第4話

 百合亜さんの家を出てから向かう場所はひとつだった。目が覚めてからその事については一度も言葉を交わすことなく、私達は歩き始めていた。沙羅の連れて行かれた精神病棟は村の外れにある。


「どうする? 忍び込むか?」


 目の前の西洋風の大きな建物を前にした時湊が言った。どうにかして沙羅に会う方法を考えようと、建物の周りを歩いていており、ちょうど裏口に周った時だった。湊の視線は施設にあるのと同じような黒い柵に向けられていた。私自身これ以上波風を立てたくはなかったが、もうそうするしか方法はないのかもしれない、と湊と同じように目を向けた時だった。


「なに、これ」


 歌が聴こえたのだ。夢の中で、あの膜の中で、何度も聴いてきた歌が、鼓膜に触れたというよりは頭の中で誰かが歌を奏でているような、そんな感じだった。


「新奈、どうした?」


 湊の声はその歌声よりも小さく、水の中から声を発しているかのようだった。「新奈、新奈っ!」と何度も私の名を湊が呼んでいたが、私はその頃には柵に手をかけており、無我夢中で柵を昇り始めていた。途中で何度か足を滑らせて肌を擦りむいてしまったが、そんな事はどうでも良かった。門を乗り越え、人目もはばからず、私は歌に引き寄せられるように精神病棟の中を歩いていた。雪を踏みしめると、足の裏から確かにその下に芝があるのだという感触が伝わってくる。一歩、また一歩と足を前に動かす度に頭の中で流れている歌が大きくなり、私の心は凪いでいく。


 歌を聴きたい。頭の中はそれで一杯で、廊下を渡り、階段を昇り、歌がより大きく聴こえる方へと足を進めた。途中何度かこの病棟で勤めている職員らしき人と出くわしたが、私達があまりにも自然に歩いていたせいか、呼び止められることは無かった。一階から三階へと上がりきった時には、これまでにないくらい大きくなっていた。天使が奏でているみたいに綺麗な歌だった。等間隔に部屋へと通じる扉がある廊下を歩いていく。扉の反対側には幾つもの窓があり、冬の控えめなひかりがそこから溢れていた。足音。歌声。湊の不安げな声色。足音。歌声。鳥のさえずり。歌声。そうやって、列をなすようにして頭の中へとなだれ込んでくる音は、どれも不快ではなく、私はその一音一音を大切に箱に仕舞い込むように目を閉じて聞いた。瞼の裏でひかりを感じる。視覚は、もう必要ないと思った。導かれるままに歩けばいい。しばらくそうやって歩みを進め、ようやく辿り着いた先で私は瞼を開けた。廊下の突き当りには、窓から差し込むひかりに抱かれる車椅子に座る女性の姿がみえた。一歩ずつ、その女性の元へと足を進める。歌が大きくなる。けれど、私の鼓動はその少し前からそれよりも大きくなっていた。思わず胸に手を添えた。それから、思い出す。夢の中でみたもの、感じたことを。


──その歌を、もっと近くで、私の為だけに歌って欲しい。その歌を奏でるあなたに、たった一度でいいから抱きあげてもらいたい。私は、待っている。目覚めの時を。いつか、あなたに会えることを、私は待っている。だから、歌い続けて。私はその声を道しるべにするから。


 夢の中で、私はいつもそう感じていた。あの膜の中で歌うあなたに、私は会いたくて、いつか抱き上げて貰うことをずっと望んでいて、だから、だからと、夢の記憶と向き合っている内に、私は感情の波に呑まれていた。頬を涙が伝い、それでも一歩ずつ足を進める。私の後ろを歩いている湊は先程から一言も発していない。もしかしたら私と同じ事を感じているのかもしれない。私は車椅子の女性の前に立ち、ゆっくりと口を開いた。


「……こんにちは。あの、お母さん……だよね?」 


 零れ落ちてくる涙を、手のひらで拭いながらそう問い掛けた。車椅子の女性は窓の向こうに目をやりながら、消え入るような声で歌を歌い続けている。私は自分の母親の顔を知らない。名前を知ったのだってつい最近のことだ。確証がある訳ではなかった。けれど、その女性の顔が、姿形が、私のお母さんだと、魂がそう訴えかけてきた。腰を屈めて、目線を合わせる。それから肩に手を添えて、その車椅子の女性を抱き締めた。


「お母さんなんだよね? どうして、私の目をみてくれないの?」


 見上げるようにして、そう訴えかけた。すると、それまで窓の向こうに目をやり何一つ反応が無かった女性の目の淵から一筋の涙が頬を伝った。窓の向こうでは冬のひかりを吸いながらきらきらと光る雪が舞い落ちており、その女性の涙が同じように光を纏っているようにみえた。女性は声を潤まなせながらも歌を歌い続けている。


「お母さん」


 身体を抱き締めた。強く、強く。これまで触れることすら出来なかった肌の感触を、その体温を私の身体の中へと落とし込むように。


「本当にお母さんなのか? 俺たちの」


 気付いた時には湊も私と同じような体制になっていた。私と代わるようにして湊が車椅子の女性の身体をそっと抱きしめる。女性の頬を伝っていた涙が、少しばかり勢いが強くなった気がした。冬のひかりに抱かれながら私と湊は声をあげて泣いた。どれくらいの間そうしていたのか、分からなかった。感情の赴くままに女性と向き合っていた私と湊が、ほとんど時同じくして後ろを振り向いたのは、何かが地面に落ちた音が鼓膜に触れたからだった。そこには四角い眼鏡をかけた背の高い男性が立っており、足元には紙袋と中から溢れたであろうみかんが転がっていた。


「……嘘だ、ろ? もしてかして、新奈か? それにお前は湊だよな」


 男性の声が震えていた。私と湊は一度顔を見合わせ、改めて男性に目をやった。その頃には男性は床に頭をつけるようにしてうずくまっており顔をみることが出来なかった。けれど、「無事で良かった。神様、ありがとうございます」と背中を大きく震わせながら上ずった声をあげており、その声色から泣いているのだと分かった。それから程なくして男性は立ち上がり、私と湊、そして車椅子の女性を包み込むようにして抱きしめて言った。「これで、家族が揃った」と。

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