい」

「どういう、こと?」


 三島が何を言っているのか分からなかった。空から雪が舞い落ちる中、私たちのすすり泣く声だけが森の中に響き渡った。死ぬことは怖くない。ただ、悔しかったのだ。今まで一つ屋根の下で家族同然に思ってきた人たちに、私たちはただ利用されていただけだと言うことが、胸を抉られるように悲しくて、悔しかった。


「あの日、愛莉と亮太が逃げ出した日。追い詰められた二人が辿り着いた場所はここでした」


 三島は首をぐるりと回しながら見渡した。私はそれをみながら、以前森の中で出会ったおばあちゃんの言葉を思い出していた。


──数日前、ちょうどあんたらくらいの年の子が、その穴に呑まれたよ。二人


 同じ事を言っている。穴もあった。おばあちゃんは何一つ嘘なんかついていなかったのだ。


「あの二人は、自らその穴に飛び込んで行きましたよ。きっと今頃はもう」

「三島っーーーっ!」


 我慢が出来なかった。もう、これ以上は聞きたくない。


「お前だけは、お前だけはっ絶対に許さないっ! よくも二人をっ二人は付き合ってたのに」

「好きなだけ喚けばいい。怒りや憎しみ、そんな感情を強く抱いたままの肉体を献上するのは初めてだ。神は、私にどんな褒美を下さるのでしょう」


 三島のうっすらと浮かべたその笑みが酷く不快だった。許さない。お前だけは、絶対に許さない。殺してやる。殺してやる。両手に力を込め、ぎゅっと握りしめたその時だった。


「にいな、だめ」


 その握りしめた片方の手を沙羅が握り返してきた。私はふっと我に返って、ゆっくりと沙羅をみた。


「そっちにちないで」


 唐突に投げかけられたその言葉の持つ意味が分からなくて動けずにいると、「三島と同じにならないで」と目をみて言われた。


「愛莉と、亮太は残念だ、よ。追い詰められて、それしか選択肢が無かったのかも、しれない。でも自分で選んだ選択でしょ? 自分達で決めた選択でしょ? そのうえで、二人は動いた。きっと大丈夫。もしかしたら別の次元では恋人同士ではないかもしれない。けど、どんな世界でも、どんな形であれ絶対に二人の魂は結ばれてる」


 涙ながらに口にしてくれたその言葉が、胸の中に降りてきて、それと同時に怒りや憎しみという霧で染まっていた私の心が晴れていくような気がした。


「ありがとう、沙羅」


 やっぱり、沙羅は私のひかりだ。


「私、自分を見失いかけてた」

「うん」

「二人なら大丈夫」

「うん、いこうよ」


 三島と向き合って、それから言った。


「撃ちたければ撃てばいい。その代わり、私達の目をしっかりとみて」

「もう諦めたと言うことですか?」

「違う。あなたは何も分かってない。あなたが天国へと通じていると思っているその穴の行き先は違うし、神の仕事を請負ったなんて勘違いもいい所よ。神は私達に干渉なんかしない。私達は無数にある世界の内の、ちっぽけな一人の人間に過ぎない。でもね、そのちっぽけな人間一人一人にも人生があって、未来があるの。死は誰しも平等に訪れるから、いつかはその世界から旅立たなければならない。でも、それまでは全員に幸せになる資格があるの。その権利があるの。あなたはその資格も、未来も、全てを奪ってきた。決して許されないことをした。ずっとその罪を背負って生きていけばいい。だから、目を見てって言ったの」

「誰だ……お前。 何を言ってる。知った風な口をこの私に聞くな」

「私はあなたのよく知ってる大城新奈。でも、それと同時に工藤瑠衣でもある」

「何を言っているのか僕には分からないな。まあ、もうどうでもいい事です」


 三島が右手で手にしていた銃を、曲がってしまっている左手と頬で挟み、銃身を固定した。


「沙羅、愛してる」

「うん、私も」


 隣に立つ沙羅をみた。笑み溢している。私も鏡を映すようにそれを溢していた。死は、怖くない。それはきっと始まりに過ぎない。二人なら、どんな場所にだっていける。


「さようなら、大城新奈」


 三島がその声を放つのと共に、銃声が鼓膜を切り裂いた。

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