第3話

「びっくりしたわ、新奈ちゃん。一体どうしたの?」


 玄関のインターホンを鳴らし少しの間があってから、施錠されていた鍵が外されていく音が鼓膜に触れる。ゆっくりと開いた扉の奥から出迎えてくれた百合亜さんの顔を見て何故か泣きそうになった。


「あの、百合亜さん。夜分遅くに本当にごめんなさい。今晩だけでいいので泊めて頂けませんか?」


 目を見ながらそう言った。突然の私達の訪問に困惑した表情を色濃くみせていた百合亜さんだったが、すぐに受け入れてくれた。通されたリビングで私は事情を話し始めることにした。


「これをみて頂くのが一番早いと思います」


 湊、私、百合亜さんの順に横並びになってソファに座っていた。スボンを捲りあげながらそう言って、未だに赤い光を放ちながら足首に巻き付いている金属の塊がよくみえるようにと足を持ち上げた。


「これは、一体何?」


 百合亜さんはそれの感触を確かめるように指先で触れ、そう問い掛けきた。


「発信機です」

「発信機? 何の為に?」

「私達は妖精達の庭と呼ばれる施設に住んでいました」


 言いながら、いましたと過去形となってしまった事実を未だに呑み込めていない事実に気付いた。


「ええ、それは知ってるけど」

「三島という名の施設の館長は子供達の安全を守る為だと言っていますが、実際には施設から逃げ出した子供を見つけ出す為だと思います」

「見つけ出すって……あそこは、そんな逃げ出したくなるような場所なの?」


 答えを求めるように百合亜さんが真っ直ぐに私の瞳をみつめてきたが、はい、とすぐに答えることは出来なかった。「あの施設は……親のいない私達にとっては家と同じでした」私は膝の上に置いた両手を握りしめながら続けた。


「でも、最近になって立て続けにいろんなことが起きて……それから」


 手のひらにぽとりと何かが落ちた感触があって、初めて自分の頬を涙が伝っていることに気付いた。


「大丈夫よ。ゆっくりでいい。落ち着いたら話して」


 百合亜さんが私の手の上に自分の手のひらを重ねてくれる。どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。悔しいのだろうか。それとも、悲しいのだろうか。家だと思っていた施設に、家族のように思っていた三島や職員に、裏切られた。沙羅を連れて行かれた。この数日であまりにもいろんなことが起きすぎていたのだ。


「新奈、俺が話すよ」


 湊の目をみて私は小さく頷いた。それから私に代わって湊が施設で起きた出来事を順を追って百合亜さんに話す役を買って出てくれた。けれど、その前に大前提として話さなければならないことがあった。そうでなければ、何故私達が施設から逃げ出したのか、その理由が伝わらない。湊も考えは同じだったようで、大きく息を吸い込んだあと、ゆっくりと吐き出しながら口を開いた。


「百合亜さん、この村に雪の妖精なんていません。皆、雪が降る日に記憶を失ってるだけなんです」


 湊は言葉を選びながら話しているのか、慎重に話し始めた。全てを聞き終えたあと、百合亜さんはお腹に手を添えながらゆっくりとソファから立ち上がった。私達に背を向けて、少しの間壁をみつめていた。


「沙羅ちゃんが心を病んでる風にはみえなかった」

「はい」

「あなた達はずっと血を抜かれていたの?」


 振り返った百合亜さんの目が潤んでいた。素早く何度か瞬きをし、私と湊に視線を配らせた。 


「私達はそれが当たり前だと思っていたので」

「あの施設にいる子供達は皆そんな目にあってるのって事?」 

「はい。身体の小さな子供の場合は、数滴程度しか抜かれないですけど、二ヶ月に一度必ず」

「小さな子供まで……信じられない」


 百合亜さんは口元に手を当てながらも、左手は我が子を守るようにお腹に手が添えられていた。ソファに再び腰を降ろしてから、何故か小さく頭を下げた。


「知らなかった。あなた達がそんな目にあってるなんて……でも、それは理由にならないわね」と私の手を取った。


「これは、私やこの村で住む大人達全員の責任ね」

「どういう、ことですか?」


 百合亜さんの放った言葉の意味が私には全く理解出来なかった。


「雪が降る日に記憶を無くすということに気付いていない大人は、恐らくこの村にいないわ」


 私はあまりの衝撃に開いた口が塞がらなかった。少しでもその衝撃を和らげようと、分かち合おうと湊をみると、私と同じような反応をしていた。


「雪が降る日には雪の妖精が現れ、身の回りに悪戯をするが、いずれその者には幸福が訪れる。村に古くから伝わるこの言い伝えを信じていない人はいない。けどね、大人になるにつれて、一つの疑問を持ち始める。それをほころびって言っていいのかは分からないけど、あなた達から施設で行われている事を聞かされた今、あえてそれを綻びと言わせてもらうわ。一つの疑問を持った時、言い伝えには綻びが生じるの。雪の妖精はこの村にしかいないの?って。冬の間、私達は自分が認識している日にちとズレがよく起きるでしょ?私も含め、皆がそれを妖精の仕業だと口にする。それからテレビや新聞で私達は正確な日付を知るわけだけど、その時点でおかしいでしょ? 正確な日付を求める為にそれに頼っている時点で、そちらが正確な日付で村の人間が認識していた時間は間違いですと認めてるようなものじゃない」


 ずっと疑問に思っていたことだった。身体の小さな子供達ならまだしも、数十年も生きている人間がこの村で起きる日付のズレに気付かない馬鹿はいない。百合亜さんは少しの間を空けてから、続けた。


「この村にはね、それを決して口にしてはならないような空気がそこら中に漂ってるの。村で生きる子供達に罪はないわ。私達大人が言い伝えを信じ、そして同じようなことを口にし続けるのだから、純粋な子供はそれを信じて当たり前よね。でもね、大人になるにつれてサンタさんの本当の正体を知るのと同じように、雪の妖精に疑問を持ち始める。切り分けた覚えのない食材が冷蔵庫に入ってる時、髪の長さがいつの間にか変わっている時、そして自分が認識している日付とは違う時、それは本当に全て雪の妖精がやったことなのだろうかってね。この村で生きる大人達はね、私も含め皆が分かってる。雪が降る日は何かが起きてるって。もしかしたら自分も含め、周りの人達も皆記憶を失ってるだけなんじゃないかって。身に覚えのない出来事は全て、自分達がやったことなんじゃないかって。それはすなわち雪の妖精なんてこの村にはいないことを意味する。でもね、誰もそれを認めようとしない。この村は、世界から半分消えかけているような村だから。人は年々少なくなり、周りには何もない。娯楽といえば人の噂話くらいで、今日みた景色は、明日も、明後日も広がってる。日常に変化がないの。だから自分が生きているのか、生きていないのか、それすらも曖昧になってくる。無限に続く同じ日常に閉じ込められているような、そんな感じかしら。私は歴史には詳しくないから分からないけど、きっと何かが必要だったんだと思う。日常の変化や、信仰するものが。そうやって生み出されたのがきっとあの言い伝えで、私達は未だにそれにしがみついてる。だから、あなた達雪の妖精と呼ばれる子供を崇め、年に一度の礼拝が無くなることもない。あの施設は何が目的であなた達の血を抜いているのかは分からないけど、あなた達をそんな辛い目に合わせた事は私達にも責任があると言ったのは、そういうことなの。本当にごめんなさい」


 再び頭を下げた百合亜さんをぼんやりとみつめている内に、部屋の中でずっと動き続けていたであろう空調の音が少しずつ波を伴うように鼓膜に触れた。私はそれから百合亜さんとどんな会話をしたのか、いつどうやって眠りについたのか覚えていない。目が覚めた時には百合亜さんが食事の用意をしてくれていたので、私は横並びになって手伝った。それから、前日に私達の着ていた服は百合亜さんが洗濯をし乾かしてくれていた為に、他愛もない話をしながら他の洗濯物と一緒に二人で畳んだ。後から起きてきた湊と共に朝食を食べ、精度が高くはないとはいえ発信機が足についている以上はいつ百合亜さんに迷惑をかけてしまうか分からない為に、私と湊は一刻も早く家を出ることに決めた。昨夜は百合亜さんが追い返してくれたが「少年と少女をお見かけしていませんか?」と施設の職員が一度訪ねてきたのだ。


「本当に大丈夫? この家にいれるだけいたらいいのに。職員さんがきたら私がそんな人知りませんってまた追い返してあげるから」


 玄関で靴を履いていた時、百合亜さんが眉を下げながら言った。


「いえ、これ以上ご迷惑をお掛けする訳にはいかないので。ねっ?」


 言いながら、湊に視線を滑らせた。湊は小さく頷いてから「百合亜さん、本当にありがとうございました」と頭を下げた。


「分かったわ。どこに行くのかも、何をしようとしてるのかも聞かないことにする」


 でも、と言って玄関に立つ私と湊の身体をそっと抱き寄せてくれた。優しくて、甘い匂いに包まれる。それから「行くとこが無かったり、危ないと思ったら、いつでも帰ってらっしゃい。この家はあなた達の家だと思って?」と続けて、いつもの陽だまりのような笑みを浮かべた。


 私は百合亜さんの優しさに胸を打たれ、目の中に張った水の膜を必死に溢さないように笑みを作り、「それじゃあ」と言った。湊が家から出ていき、私もドアノブに手をかけた時、ふと思い立った。


「百合亜さん、村から出ることも一つの選択肢として考えておいて下さい。お子さんの為にも」


 あえて、深くは言わなかった。細部まで言わずとも、百合亜さんなら言葉の意図を汲み取ってくれると思ったからだ。


「大丈夫よ。ほら」


 百合亜さんはそう言って、エプロンのポケットから一冊の小さなノートとペンを取り出した。


「これからお腹の中のこの子との毎日を、日記に書き留めることに決めたの」


 私の顔色から読み取ったのか、「当時に抱いた感情は書き込まないから大丈夫」と笑う。


「もう予定日まで数週間だし、いきなり住む環境を変えるのも母体に良くないと思ってね。それにね、私には分かるのよ。たとえ雪が降っても、私はこの子の事を忘れないって。記憶を無くさないあなた達からしてみれば何言ってんだって思われるでしょうけど、母親の直感っていうのかな、何が起きてもこの子のことを見失わない自信が私にはあるの。あの人からの大切な贈り物でもあるしね。私は忘れないわよ。忘れる訳にはいかないの」


 百合亜さんは扉の隙間からみえた空に向けて視線を送り、ゆっくりと目を細めた。私はそれをみながら大丈夫だと思った。何も確証はない。私や湊と違って、もし雪が降ってしまったらきっと百合亜さんは我が子を産んだことを忘れてしまうかもしれない。けれど、生まれてきた子供に対する愛情は、その想いは、決して忘れないのじゃないだろうか、と私は確信を持てた。


「私もそんな気がします。百合亜さんならきっと大丈夫だと思います。どうか、お元気で」

「そんな今生の別れみたいに言わないで。この家から離れないのは、あなた達の帰る場所を守る為でもあるんだからまたいつでもいらっしゃい」


 百合亜さんの柔らかな笑みと、その優しさで、胸が満たされた私は同じように笑みを向けて、今度こそ家を出た。家の前には湊が立っており、ふいに空を見上げた。私もつられるように顔を向ける。薄曇りの空が頭上に広がっており、その雲を神様が千切ったのかもしれない。白い、ちいさな塊が、空から舞い落ちてきた。

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