第7話

 全てを聞き終えてから、室内を満たしていた全員の息遣いが波を打つように大きくなって聴こえた。


 ──全てを終わらせにきた。


 その言葉の持つ意味を、その内容を知った私達は全員が言葉を失っていたのだ。


「嘘でしょ……だって、あの花は子供の頃から当たり前に」


 途切れ途切れになりながらも必死に言葉を紡ぎ、その沈黙を破ったのは沙羅だった。未だに口元を手で抑えたまま、目を開いている。衝撃を隠せないといった様子で、恐らく私も同じような表情をしているのではないだろうか。けれど、気付いた時には手を握りしめていた。まるで、家族を殺され復讐を誓い続けてきた相手が見当違いだと分かり、本当に復讐を果たすべき相手は一番身近にいたかのような強い憤りを感じた。物心ついた頃から私を孤独にし、世界から断絶してきたもの。それは、雪では無かったのだ。


「この村で生きる人間は雪が降ると記憶を無くす。俺はそのある種呪いのようなものを解く為に村を出て、それから十五年に渡り独学で研究してきた」


 父は私達に視線を配らせながらそう言って話し始めた。愛する妻に我が子の顔を思い出してもらう為。その一心でこの村の人間が記憶を無くす原因を調べ始めた結果、手掛かりはすぐにみつかった。この村の土地や気候、それから緯度経度、村に伝わる風習などありとあらゆる情報に目を通した結果、この村にはあって他の場所にはないものが一つだけあったのだ。それは雪が降る日にだけ花を咲かせる水縹草だった。たった一つの根拠だったが、もうこれしかない、というような確信めいたものがあり、それ以来独学で研究を始めたのだという。その結果、大抵の植物は、虫や鳥、そして風を媒介とし子孫を繁栄させていくが、こと水縹草においては雪を媒介とさせるということが分かった。


 大量の花粉を雪に付着させることで受粉させる為に、限られた気象条件でしか子孫を繁栄させることが出来ない水縹草は、通常の植物の何百倍もの花粉を発することが分かった。そして通常の花粉の大きさが20から40μmマイクロメートルなのに対し、この水縹草の花粉は4μmマイクロメートル程しかなく、無菌室のように完璧に密閉された空間でもない限り空気中に漂うチリや粒子に付着しながらどんな場所にでも入り込む為に防ぐことはまず不可能なのだという。それは山間に囲まれたこの村一帯に漂っており、空気と共に吸い込むことにより呼吸器から血管、血液へと身体中を駆け巡りやがて脳へと辿り着く。そして脳内にある海馬かいばと呼ばれる記憶を司る部分に、ある特定の力を働きかける。私と湊、そして父は、その花粉に対する抗体を遺伝子の中に保持していた為に、記憶を無くすことが無かったのだ。


「いいか、人間の記憶はまず脳の中にある海馬と呼ばれる部分に保存される。たとえば今この瞬間の記憶は、古びた家の中で、俺が、記憶にまつわる話をしたというような、いつどこで誰が何をしたかという情報が、視覚や聴覚や味覚、それから触覚や嗅覚、心の動きと共に映像としてある種のデータのような形でそこに保存される。だが、海馬に収めることが出来る容量には限りがある。湊、昨日目が覚めてから眠りにつくまでに見たもの、触れたもの、感じたことを、細部に至るまで全て話してくれ。出来れば日記のような感じではなく、一秒事で頼む」


 父がそう問い掛けると、「はあ? そんなの覚えてる訳ねぇだろ」と湊が声を荒げる。そんな湊をみて父は口元の両端を持ち上げた。


「そうだ。覚えてる訳がないんだ。人間は五感全てでこの世界を感じ取りながら、日々膨大なデータを脳内で処理している。全てを記憶として残してしまうとパンクしてしまうからだ。勿論、そのデータが必要か不必要かという仕分け作業は瞬間瞬間でも行ってはいるが、それだけでは処理が追いつかない。だから人間は毎日眠ることで記憶を処理し、必要だと判断されたものだけを圧縮し脳の大脳皮質だいのうひしつと呼ばれる場所に送る。そこは、言わば記憶の海だな。遠い昔のことを思い出そうとする時、俺たちは潜在意識の中でその場所に手を伸ばしている。だがな」とお父さんはここにくる道中で摘み取っていた一本の水縹草をポケットから取り出した。


「こいつが空気中に振りまく花粉はその過程の邪魔をする。人間が膨大なデータを処理する為に睡眠は必要不可欠だということは言ったな?」


 全員が息を呑んで頷いた。


「レム睡眠とノンレム睡眠。この二つを波を打つように繰り返しながら俺たちは眠り、それによりデータの処理をする。レム睡眠の間に海馬と呼ばれる一種の記憶の箱のようなものから脳内にある神経細胞が記憶の処理をする訳だが、水縹草はその神経活動を飛躍的に活性化させるんだ。それは、本来大脳皮質に送られるはずだった必要と判断された記憶すらも処理されてしまうことを意味する。雪が降る日、あの花は嘘みたいに綺麗な水色の花弁を開き、花粉を空気中にまき散らす。俺たちはそれを酸素と一緒に吸い込み、血液中をその花粉が駆け巡る。そして、その身体の主がレム睡眠に入り特定の脳波を発したその瞬間、当日の記憶が詰まった箱を全て空にする。これが、この村で生きる人間が雪が降ると当日の記憶を失う原因だ」


 全員の目にゆっくりと視線を配らせてから、父は手にしていた水縹草をぐしゃりと握り潰した。


「こいつに、水縹草なんて綺麗な名前はふさわしくないんだよ」


 吐き捨てるようにそう言って、父は膝の上に置いた拳をうっ血するまで握りしめている。それからこう続けた。「この呪いの花を、俺は雪忘花せつぼうかと呼んでいる」と。

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