第二章 家族のかたち

第1話

 ほんのりと鼠色に濁った雲からゆっくりと、まるでその残骸が地に落ちてくるように、雪が降り始めている。それによってまだ薄暗かった朝が、視界が、白く染まった。音という音が全て死んだような朝だった。風に揺られたことで生まれる葉擦れ音も、鳥のさえずりすらもない。静寂が満ちた朝だった。空気はつめたく、少しばかり頰が張り詰めていて動かしづらい。身体が膨らんでみえるから本当は着たくはないが、それでも今朝みたいな寒さの日は、普段より洋服を着込まなければならない。外でいるなら、尚更のことだ。


 施設内にある運動場のベンチに腰を下ろしていた私は、上から着込んでいた黒のダウンジャケットのポケットに両手を突っ込みながら出来るだけ冷えないようにと身体を縮こませていた。ぴんと糸を張り詰めたような静寂が破られたのはそんな時だった。遠くの方で金属の破裂するような音が聴こえた。私はその音を聴いて、きっと三島さんだと思う。二時間程前に、私がベンチに座り空を睨みつけていると大きな猟銃を肩に担ぐ三島さんが数人の男性たちと一緒に通りかかったのだ。


「三島さん、おはようございます。狩りですか?」


 そう問い掛けると、三島さんは口元の両端を持ち上げてから「ええ。大物を仕留めてきますよ」と門の方へと向かった。眼鏡の奥にみえる目がいつになく色を帯びており、瞳孔が開いていた。


──森の奥深くに入ると、いつ獰猛な獣に襲われるか分からない。私が狩りをするのと同じように、向こうも私の血肉をきっと欲してる。そんな命のやり取りが僕は好きなんです。


 以前、三島さんがそう言っていたを思い出した。運動場を取り囲むようにして群生している針葉樹林の輪郭があいまいになっていく様をぼんやりとみつめる。そうしていると、遠くの方から雪を踏みしめる音が鼓膜に触れた。それが次第に近付いてくる。


「やっぱりここにいた。外に出るなら私にも声かけてよ」


 沙羅だった。私の隣に腰をおろすなり雪降っちゃったね、と小さな笑みを溢した。今日のような薄曇りの空の下では一際目立つような、真っ赤なダウンジャケットを着ていた。私は曖昧に頷いて、「うん」と一言だけ呟いた。少しだけ恥ずかしかった。自分の胸の内を赤裸々に綴った日記をみられてしまったような、そんな恥ずかしさがあった。昨夜の私は生まれたての赤子のように声をあげて泣いていて、感情を露わにし過ぎてしまったことに対する後悔と羞恥が胸の中にあっのだ。けれど、それと同時に昨夜は本当に幸せだったことも事実だ。十七年間ずっと抱えていた孤独や悲しみをようやく打ち明けることが出来た。状況はさして変わってはいない。雪が降れば私は今までのように誰の記憶にも残らないが、昨夜は雪が降らない中で打ち明けることが出来た為に沙羅の頭の中には私が置かれている状況が残っているはずだ。それが何よりも嬉しかった。私が世界で一番好きな人には、私の中で最も凍りついた部分を知って貰えている。その事実だけで、目の前で舞い落ちる雪をみても、私は耐えることが出来る気がした。


「新奈、これみて」


 沙羅がポケットから取り出したのは小さなメモ帳とペンだった。メモ帳の表紙には、うっすらと雨粒のようなものが印刷されていた。


「可愛いね。誰かにもらったの?」

「違う。これを私と新奈の為に用意したから見てもらいたかったの」


 沙羅の口から吐き出された息が白い靄になって空にかかる。得意げな顔をして、目の前にそれを突き出してくる沙羅の顔を私はぼんやりとみつめた。交換日記でもしたいのだろうか?と首を傾げる。


「もう、分かんない人だな。だからさ、これに毎日その日に起きた出来事を書くの」


 え、という声が零れ落ちて、私の固まってしまった手のひらの上に沙羅がメモ帳を置いた。


「今日みたいに雪が降っちゃうとさ、私は明日になったら全部忘れちゃうでしょ? だから、その日に起きた覚えておきたい出来事とか私が新奈に言ったこと、言われたことを、全部そのメモ帳に書いておくの。そしたら次の日にたとえ私が忘れていたとしても、そのメモ帳さえみれば雪が降った日にこんなことがあったんだって理解出来るじゃん。今日もここに来る前に雪が降ってたのが窓からみえたから部屋の中でちゃんと書いてきたんだよ。ほら、みて」


 小刻みに震える手で、そのメモ帳を開いた。


『12月15日 新奈と運動場に空をみにいく』


 そこには、今日の日付けと共にそう書かれていた。指先が震えていたのは、寒さのせいではなかった。気付いた時には、涙を流していた。沙羅はきっと、雪が降る日に私がもう二度とひとりになってしまわないようにと、この方法を考えてくれたのだろう。冬の空気に熱を奪われ氷みたいに冷えきっていた頬が、目元から溢れた涙の通った道だけが熱を帯びていく。


「沙羅ありがとう。これ、ほんとに嬉しいよ」


 身体を抱きしめる。線の細いその身体を包み込むようにそっと。


「きっと、私はさ」


 腕の中で沙羅が言う。


「今日は雪が降ってるから、そのメモ帳を作ったことすらも明日になったら覚えていないんだと思う。だから、新奈がそれを私に教えて。迷惑だとは思うけど、雪が止むまで何度も教えて欲しいの。そしたら私はそのメモ帳の意味を理解出来るでしょ? 二人で乗り越えようよ。もう絶対に新奈をひとりにしないから」


 泣きながら何度も頷いて、良かったと思う。昨夜、沙羅に私のずっと抱えていた孤独を打ち明けることが出来て。昨日は雪が降らなくて。そして、私には沙羅という一人の女性が傍にいてくれて本当に良かったと思った。


「新奈、泣いてんじゃん」

「だってほんとに嬉しかったから。朝から泣かせないでよ」

「嬉し涙だったらいいでしょ?」

「そうだね」


 雪が舞い落ちる空の下、二人で笑いあっていると、鐘が鳴った。今日も一日が始まる。二人してベンチから立ち上がると、礼拝堂の方へと村の人たちが列をなして入っていくのがみえた。私達の背には薪小屋があり、運動場を挟んでその向かいに礼拝堂がある。今日は朝食前に礼拝がある為に、起床の鐘を合図に白装束に着替えておいて下さいということは事前に聞かされていた。礼拝は基本的に月に一度しかない。けれど、前回の礼拝のあった日は雪が降っていた。そして今日も。それがいつになるかは分からないけれど恐らく礼拝は後もう一度開かれることになる。その事実に溜息をつきそうになり、ぼんやりとみつめていると、「愚か者だよ」としがれた声が鼓膜に触れて、咄嗟に振り返る。


「びっくりした。こ、こんにちは」


 沙羅が驚きのあまりに身体を仰け反らした。私達の真後ろに立っていたのは一人のおばあさんだった。年は八十代くらいだろうか。顔や首周りには深い皺が刻まれている。水気を失ったような細くしなびた髪はほつれており、目は窪んでいる。


「あの、礼拝にいらしたんですか?」


 声をかけるが、返事がない。窪んだ目から向けられる眼差しはずっと礼拝堂の中へと入っていく村の人たちに貼り付けられていた。


「礼拝? 私はね、そんなものに興味はないよ。あそこに入っていった連中は幸福が訪れるようにと雪の妖精の子であるあんた達に祈りを捧げるんだろ? そんな事をして何になるっていうんだい。幸せは自分で掴みとるものだよ。誰かに縋ったり、落ちてくることを祈るようなもんじゃないんだよ」


 おばあちゃんは、「だから愚か者だと言ったんだ」と吐き捨てるように続けた。沙羅は不思議な生き物を見るかのような目で先程からおばあちゃんの足先から頭の先へと視線を彷徨わせてる。


「あんなことをしているようじゃ、あの連中の一生はこの世界で終わるね」


 いよいよおばあちゃんが何を言っているのか分からくなってきた。まるでこの世界で一生を終えても、その先があるかのような口ぶりだった。私は思わず「あの」と呟いていた。


「じゃあ、その、もし死を迎えても続きがある人は次はあの世ってことですか?」

「いいや、違う」


 おばあちゃんは首を横に振った。


「別の次元の世界へと続くんだ。でも、あんなことをしているようじゃ、あの連中はその先には進めんよ」


 おばあちゃんの放った言葉を聞きながら私は百合亜さんを思い出していた。


──私はこの世界で死んだ人たちは別の世界へと旅立っただけだと思うの。そこでは当たり前のように呼吸をして、笑って、泣いて、今の私達と同じように生活してる。


 百合亜さんは、確かそう言っていた。おばあちゃんの話している内容はそういう意味なのだろうか。


「おばあちゃんは結局何しにきたの? だって礼拝に来たんじゃないんでしょ?」と沙羅が問い掛けると、おばあちゃんは途端に目を丸くした。


「わたしはね、迷子を探しに来たんだよ。追いかけていたらこの施設に入っていってね」


 首を左右に向けながらも目線は宙に向けられていた。どうやら、小さな子供ではないようだった。沙羅は関わってはいけないと思ったのか、少しだけ足を後ろの方へとずらした。


「あぁ、あんな所にいたよ」


 おばあちゃんが指を指した先にいたのは、真っ青な蝶だった。曇天の空の下、抜けるような色のその羽根があまりにも鮮やかで光り輝いているようにみえた。ふわりふわりと、雪が風で舞うように優雅に舞っている。おばあちゃんは、ほらおいで、どこに行ってたんだい、などとぶつぶつと呟きながらその蝶を追いかけていった。私は姿がみえなくなるまで目で追いかけ続け、あとになって雪が舞い落ちる今のような時期に蝶を見たのは初めてかもしれないということに気付いた。


「不思議な人だったね。蝶もいたし、なんでだろ?」

「不思議なんてレベルじゃないって!あの人絶対どこかがおかしいよ。村の外れに心が病んだ人たちが沢山いる病院があるじゃん。大方そこから抜け出して来たんじゃない?」


 沙羅はそう言うが、私には心が病んでいるようにはみえなかった。嘘をついているとも思えない。私にはあのおばあちゃんが実際にみたり聞いたりしたものを、そのまま話してくれていたようにしか思えなかったのだ。


 運動場をあとにした私達は、礼拝用の服へと着替え、それから点呼の為に食堂へと向かった。沙羅と横並びになって両開きの扉を開けると何やら人集りが出来ていた。子供達が喜々として騒いでいて、その隙間からみえたものをみて納得した。テーブルの上にはブルーシートが敷かれており、その上には大きな鹿が横たわっていた。光を失ったその目は大きく見開かれている。首筋の辺りが赤く染まっているのはきっとそこを銃弾で撃ち抜かれたからだろう。その横たわった鹿の体を小さな子供達が群がるようにして触っており、それを三島さんは満足そうな顔で微笑んでみていた。私達が話している間に猟から帰ってきていたようだった。その三島さんの隣に立った職員の女性が「村の方から頂きましたよー」と礼拝に訪れた村の方から貰ったという段ボール箱を両手で抱えるようにして持ちながら声をあげた。きっと中にはお菓子がたくさん入っている。カラフルな飴玉に、チョコレート、スナック菓子。子供の頃から幾度となくみてきたその光景に、箱の形状から大方中身は分かるようになっていた。血生臭い鹿の体とカラフルなお菓子、その二つは夏と雪みたいに歪な組み合わせだと思った。


「おはよ、新奈、沙羅。お前たちもお菓子貰ってこいよ」


 無邪気に喜ぶ子供達の姿にみとれていると、湊が悪戯な笑みを浮かべて言った。懺悔室に入っていた湊は、予め罰として言われていた通りに三日経つと出てきた。私は湊に聞きたいことがあったけれど、愛莉と亮太が逃げ出した当日は雪が降っていた為に問い掛ける意味なんてないと思い、いつものように接している。湊自身も、普段と変わらない様子だった。


「皆さん、あとで村の方々には大きな声でお礼を言いましょう!」


 三島さんが皆の顔を見渡してから、貼り付けた笑顔のままに言った。いつもの、作り物の笑顔だ。そんな三島さんの前では、撃ち殺された鹿が目を見開いている。私はみながら途端にいたたまれない気持ちに駆られ、どうかあの鹿も別の次元へと旅立てますようにと、おばあちゃんの放った言葉を思い出しながら願った。

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