第6話

 私達は車から出て湊と共に互いの身体を支え、ふらつきながらも必死に足を進めた。穴は、近い。それを私の何かが感じていた。山の斜面を時折群生している木々を掴みながら駆け上がり、森の奥深くへと入っていった。やがて、その先でみた。闇の中、微かにひかりを纏う穴を。直径は一メートルくらいだろうか。淵に沿って微かにひかりを纏ってはいるが、中心は周りに充満している闇よりも更に濃度の濃い色をしており、まるでその部分だけが世界からくり抜かれてしまっているかのようだった。


「本当にあったんですね」


 湊が空気が抜けたように膝を地面に落としてから言った。


「これが、向こうの世界と私達との世界を繋いでいる扉だね」


 言いながら足を進めた。背中に「瑠奈さん」と呼びかけてくる湊の声が触れる。新奈は自ら三島との距離を詰め、向き合っていた。もう、時間がない。あの状況だといつ撃たれてもおかしくない。私がなんとかしないと。その想いのもと一歩ずつ穴へと歩みを進めていると、後ろから湊に腕を掴まれた。


「瑠奈さん、何を考えてるんです」

「助けに行く」

「それは分かってます。だから何をしようとしてるんですか。まさか無鉄砲にその穴の中に飛び込むつもりですか?」

「そうよ」

「駄目です」


 腕に込められていた手が途端に強くなる。私はそれを振り払おうと腕を振った。


「ちょっと湊、離してよっ!ここまできて何考えてんの? 私は病院にいる時からずっと皆を助けにいくって言ってたよね? 湊だってそれに納得してたのに穴を前にした途端に怖気付いたの?」

「違います。僕が納得してたのは皆を助けにいくという部分のみで、無鉄砲に自分の命を捨てるようなことじゃありません」

「離して湊っ! もう時間がないのっ」 

「そんな事は僕だってわかってます」

「ふざけないでっ、今こうしている間に向こうの私はいつ死んでもおかしくない状況なのっ!こんな所であなたと言い争ってる暇なんか」


 言い切る前に、頬が乾いた音を散らした。少し遅れて熱を持ち始めて、私は湊に頬を打たれたのだと理解した。


「いい加減にしろよっ! この穴が何かも分からないので闇雲に飛び込んで何になるんだよ。あんたの目的が死ぬことなら俺だって止めない。けど、向こうの世界の自分を助けることが目的なんだろ? あんたがその穴に飛び込んで死んだら誰が向こうの世界のあんたを助ける。誰が向こうの世界を気にかける。あんたが今やろうとしてる事は、自分の感情をただ満たしたいが為の自己満足と同じだよ」


 最後は、吐き捨てるようにそう言われた。普段の湊の口調からは想像する事も出来ない荒い口調で。私が足から崩れ落ちぼんやりと穴をみつめていると、「すみません。少し、取り乱しました」と視界の端で頭を下げている湊がみえた。そうだ、湊の言う通りかもしれない。おかげで、頭が冷えた。落ち着こう。こういう時こそ冷静にならなくちゃ。もしこの穴が向こうの世界とこちらを繋ぐ扉だったとしても、私が無事に辿り着ける保証はどこにもない。もしかしたらDNAレベルまで分解されて、向こうに辿り着いた時には泥のような塊になっているかもしれない。そこまで考えた時、新奈のお父さんがそんなことを言っていたと思い出した。


 もしかすると正しい道のりを歩むことなく向こうの世界に入り込んだ雪忘花はDNAレベルまで分解され再構築された結果がそれだったのかもしれない。ナノメートル程の大きさのそれらが螺旋状に組み込まれ……と考えた時、あの白い螺旋階段を思い出した。それに、全ての生物の身体にあるDNAもそうだ。二重の螺旋構造だ。この世から離れる時、あるいはこの世で生を授かる時、あの螺旋階段を通りながら細胞レベルで螺旋状に分解や構築をされていくのだとしたら。


「人間だけじゃない。この世界で生きる全ての動植物はあの螺旋階段を通るんだ。そしてあのひかりの先に」


 私はあの時白い階段を歩いていた。その前を誰かが歩いていて、私達は歌に導かれるようにその先にあるひかりを目指した。綺麗な歌だった。胸の中に溶けるように染み込んでくるその歌は、喜びや癒やし、それから幸せ。人が生きていくうえで糧にして生きていくようなそれらの感情が一瞬で満たされていった。まさに天使の歌だった。新奈自身も夢の中で聞いていたようだし、それを確か新奈のお母さんも歌っていた。虚ろな目で、車椅子に座りながら、一日中口ずさんでいた。私はそれを何も不思議には思わなかった。私も聞いているのだからと、知っていたとしても当然だと思っていた。だが、おかしい。今になって気付いたが、それを知っているはずがない。何故ならあの螺旋階段を通ったのは私と誰かで、新奈でも、新奈のお母さんでもない。


「どうしました」


 肩に手を添えられた。目の前の湊は不安気な面持ちで私をみている。その間、私は自分の頭の中にある記憶の海に手を伸ばしていた。私がこの目でみたもの、向こうの世界の私が五感全てで感じたもの、これまで起きた全ての事象に目を向けた。


──夢の中で、私はいつもぬるい粘液の中にいる。身体がすっぽりと収まる膜のようなものに包まれているそのちいさな世界は、粘液で満たされており、ひかりは差し込まない。けれど、くらげみたいに揺蕩う私は、安心して目を閉じている。


 これは、新奈が夢でよくみるもの。私も同じものをみて、感じた。


──バニシングツインと言ってね、胎児を複数人子宮内に宿している時、運が悪く亡くなってしまった子は母親の子宮やその子宮に残された子供によって吸収されることがあるんだ


 篠原さんはそう言っていた。


──私と湊の兄弟がこの世を旅立ったその瞬間、最低でも向こうの世界で二人の人間が亡くなったんじゃないかって事


 現に、新奈達は元々四つ子だった。


──天使の歌が聴こえる。それが頭から離れないの。

──私の子供はこんな子供じゃない。そもそも顔が違う。

──私はちいさな女の子を手を引いた。年は五歳で花がらのワンピースを着せると、とっても喜んでくれたの。嬉しかった。そんな感情が込み上げてきてようやく分かったの。この子は、この世界の私の子なんだって。


 新奈のお母さんが口にした事。もし、私の聞いた歌と彼女が聞いた歌が同じなら、天使の歌だと感じた事も分からなくはない。私には時間があった。だからこそ、もしかしたら新奈が生きる世界が別の世界なのかもしれない、その考えから派生し死後の世界についても独学で調べていた。臨死体験と呼ばれる──一度もしくは複数回呼吸、脈拍と共に止まり生物学的には死亡と判断された後に再び息を吹き返した人たちが、同じような事を口にしていた。


──温かいひかりに包まれた。

──ひかりの中を、まるで緩やかな水に流されるような感覚で白い螺旋階段を登っていると、歌が聴こえた。

──あれはまさに天使の歌だった。


 ある学者がそれはその空間にだけ満ちている特定の周波数が流れている為に、脳がそれを天使の歌だと認識したのではないかという説を唱えていた。私もそう感じていた。きっとあれは次元間を繋ぐ通路のようなものなのだろう。だが、何故一度もそんな経験をしていない新奈のお母さんがその歌を聞いたことがあるのかそれだけが分からなかった。一つの疑問が私の中で芽を出し、その花弁が開いたその瞬間、全て分かったような気がした。


「扉は、三つあるのね」


 気付いた時にはぽつりと呟いていた。


「えっ、なんて言いました?」

「なんとなくだけど、全て分かった気がした。扉は三つあるの」

「瑠奈さん、それじゃあ分からないですよ。分かるように説明して下さい」

「一つの学説がある。人間は、精子と卵子が結び付くことで受精しこの世に生を授かる。けど、それは肉体が誕生する一つの過程に過ぎない。魂はじゃあどこから来たの? もっと言えば私達人類は男と女という二つの性がなければ命を生み出すことが出来ない訳だけど、それだと始祖となる二人の男女が必要になる。私達の肉体を作り出すDNAはとんでもなく複雑でたった一つの手順や行程を間違えば、人は人としてこの世に存在し得なかったの」

「あの、つまりどういうことですか?」


 湊は困惑な表情を浮かべたままだった。


「たとえばコインを千回連続で投げた時、全て表だった。それはあり得ると思う?」

「まあ表と裏の二つしかない訳ですし、あり得るんじゃないですか?」

「そう、確率としてはあり得る。だけど天文学的数字で果てしなくゼロに近い数字ね。有り得ない。そう言っても過言ではない事、たとえば生命の誕生もそうだけど、有り得ない事があり得てしまった時、それは第三者の力が関与したという方が自然な考えなの。人為的にコインを千回表向きに置いたというような」

「どういう事ですか?」

「人というものを生みだし、意識や魂といったものを直接こちらに送り込んできているのは、私達が神と呼ぶもの、あるいは認識することすら出来ない高次元にいる何かじゃないかって事。だけど、それだと送り届ける場所が必要になる」

「それは、分かります」

「私はそれが女性の体内にある子宮なんだと思ってる。またおかしな事を言ってると思われる前に言うけど、こう考えているのは私だけじゃないのよ。いろんな学者がその説を唱えてる。生命を生みだし、育むことが出来るのは女性だけ。恐らく精子と卵子が受精したタイミングで全ての女性の子宮内では次元の扉が開いている。けれど、それは時間の流れ方と同じように一方通行のものだから、本人は認識する間もなく胎内にいる子供の肉体に魂が根付いている。だけど、それがもし予めこちらの扉が開いている状態でその扉が開いたら」


 言いながら、私は目の前にある穴に目を向けた。


「つまり、僕たちの世界と新奈達がいる世界は元から繋がっていたが、そこに新奈のお母さんの子宮内にある扉も繋がったという事ですか?」


 問い掛けてきたので「そういう事になるわね」と言うと、湊は頭を抱えた。


「もう……訳が分からないですよ。世界が幾つも交差してるって事じゃないですか」


 今いる場所が山の奥深くで辺り一帯が静まり返っているせいなのか、先程から頭の奥底で歌が流れている気がした。私には生まれてくる前の記憶がある。あの白い螺旋階段を通り歌を聞き、私ともう一人の誰かがそのひかりの先にいったのをみている。あの先にいったのは、新奈なのだろうか。それとも、と思い返していた時、そう言えば私にはそれから先の記憶が無いことに気付いた。それよりも前の記憶ならある。私は母親の子宮の中で温かいひかりに包まれながら満たされていた。誰かに、話しかけてもいた。何故だ。どうして私は、誰かを見送ってから先の記憶がないのだろう。


──もう……訳が分からないですよ。世界が幾つも交差してるって事じゃないですか


 湊の放った言葉が再び頭に浮かぶ。その瞬間、頭の中で眩いひかりが放たれたような気がした。


「あの螺旋階段のひかりの先にいったのは……私」


 項垂れるようにして頭を垂れていた湊がふっと顔を上げ、「どういう、ことですか」と問い掛けてくる。私は湊の前に腰を下ろし、手を取った。


「新奈達は元々四つ子だったって、お父さんが言ってた」


 全て分かった。全部。全部。


「……はい。それは聞きましたけど」

「あれは私達なのよ」

「意味が、分かりません」

「あなたが言ったんじゃない? 世界が幾つも交差してるって。湊が正しかった。恐らく今新奈達がいる冬の帳村は三つの世界が交差してる。新奈のお母さんのお腹の中にいた時、あそこには新奈と湊の他に今の私達もいたの」


 言いながら、胸の中から込み上げてくるものがあった。湊は素早く瞬きし、顔を曇らせた。


「瑠奈さん、ちょっと本当に言ってる意味が」

「世界が交差しているあの場所で、新奈のお母さんの子宮内で扉が開いた。恐らくその時に次元間で一種のシステムのバグのようなものが発生してしまった。だけど、同じ世界に二人の私はいらない。いや、存在してはならないの。だから私とあなたはそのバグを修正する為に、別の次元へと飛ばされることになった。私には生まれてくる前の記憶があるって言ったでしょ? あの白い螺旋階段を歩き、誰かがその先に行くのをみていた。でも、私には途中からの記憶がない。それは当然なのよ。だって、私の魂はその時には消滅してるんだから。あのひかりの先へと歩みを進めてね」

「どういう、ことですか」

「私が生まれてくる前にみた記憶っていうのは、恐らく新奈がみたものだと思う。あそこで魂だけじゃなく意識も記憶も交差したのね」

「って事は」

「そう。あの白い螺旋階段を一緒に歩き、別の次元へと進む私を見送ってくれたのは新奈だった」


 言いながら、鼻の奥が痺れてきた。目の奥も熱い。


「それから私達はこの穴を通ってこの世界に来たわけだけど、元々この次元にいた私達は今の私達がこの次元に辿り着いてしまったことで同じようにバグを修正する為に別の次元へと飛ばされたのよ。きっと篠原さんが言ってたバニシングツインっていう珍しい現象はその時に起きたんだと思う。たぶんこの次元から離れることになった私達は、私達がまだ生まれてすらない場所に行ったんだと思う」

「……バグの修正」

「そう考えてやっと分かったの。一人の女性が、もしかしたらずっと一人で戦ってたの、かもしれないって」


 ついに、目の淵から滴が溢れた。込み上げてくる感情がもう抑えられそうになかった。


「戦うって何とですか? っていうより誰が戦ってるんですか?」

「新奈のお母さんよっ! あの人はたぶん、誰より早くにこれに気付いて十八年間もの間戦い続けてきたの」


 頬を伝う涙を手のひらで乱雑に拭った。気づくのが遅すぎた。あまりにも遅すぎた。ごめんなさい。ごめんなさい。


「あの人は、車椅子に座りながらずっと歌を歌い続けていた。湊もそれはみたでしょう?」

「はい」

「あの歌はね、天使の歌なの。次元間を移動する際に誰しもが等しく通る白い螺旋階段で流れてる歌なのっ!」


 新奈のお母さんは、十八年ぶりに新奈と再会した時、涙を流していた。私はそれを新奈と会うことが出来たからだと思っていた。でも、違った。あの時に新奈の中にいる私の存在も感じた。それで、やっと、やっと終われる。そう思ったんですよね?


「私達の魂が向こうの世界から消されたように、全ての次元に干渉してくる何かはバグが生まれると修正しようとしてくる。今の私達は別の次元に干渉してる訳だけど、私達の身体にもこの穴にも変化がないという事はそれは現段階で許されてる。だから、許されないことをしてやればいい」

「つまり、何をすればいいですか?」


 湊は戸惑いながらも少しずつ目に強い光が宿し始めていた。


「歌うのっ! あの白い螺旋階段で流れているあの歌になら、次元間の通路で流れてるあの歌になら意識をのせられる。新奈に会いたい。その意識だけを歌に乗せてっ」

「分かりました。僕は瑠奈さんに続きます」

「私達の今いる世界と、向こうの世界。二つの世界を意識を通して干渉しようとすれば、必ず何かがそのバグを修正しようとしてくる」


 私達は身体を起こし、穴と向き合った。深淵の闇が広がっており、辺り一帯には雪忘花が咲き乱れている。息を呑む程に美しいそれらの光景から目をそらすように、湊がふいにこちらに目を向けてくる。その目をみながら言った。


「どうなるか分からないわよ。バグを修正しようとして穴が塞がるかもしれないけど、もしかしたら消されるのは別の次元に干渉しようとしている私達かもしれない」

「覚悟は出来てます」

「本当にいいのね?」

「ええ。ただ一つだけ聞かせて下さい。新奈のお母さんは、ずっとこれに気付いていたという事ですか?」

「恐らくそうよ。あの人は十八年間ずっとこちらの世界で生きる私に呼びかけてくれてたんだと思う。天使の歌を歌ってって。一緒に扉を塞ごうって。新奈のお母さんは、ううん私のお母さんはずっと、ずっと、歌ってる。今この瞬間だって歌を歌ってる。だから歌って」


 湊が大きく頷き、手を差し出してきた。私はすぐにその意図を読み取って、反対の手で貝殻のように組み合わせた。それから、大きく息を吸った。肺の中が森の匂いと空気で満たされていく。まだ、間に合いますか? 気づくのが遅すぎましたよね。私は、今からあなたと私を助けます。


 息を吐き出しながら、喉を震わせる。歌を、歌った。静寂に包まれていた森の中に、突如として動きがあった。風が吹き抜けていき、木々が揺れる。葉が擦れる音が鼓膜に触れると、揺れ動いたそれらが空から降り注ぐひかりを散らした。やがて私達は、天使の歌に包みこまれた。

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