第8話

「雪……忘花」


 父の放ったその言葉を無意識に私は呟いていた。それが、十八年もの間、私を孤独にしてきたもの。子供の頃から何も知らずに茎を摘み取り、お姫様がかぶる王冠を模したような輪っかを頭に乗せてはしゃいでいた自分が馬鹿みたいだ。


「よく分からないんですけど、その、雪忘花の花粉を吸い込むだけで記憶を失うなら、それはこの村だけじゃなくて世界中で起きてるって事ですか?」


 沙羅が父に問い掛ける。私も同じ疑問を持っていた。人間は呼吸をしなければ生きていけない。生きるうえで必要不可欠なそれに記憶を無くしてしまうような成分が含まれているのであれば、風に乗って飛散し、この村で起きているのと同じ現象が世界中で起こっていたとしてもなんら不思議ではない。


「いや、この現象は冬の帳村でしか起きてない。過去三十年分の半径五十キロ圏内にある医療データや事件、事故、その他諸々、この現象に結びつきそうなありとあらゆる事象を調べたが、そんなものは存在しなかった」

「そんな事ってあり得るんですか? だって花粉って風に乗ってあらゆる場所に飛んでいくものなんじゃないの?」


 沙羅が再び問い掛けると、父は首を横に振る。


「通常ならまずあり得ないだろうな。この村は標高の高い山々に四方を囲まれた、言わばバケツの底のような場所にある。だが、それでも飛散された花粉が気流に乗りながら山の斜面を駆け上がる為に、この村で留まることなどまず有り得ない。だが、それはあの花がふつうの花であればの話だ」


どこか含みのある言葉だった。


「あの呪いの花はな、この世界のものじゃないんだ」


 全員が息を呑んだ。父の言ってる意味が分からず、それぞれがなんとかそれを理解しようと努めていたのだと思う。


「なんだよそれ、突然俺たちの前に現れたと思ったら今度は訳の分からないおとぎ話みたいな話をしやがって。そんな話をする為にあんたは帰ってきたのか?」


 父の隣であぐらをかいて座る湊が不信感をあらわにしたような、苛つきを隠せない眼差しを向ける。父はゆっくりと右手を持ち上げ、それから手のひらを広げた。


「湊、人間の手に指は何本ある」

「おちょくってんのか?」

「いいから答えろ」

「五本だろ?」


 父はゆっくりと頷いた。


「人の顔は皆それぞれ違うのに、人間の指は多少の形は違えど、右手と左手にそれぞれ五本ずつ。両足も同様だ。なんでだと思う」

「それは……そういうものだからだろ? 決まってるから」

「そうだ。決まっているからだ。俺たち人間の身体は、いやこの世界で生きる全ての生き物の身体は、遺伝子と呼ばれる言わばその原型を作る設計図を元に構成されている。そして、アデニン、チミン、グアニン、シトシンと呼ばれる四種類の塩基で構成されているDNAが、言わばその設計図に書かれた文字や情報といったところか。俺たち人間の指が五本なのも、犬や猫には尻尾が生えているのも、全ては螺旋状に組み込まれたDNAという名の情報を元に設計されているからなんだ」

「……螺旋状」


 私はぽつりと呟きながら、これまでに何度もみてきた螺旋階段を思い出していた。


「それは植物も同様だ。設計図を元に形成されているから品種によって色や形は違えど、尻尾が生えている植物はいないように、全ての植物は等しく植物としての形を維持してる。中も外もな」


 湊も沙羅も、真剣な眼差しで父の話に聞き入っていた。私も同じようにしたかったが少し前から頭痛がして、そちらに意識を削がれていた。頭の中で鐘が鳴り響いているみたいだ。


「だがな、雪忘花だけは違う。他の植物と同じような形を模してはいるが、中身がおかしい。お前たちにも分かりやすく説明すると、あの花だけがこの世界で生きる動植物とは全く異なる情報を持ったまま、当たり前のように繁殖してるんだ。例えるならば、外側だけは植物の形をしていながらも、茎の中には動物の内臓を持ち、植物として生きながらも、動物としても生きているような感じだ」


 何かしらの反応をしたかったけれど、全員が言葉を詰まらせた。


「そうか、分からないよな。十五年間、研究し続けてきた俺ですらもう何が何だか分からないんだ。とにかく、あれはあり得ない。本来ならあんな出鱈目な情報を遺伝子に刻みこまれている時点で植物として生きる間もなく泥のような塊になるか、そもそも生まれてこない。あんなものは、あり得ないんだ」


 眉間に深い皺を寄せながら父が続けた。


「だから俺は一つの仮説を立てた。そもそもあれはこの世界のものではないのじゃないだろうかと。人知を超えたなにか。この世の理から外れたあの花をそういう風にみるようになってからは自然と楽になったよ。研究は全て無駄だった。俺の十五年はなんの意味も無かったんだ」


 奥歯を噛み締めながら、絞り出すようにして父はそう言った。それから「ある穴が、ある」と続けた。


「お前たちもこの村で住んでいるなら言い伝えは聞いたことがあるだろう。全てを呑み込む穴のことだ」


 全員が頷いた。私と湊に関しては、つい先日にその穴を守っているというおばあちゃんに会ったばかりだ。湊は「言い伝えは言い伝えだろ?」と鼻で笑った。 


「いや、穴は実在する。二年前、研究でこの村に訪れていた時、ある年配の女性に会ったんだ。水縹草が群生している場所を尋ねた俺に、その女性は案内してくれた。そこにはみたこともないくらいに水縹草で咲き乱れていて、青い蝶が羽ばたいてた。そして、そのちょうど真ん中に底の見えない小さな穴があった。闇が満ち、深みに目をやれば呑み込まれそうになった。穴の色は、黒ですら無かったんだ。深淵だったよ。それから周りに目を向けてやっと分かった。研究を続けている内にもしかしたらそうかもしれない、そうは思っていたが、あの穴の周りで咲き乱れている水縹草を──雪忘花をみてやっと受け入れることが出来た。あれは、間違いなく別の世界から来たものだ」


 湊も沙羅も身動き一つすることなく、息を呑んでいた。私は頭の中で鳴り響く鐘のような音のひどさと共に目眩に襲われていた。意識が飛びそうだ。頭も痛い。


「証拠をみせろよ」


 湊がそう言うと、父はポケットから四角形の機械を取り出した。施設の職員達も時折使っているものだ。画面が眩いひかりを放ち、私達全員にみえるようにみせてくる。それをみた瞬間、どくん、という聞いたこともないような大きな心音を、自分の心臓が打ったのが分かった。画面には確かに穴が映っていた。深淵という言葉がふさわしいのがよく分かった。周りにはみたこともないくらいの水色の花弁を開く水縹草か咲き乱れており、身の毛がよだつくらいに美しかった。気付けば私は、その画面に映る穴に吸い寄せられるように手を伸ばしていた。胸の奥底から鳴り響く鼓動が、鼓膜にまで轟いている。


「分かったか、穴は実在する」


 父の声が反響したように聴こえた。それに雑音が混じり合う。耳を、抑えた。それからぎゅっと目をつむる。すると、瞼の裏で誰かが窓辺に手を添えている映像がみえる。白いベッドから立ち上がったその女性は窓に手を添え、その向こうにみえる空を見上げている。なに、これ。目を開けてもそれが消えることは無かった。高速で点滅している電灯みたいに、父の身体と重なっている。何かが、おかしい。これまで経験したことの何かが自分の身体で起きていると直感で分かった。


「雪忘花はこの村でしか生きられない。研究の為に何度も東京へと持ち帰ろうとはしたが、村からの距離が離れていく度にその花弁は灰のような砂になって崩れていく。花粉も同様だ。この村から一定の距離を離れると、その花粉は跡形もなく消える。だから、この現象は冬の帳村でしか起きていないんだ。おかしな話だよな。俺はそんなものを何度もみていたのに現実を受け入れようとしなかった。馬鹿だったよ」


 胸が苦しくて、頭が割れそうだ。持ち上げた両手で頭を抑えずにはいられなかった。


「全てを終わらせにきたと言っただろ? 俺は雪忘花もろともあの穴を塞ぐ為に戻ってき、新奈どうした?」


 父の手が肩に触れた時には、視界がぐらりと揺れ私は倒れ込んでしまった。


「頭が、割れそうなの、痛い、いたいっ!」


 あまりの痛みにうめき声をあげ、必死に目を閉じる。その間も見たこともない景色が流れ続けていた。細く、長い、白い通路を私は歩いている。その先から強いひかりが差し込んでおり、私は目を瞑っているはずなのに、何故か眩しいと感じた。


「新奈っ」


 沙羅の声だった。


「何があったっ、湊、説明しろ」


 身体を揺すられる。お父さん。お父さん。声をあげたいのに、それすらも叶わない。痛くて、五月蠅くて、眩しかった。


「新奈っ! 新奈っ!」


 湊、助け……て。


 最後に胸の中であげた声は、湊には届かなかったようだった。いつのまにか白い服に身を包んだ女性が目の前にいた。私はその女性に手を引かれている。こつっ、こつと、とその間も足音が鼓膜に触れて目を向けた。螺旋状に伸びる階段が上へ上へと続いている。私はその階段を昇りながら、耳を澄ませた。歌が聴こえたのだ。いつもの、夢でみた女の人の声だ。あれは確かお母さんだった。お母さんが歌を歌ってる。その歌が聴こえる先に目を向けると、上の方にひかりがみえた。一段ずつ着実に昇っていく。そのひかりの元へと辿り着いた時、目の前の女性が振り返った。その女性の顔には見覚えがあった。当然だ。その女性は、私だった。


「ねぇ、あなたは私?」


 そう呟いたその瞬間、私は白い部屋の中にいた。怖いほど白い。この部屋にくるといつも思う。その壁に私は今、取り囲まれながら、椅子に腰掛けていた。目の前にはテーブルがあり、両の手のひらをそっとのせる。つめたい。金属のような、コンクリートのような、人工的な硬さが手のひらから伝わってくる。どれくらいの間そうしていたのか、分からなかった。ふいに意識のふかいところで声が聴こえた。女の人の声だった。何を言っているのは分からなかった。けれど、私の中の、更にその奥にまで手を伸ばすようにしてその声が入り込んでくる。私も同じように呼び掛けると、白い部屋が散った。飛び散った。床が、天井が、壁が、全てを消し去ってしまいそうな程の白さを持つそれらが、次々と捲れあがっていく。塵のようだった。粉雪よりも更に細かい粒子のような欠片が、吸い上げられるようにして目の前を舞っていく。高く、高く、天井よりも更に上のどこかへ。その間、私は身動きひとつせずに椅子に腰掛けていた。恐れはなかった。美しいとも思わなかった。ただ、凄まじい勢いで散り散りになっていくその様を、私はお風呂場の鏡で自らの肉体をみているかのような至極当然だという気の持ちようで眺めていた。やがて、目の前の机が塵になり、椅子が塵になると同時に浮遊感に襲われ、最後は指先から順に私自身も塵になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る