第5話

「まず、新奈に聞きたいことがあるんだけど、俺と新奈以外の村の人たちが雪が降る日に記憶を無くすって事を、沙羅以外の他の誰かに話したか?」


 湊があまりにも自然に、まるで淀みなく流れ続けている川の流れのように、私が想像すらしていなかったことを躊躇ためらうことなく言うものだから、頭の中でその言葉を理解するまでに僅かに時間がかかってしまい、遅れて「えっ?」と大きな声をあげてしまった。


「誰かに、話した?」


 湊は、何事もなかったかのように再び問い掛けてくる。私は理解が追いついていなかった。あり得ない。だって、雪が降る日に記憶を無くさないのは私だけで、そのせいで十七年間ずっと胸の中に降り積もる孤独の重みに耐えてきたのだ。


「……ちょっと、待ってよ。なんで湊がそれを知ってるの? それに俺と新奈以外って何……? 湊も、記憶を失わないの?」


 そう問い掛けてから、ちらりと沙羅に送った。沙羅も大きく目を開いており、湊が言った言葉に衝撃を隠せない様子だった。


「新奈が自分で言ったじゃん。雪が降る日に皆が私のことを忘れるの。って泣きながら」


 覚えていない。私の頭の中には沙羅への想いや思い出だけが表面を満たしていて、その下には十七年間で降り積もった孤独がある。その中を、どれだけ手探りで探してみても私の中にはそんな記憶は無かった。


「覚えてないのか……まあ、誰にも話してないならそれでいい」

「えっ、ちょっと待って湊。勝手に話を進めないでよ。いつなの? 私が湊にそれを伝えたのはいつのこと? っていうか、何で今までそれを私達に言わなかったの?」

「新奈、それは後で説明するから。次にいかせて」


 遠回しにはぐらかせているようで、だんだん腹が立ってきた。いや、それよりも、どうして雪が降る日に記憶を無くすことを知ってて、私だけがそれを無くさないことも知ってて、何で教えてくれたかったのだ。どれだけ辛い気持ちで私が孤独に耐えてきたのかも知らないで。


「はぐらかされてるみたいで嫌なんだけど。今話してよ」


 湊は、口を閉ざしたまま、ゆっくりと目を伏せた。再び瞼が開くと、壁に掛けられた時計をちらりとみた。


「新奈、もう時間がない。今が十七時過ぎで十八時から夕食ってことは、もうあと一時間もない。それまでに沙羅に記憶を無くさずに心を守る方法を教えてやらないと、また今朝みたいなことになるぞ? 次はもう助けてやれないかもしれない。そうなったら今度こそ沙羅は精神病棟送りだ。お前は、それでもいいの?」 


 深い悲しみとつめたさが混在しているかのような瞳を向けられて、口を閉ざすしかなかった。隣に座る沙羅に目を向ける。私と湊のやり取りをずっと黙ったまま聞いてくれていた沙羅は、私の顔をみて、小さく頷いた。今はとりあえず話を聞こうよ。そう言われてるみたいだった。


「じゃあ、まずは心を守る方法を教える」


 湊は、ポケットに仕舞い込んでいた沙羅の書いたメモ帳を取り出した。今朝方、職員にみられたらまずいからこれは俺が預かっておくよ、と言って湊が持っていたのだ。一枚ずつページを捲り、私が言葉を失う程の衝撃を受けたところを広げた。


「沙羅、雪が降る日に起きた出来事に対して自分が抱いた感情は、もう二度と書くな」


 沙羅は縋るような面持ちで湊をみている。


「雪が降っても忘れない為に当日に起きた出来事を書くまでならまだいい。でも、そこに感情を織り交ぜちゃ駄目だ。沙羅は、俺や新奈と違って雪が降ると当日に起きた出来事全てを忘れてしまうから、そこに文章として当時の感情まで書いてしまうと心と脳が混乱してしまうんだ。そこには辛いと書いてるのに、たった一日前の出来事ですら何故感情を抱いていたのか思い出せない。もどかしくて、訳が分からなくて、どうにかして思い出そうとする内に心が壊れていくんだ。最終的にはその文章に書かれた日付けの中にいる自分と今を生きている自分との境い目が分からなくなる」


 湊の放った言葉が腑に落ちたようで、沙羅は頷きながら「この数日間の私は、本当にそんな感じだった」と呟く。今朝の沙羅の取り乱し方は、今までにみたことがなかった。人が壊れる瞬間というものを一瞬だけ垣間見てしまった気がした。もう二度と沙羅をそんな目に合わせたくない。


「ほんとに大丈夫なの? 当時に抱いた感情を書き込まれれば沙羅は今のままでいられるの?」


 気付けばそう口にしていた。湊はそんな私をみながらふっと頬を緩ませた。


「あぁ、それは亮太が証明してくれてるから大丈夫だ」


 亮太。湊が口にしたその言葉で、真っ先に頭に思い浮かんだのは、愛莉の手を引いて運動場を駆け抜けていく姿だった。亮太は湊のルームメイトで、その亮太までもが記憶を失わないのかと私達が驚きを隠せないでいると、湊は最初から全てを話してくれた。湊自身は私と同じように雪が降っても記憶を失わなかったが、十四歳の時にルームメイトである亮太がこの村で生きる人達と同じように記憶を失ってしまうことを不憫に思い、全てを打ち明けたのだと言う。雪が降る日には皆が記憶を忘れてしまうこと。言い伝えは出鱈目でたらめだということ。私が沙羅に話したのと同じように。


 亮太自身も最初は半信半疑だったようだが、湊が言うならとその話を信じてくれたらしい。


「三年だった。あいつは三年間ずっと今の沙羅と同じように雪が降ると当日にあった出来事を書いてたよ。しかも、その間一度も亮太の心が壊れることは無かった」


 そう言ってから窓の向こうに視線を向けた。だが、部屋の小窓に向けるにはあまりにも遠くをみるような目をしており、瞳にはうっすらと悲しみの色が混じっているように私にはみえた。沙羅と違っていたのは、亮太がメモ帳に書き込むのは当日にあった出来事だけで、その当時に抱いた感情は決して書き込まなかったそうだ。あいつはもしかしたら本能的にそれが駄目だって分かっていたのかもな、と湊は言う。


 そんな日々が二年程続き、状況が大きく変わったのは亮太に彼女が出来てからだそうだ。


「名前は愛莉あいり。お前らも二人が付き合っていたのは知ってるだろ? 」


 私と沙羅は、タイミングを合わせたように頷いた。小さな世界だ。村の中ですら暇つぶしやある種の娯楽のように扱われる噂話は一瞬で広まる。それよりも遥かに小さな世界である施設内で起きた出来事など、当日には全員に知れ渡るほどに話は一瞬にして広まるのだ。


「ある日の夜、もう消灯時刻も近くて横になってたら突然亮太に頭を下げられた。びっくりしたよ。亮太にあそこまで必死に頭を下げられたことなんて今まで無かったからさ」


 湊は当時の光景を今この瞬間も目にしているかのように笑った。


「で、亮太がそこまでするなんて一体どんな頼みだって思って話を聞いてみたら、愛莉にも雪が降る日に記憶を無くさない方法を教えてもいいかってことだった」

「あんまり良くないことだよね」


 沙羅が確かめるようにそう問い掛けると、湊は「ああ」と一言だけ呟いた。


「雪が降る日には妖精が現れるって言い伝えを皆が信じているのに、その全てが覆るような事実を広めるのは良くないって考えてた。だから、亮太にはこのことは誰にも言うなって強く念を押してたし」


 聞きながら、全く私と同じ考えだと思っていた。生まれた時から皆が信仰し、ましてやそれを信じたままに寿命を迎える人達だってこの村には大勢いるのに、その全てを壊しかねない事実を広めるのは危険過ぎる。


「でも、俺はいいよって言ったんだ。亮太と愛莉は本当にお互いのことを想い合っていたし、亮太だけは雪が降る日に起きた出来事を覚えてるのに愛莉は忘れてしまうなんて辛すぎだろ」


 そう、辛すぎる。私も十七年間誰の記憶にも残らない孤独に押し潰されそうになっていたが、何よりも辛かったのは沙羅に忘れられることだった。まるで、息絶えることも出来ずに、深い水の底へとおちていくような、そんな日々だった。


「最初の内は二人とも凄く幸せそうだった。亮太なんて泣きながら俺の身体を抱きしめてきたんだよ」


 そこまで言って、湊は一度口を閉ざした。眉間に皺を寄せ、悔しそうな、悲しそうな、そんな感情が入り混じった表情のままに続けた。


「それから三週間が経って愛莉の様子がおかしくなった。突然泣き叫んだり、ふとした瞬間に笑い続けたりして、とにかくメモ帳を手放さなくなったんだ。俺と亮太はその異変に気付いて、何とかして愛莉を助けようとした。真っ先にメモ帳を取り上げて中を見た時、俺も泣き崩れたよ」


 そこに書かれていたのは、沙羅が書いていたように当日の起きた出来事と共に当時の抱いた感情だったそうだ。それは数時間、数分、と刻みこまれていき、日に日に今の自分と日記に書き込まれている自分との区別がつかなくなってしまった悲痛な叫びだったそうだ。


「そこから先はお前らも知ってるだろ?」


 問い掛けるようにして、湊は私と沙羅を順にみる。愛莉は今から一年程前にお昼時で食堂に集まっていた私達の前で突然職員さんに名を呼ばれ、部屋から出ていった。私達はそれから一年近くも愛莉に会えなる事になるなど思いもしなかった為に当たり前のように扉の奥に消えていくその姿を見送った。数日が経ってから「愛莉ちゃんは村の中にある精神病棟に入院することになりました」と三島さんが言った。でも、施設の外に出ていた子が風の噂で聞いた。妖精たちの庭に住んでいた子は精神病棟から抜け出し行方不明になっていると。その噂話は一瞬にして施設中に広まり、皆が心配する気持ちと悲しみから職員さん達に問い掛けた。だが、私達に追い打ちをかけるようにして、三島さんがそれは事実です、と朝食を食べ終えてから皆の前で言った。もう愛莉に二度と会うことは出来ないかもしれない。私も含め皆がその事実をゆっくりゆっくりとと時間を掛けながら受け入れようとしていた時だった。愛莉が戻ってきたのだ。まるで何事もなかったかのようにけろっとした顔をして三島さんに連れられて食堂の中へと入ってきた愛莉が、皆ただいま、と笑みを溢したのは、今から三週間程前のことだった。


「噂はあくまで噂だったようです。愛莉はこうして僕たちの元へと帰っきてくれました」


 三島さんの放ったその一言が合図かのように皆が一斉に愛莉に駆け寄った。それぞれが感情を露わにする中、共通の疑問は一つだった。今までどこで、何をしてたの? 誰が先に問い掛けたのかは分からない。けれど何人もの子供達が一斉にその問いを投げかけると、愛莉は言った。「ごめん。私、何も覚えてないの」と。


「ねぇ、戻ってきてからのことは私もなんとなく分かるんだけど、愛莉が精神病棟に送られた時って亮太は大丈夫だったの?」


 私はそう問い掛けながら当時のことを思い出していた。最愛の彼女が失踪したと知ったばかりの亮太は、皆から同情の目を向けられていた。それでも「俺は、大丈夫だから」と気丈に振る舞っていたことは覚えている。でも、沙羅や湊以外とそこまで関係が深くない私はそれ以上のことを知らない。


「亮太は、壊れたよ。全部俺のせいだって、あいつはずっと泣き続けてた。そんな日々が続いたある日、目が覚めた時には愛莉のことも、愛莉に付随する記憶も全てを覚えてなかった。もしかしたら自分の心を守ろうとして脳か何かの力が働いて記憶を消したのかもしれない」


 言い終えて、でも、と言う。奥歯を噛み締めてから湊は続けた。愛莉が何事も無かったかのように施設から戻ってきてからというもの、少しずつ亮太の心の中に愛莉という人となりが、そして彼女に抱いていた想いが、形を持ち始めていた。あやふやな輪郭だが、それは確かに亮太の心に小さな変化を起こしていたのだ。そしてあの日、施設から二人が逃げ出した当日、亮太は冬の間毎日のように書き留めていた一冊のメモ帳の存在を思い出した。そのメモ帳を見せてくれないかと頼まれた湊は元からいつかは渡さなければと思っていた為に良かれと思ってずっと預かっていたそのメモ帳を亮太に手渡した。二人が施設から逃げ出したのはそのすぐ後だったのだという。


「あの日、亮太に直接聞いた訳じゃないから本当のことは何も分からない。でも俺が思うに記憶を全て取り戻した亮太はもう二度と愛莉をあんな目に合わせたくなくて施設から逃げ出したんじゃないかな」


 湊は悔しげな表情を纏いながら両手を握りしめていた。それから、「俺のせいだよ」とぽつりと呟いた。


「あの日、廊下の窓からみえたんだ。愛莉の手を引きながら運動場を走り抜けていったあいつは、記憶を失うまで毎日のように愛莉との大切な思い出を書き留めていたあのメモ帳を途中で落としてまで必死に逃げてた。何よりも大切だったはずなのに、それくらい追い込まれてたんだよ」


 私はそれを聞きながら、胸に引っ掛かるものを感じた。


「ちょっと待って。メモ帳は?」


 湊は小さく首を横に振る。


「二人が施設から逃げ出したあの日、新奈は突然スイッチが切れたように倒れたから何も覚えてないだろうけど」と湊がそこまで言いかけて、手を伸ばしていた。


「二人が施設から逃げ出したのって、やっぱり血液検査があった日だったって事?」


 私の記憶では確かにそうだった。だが、沙羅さら聞かされた話だと、二人が施設から逃げ出したのも、私が倒れたのもその翌日だと聞かされていた。あの日は雪が降っていた。皆が記憶を失っている為に私にはそれの確かめようが無かったのだ。今までは。


「当然だろ? 新奈もあの日は倒れたから記憶が混乱してるのか」

「いや、沙羅からそう聞かされたの。ってか職員さん達も皆そう言ってたし」

「いつもの時間のズレか……。たぶんそれは今から言う話と繋がりがあると思うから一旦置いとくか。俺はあの日、確かにみたんだ。後ろから追いかけてた職員の一人が亮太が落としたメモ帳を手にしてたのを」


 背中に嫌なものが走った。冷たいもので身体を触れられているような悪寒がする。


「分かったか? あのメモ帳には亮太が今まで書き留めていた出来事と雪が降る日にこの村で起きている真実が書かれてた。恐らく亮太のポケットに入っていたメモ帳は施設の職員に取り上げられ今は三島が持ってる」

「嘘でしょ?」


 全身の毛穴が粟立つ。


「あぁ、施設の職員は勿論のこと、三島も雪が降る日に皆が記憶を忘れてしまうことを知ってる。二人が施設から逃げ出したことも新奈が倒れたことも全部実際に起きた出来事の翌日にしてるのは辻褄を合わせる為だろう。皆が記憶を失っているのにその前日に逃げ出しましたじゃ誰も納得しない。だから、あえて翌日に逃げだした事にしたんだろうな。あいつらは雪が降る日に記憶を無くすと知ってて何もしないし俺達にも黙ってるんだよ。それでやっと分かった。この施設は、たぶん俺達が思っているような場所じゃない」


「何かが、おかしい」と言ってから、湊はすぐに何かじゃないな、と自らの言葉を否定した。


「この施設は狂ってるよ」


 湊の放ったその言葉が、頭の中で何度も反芻された。

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