第3話

 沙羅の様子がおかしいと感じたのは、それから一週間後のことだった。毎朝、目が覚めると同時にベッドの脇に置いているメモ帳を開き、取り憑かれたかのようにぱらぱらと日付けを遡っていく。


 どうして私は沙羅との約束を守り、頑なにメモ帳の存在意義を教え続けてしまったのだろう。と、こうなってしまってから後悔した。


「新奈、これ何? 朝起きたらメモ帳があって、なんか日記みたいなのをいろいろ書いてるんだけど私また記憶を失ってるってこと?」


 百合亜さんと沙羅が初めて出会った日の翌日の朝に、不安げな面持ちでそう尋ねてきた沙羅に私は一から十までその日にあった出来事を説明した。全ての内容を沙羅の頭の中に定着させるまでに四日かかった。まるで水に浸したガラス板の上に絵筆を用いて文章を書いているかのようだった。板の上に筆を立てれば、確かに色は滲み出すのに、文字がかたちをなすことはない。書いたそばから水に溶けて消えゆくようなその行程を私は沙羅の為にと思い根気よく続けた。


 その間も、私達は連日のように百合亜さんに会いに行っていた。話す内容はその日によって少しばかり変わっても、大方の内容はほとんど同じで、百合亜さんがそれらを記憶に残してくれたのもあの日から四日後のことだった。


「新奈、これみて」


 今朝のことだ。朝、目覚めたばかりの私に突き出すようにしてメモ帳をみせてきた。意識がまだはっきりとしないままに、そのメモ帳を手に取り、「どこをみたらいいの?」と何気なく言った。


「今開いてるところの文章。全部読んで!」


 言われるがままに目を落とした私は、絶句した。起きたての、まだ体温も上がりきっていない身体に、突然冷水を掛けられたかのようだった。


「なに、これ」


 言いながら、読み進めていく。乱雑に刻み込まれた文章は普段の沙羅の字ではなかった。日記に書かれた日付けから推察するに、これは数日前の日記だ。当日にあった出来事の下に、恐らく数分単位で当時の沙羅が抱いた感情が文章として吐き出されていた。今を生きる自分と、日記の中で生きる自分、その境目が分からなくなってきた。心がぐちゃぐちゃで毎日死にたくて仕方がないという心の叫びが書き殴られていた。


 読み終えて、もっと早くに気付いてあげるべきだったと強く後悔した。いや、何かがおかしいと思いながら、何もしなかった。いつか立ち直ることが出来るはずだ、と安易な考えを持っていたのだ。沙羅に自分の置かれている状況を打ち明けてから、私は沙羅のことを言わば同士のように感じており、皆が記憶を失っていく悲しみや痛みを分け合っているかのような感覚に陥っていた。でも、こうなってみて分かった。私と沙羅では置かれている状況が全く違うのだ。雪が降っても記憶を無くさない私とは違って沙羅は当日の記憶を全て無くす。当日に起きた出来事を書き記してあるそのメモ帳だけが、前日の沙羅と今を生きる沙羅を繋ぐ細い糸のようなものだったのだ。


「昨日からずっと読み返してるんだけどさ、この時の私どう考えたっておかしいよね?」


 沙羅の声が震えていた。


「沙羅、このメモ帳の事は忘れて私の目をみて」


 手にしていたメモ帳を枕下に投げ捨てて、咄嗟に言った。急いでベッドから這い出て、すぐ傍で力なく座り込んでいる沙羅を抱きしめる。


「その時の私、凄く辛そうじゃない?」


 耳元で深い悲しみを孕んだ沙羅の声が痛い程に胸の中に響いた。手のひらで何度も背中を擦る。「でもね、私は何も覚えてないの。それだけ辛そうなのに、きっと胸の中を抉られるような気持ちでいたはずなのに、今の私は何も覚えてない。ねぇ、新奈。教えて? その時の私の感情はどこにあるの? 毎朝、目が覚めてそのメモ帳をみると意味も分からず悲しくて、意味も分からず消えたいって思うんだよ」


 奥歯を噛み締めながら、腕の中で泣き続ける沙羅の話を聞いていた。私のせいだ。私が沙羅の心を壊してしまったんだ。ひとりになりたくない。もう、忘れられたくない。そんな私の独りよがりの思いで、私は誰よりも大切に思っていた人を壊した。


「こんな事するんじゃなかった。全部忘れて? 雪が降る日に皆が記憶を無くしているなんて全部嘘なの。だから、もう日記なんて書く必要ないよ」


 どうしたらいいのか分からなくなっていた。思い付く限りの言葉を並べ立てるしかなかった。沙羅は大声をあげて泣いている。普段の沙羅は底抜けに明るくて私のひかりだった。その沙羅がこんなにも取り乱している姿をみるのは初めてだった。私は人の心が壊れてしまう一種の境界線のようなものは、こんなにも一瞬で超えてしまうのかと身体の震えが止まらなくなっていた。とんでもないことをしてしまったのだという罪悪感だけが急速に胸の中で膨れ上がっていく。さながら、空気をパンパンにつめた風船のようで、いつ破裂してもおかしくなかった。破裂してしまえば私は決壊して、泣き叫ぶだけで、それこそ収集がつかなくなってしまう。私はぎりぎりのところで踏ん張り必死に声をかけ続けていた。


 ふと壁に掛けられた時計が目に入った。ちょうど午前九時を回ったところだった。教室では今頃出席が取られていて、私達が二人してこないことできっと大騒ぎになっているかもしれない。何故誰も私達の部屋に来ないのだろう。その疑問が頭の中でふっと浮かんだ時だった。


「沙羅、新奈!」


 勢いよく扉が開き、その音と共に部屋に飛び込むようにして入ってきた湊をみて、涙がより溢れた。 


「湊、どうしたの?」


 そう問い掛けた私の腕の中には未だに声をあげて泣き続ける沙羅がいて、その姿をみた湊が私と沙羅とを引き剥がした。


「ちょっと何すんの……今、沙羅は泣いてて」

「全部分かってるよ。一昨日の沙羅の異常な明るさをみて何かあると思ってた。とにかく今は時間がない。朝からお前らが部屋から出てないことを知ってからずっと誤魔化してたけど、授業が始まって点呼を取られた時にはそれも限界だった。とにかく、もうすぐ職員達がこの部屋にくる」


 湊が言ってる意味が全く分からなかった。湊は後で全部説明するとだけ言って、沙羅の両肩を掴んだ。それから、顔の前で指を鳴らす。


「沙羅! こっちをみろ!」


 部屋の中に響き渡る程の大きな声に、沙羅はびくっと身体を揺らし、ゆっくりと顔を持ち上げた。


「俺の言ってることは理解出来るな?」


 沙羅が小さく頷く。


「よしっ。今から職員達がこの部屋にやってくる。今のお前の姿をみたら、きっと職員達は……いや、三島がお前のことを精神病棟送りにする。だから、腹痛でも頭痛でも何でも良いからとにかく体調が朝から優れないって、それだけを言い続けろ。分かったな?」


 沙羅が再び頷くのをみてから、今度は私に視線を滑らせてくる。それから、新奈はとにかく話を合わせろと言われる。何が起きているのか全く理解が追いついていなかった。でも、とにかく今は湊の言う通りにした方がいいことも確かだった。このままじゃ本当に沙羅が精神病棟に送られてしまう。沙羅と目が合う。扉が再び音を立てて開いたのは、その直後だった。上下共に白い服に身を包んだ職員が二人やってきて、どうしたのだと聞かれる。私と沙羅は湊に言われた通りにした。昨夜からずっと沙羅がお腹を痛めていて気分が優れず、私はずっと看病していたことを伝える。それから私は授業に出るように言われ、沙羅は診察室に連れて行かれた。再び沙羅が部屋に戻ってきたのは日が落ち始めた頃だった。

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