第2話

 朝食を食べ終えてから百合亜さんの家へと向かうことになった。今までに出会った誰よりも柔らかい雰囲気で、顔も名前も見たことがない母親の姿を私が重ねたことを話すと「私も会ってみたい! えっお母さんってどんな感じなんだろ? 私も自分の母親に重ねちゃったりして」と興奮気味に沙羅も目を輝かせたのだ。


「あら、新奈ちゃん。それと、お友達かしら」


 夕暮れ時。初めて百合亜さんの家を訪れた時と同じような西日がほのかに黒い扉の表面だけを染めていた。インターホンを押してから程なくして、百合亜さんが出迎えてくれた。私の顔をみて一度微笑み、それから隣に立つ沙羅の姿に気付いてから、もう一度微笑んだ。沙羅はその笑みを受け取ってから、小さく頭を下げた。


「佐藤沙羅っていいます。あの、新奈とは友達で、それで」


 珍しく、沙羅が緊張しているようにみえた。私も初めて百合亜さんと会った時はそうだった。だから、言葉を繋ぐようにして言った。


「ほんとに来ちゃいました。私、また百合亜さんに会いたくて。ご迷惑じゃなかったですか?」

「迷惑だなんてとんでもない。会いに来てくれたなんて凄く嬉しいわ。それに、若い女の子達と話せることなんて中々無いでしょ? さぁ、入って」


 百合亜さんは以前と同じように温かく迎え入れてくれた。チェック柄のソファに座り、三人で他愛もない話をする。なんてことのない、数日後には忘れてしまうような、取り留めもない会話だった。でも、百合亜さんとそんな話をしている時間はとても心地良くて、その抱いた感情と百合亜さんと過ごした時間だけはずっと胸の奥底でほわりとちいさなひかりを放ちながらずっと残り続けていくような気がした。百合亜さんの家に着いたのは十六時過ぎで、私達には十八時までに施設に戻らなければならないという制限がある。二時間という時間はあっという間に溶けた。


 蜜色の明かりがガラス窓から溢れる民家沿いを抜け、施設と村を繋ぐ針葉樹林に囲まれた一本道を二人横並びに歩いた。


「新奈が言ってた意味が私にも分かったよ」


 歩きながら、噛みしめるように沙羅が言った。


「分かってくれた? 私が自分のお母さんの姿に重ねちゃったって意味が分かったでしょ?」

「うん。凄く、よく分かった。もっと話したいと思ったし、もっと私のことを知って欲しいとも思った。お母さんってさ、きっとあんな感じなんだろうね。ただ話してるだけなのに、胸が優しく包まれているっていうか、なんか凄く心地良かった」


 ふと顔を向けると、沙羅が突然足を止めていた。それから、蚊の泣くような声で、でも、と言う。


「明日になったら、百合亜さんは今日私と話したことを覚えてないんだよね?」


 薄暗い闇の中で、沙羅の表情はよくみえなかった。でも、その声色から悲しげだということは伝わってきた。


「っていうか、私と会ったことすら覚えてないんだよね?」

「うん、覚えてないよ」


 雪が降る日に、この村で生きる人達は記憶を無くす。十七年もの間、私はその孤独と共に生きてきた。だから、今の沙羅の気持ちが痛い程に理解出来た。


「新奈は凄いね……私だったら、こんなの一ヶ月も耐えられない」

「また雪が降ってない日に百合亜さんに会いにいけばいいよ。そしたら、百合亜さんも沙羅のことを覚えてくれるから」


 慰めることは出来ただろうか。少しでも、凍りついてしまった心を溶かすことは出来ただろうか。うん、と小さく呟いて、歩き始めた沙羅のあとを追いながら、冷えきった何かが胸の中に広がっていくような妙な胸騒ぎがした。

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