第14話

 数週間ぶりに施設の外に出てきても、何一つとして村の形は変わっていなかった。まるで時が止まってしまったかのようにゆっくりと流れる時間の中で、私は十七年間生きてきた。この二週間で唯一変わった所があるとすれば、雪が降り積もって村一帯が白く染まったことくらいだろう。行くあてもなく、することもない。雪を踏みしめながら、私は一体何をしているのだろうと思う。民家の小窓から溢れた蜜色の灯りをただ眺めながら歩いていると、一人の女性が重そうなビニール袋を右手で提げながら、正面から歩いてきた。商店にでも行ってきたのだろうか。右手から左手へ、左手から右手へと何度も指を持ち替えて袋を手にしている為に、その袋が重そうなことは分かった。私は咄嗟にその女性の元へと駆け寄っていた。


「大丈夫ですか? あの、良かったら私持ちますよ」


 女性のお腹は細い身体で支えられている理由が分からない程に大きく、そう声を掛けると笑みを浮かべた。他愛もない話をしながら歩き女性の家に辿り着いた時「ねぇ、良かったらあがっていかない?荷物を運んでくれたお礼もしたいし」と半ば強引に家の中へと導かれた。


「そこに座ってちょっと待ってて」


 リビングに通され、戸惑いながらもソファに腰を下ろした。赤と黒のチェック柄のソファカバーが掛けられており、なんだか凛花さんに貰ったコートに似ているなと身体を預けながらぼぅっと考えながら、部屋の中を見渡す。テレビやエアコンのリモコンなどの小物はきちんと仕舞われており、窓辺には観葉植物が吊るされていた。清潔感のあるきれいな部屋だなと思っていたら、テレビ台に置かれていた写真立てが目に入った。二人の男女が写っており、隣の男性の肩に頭を預けている女性は凄く幸せそうだった。見入っていると、女性がトレイに二つのカップを載せて歩いてきた。


「はい、お待たせ。良かったらこれ飲んで。今日は一段と寒かったし、あなたそんな薄着だったら尚更寒かったでしょ」


 目の前に湯気の立ち昇る白いカップが置かれる。鼻の奥へと流れてくるその芳醇な香りでコーヒーだと分かった。「頂きます」と小さく頭を下げてから、そのカップを手にして口元へと運ぶ。口の中へと流れてきた熱い液体は苦みを伴っていて、身体の中まで冷えきっていたせいか、それが食道から胃の中へと流れていくのが熱を追いかけていると分かった。


「どう、美味しい?」


 向けられる笑みがとても温かい。それを受け止めた私の心は燐光りんこうを発するかのように光り、ぽぅっと熱を帯びてくる。なんだか、不思議な感じだった。


「私の名前は、百合亜ゆりあっていうの。百合亜でも、百合亜さんでもどっちでもいいわ。あなたのお名前は?」


 尖らせた唇の間から息を吹きかけたあと、カップに入ったコーヒーをゆっくり啜ってから、女性が──百合亜さんが言った。


「私は新奈っていいます」

「にい、な?」

「少し変わった名前だと思うんですけど、新しいに、奈良の奈で、にいなって呼ぶんです」

「そう。今日は本当にありがとね。新奈ちゃん」


 百合亜さんは持ち上げた手を、膝の上で綺麗に整列するように揃えていた私の手の上に重ねた。それから、「そんなに固くならないで」と笑う。大人の女性と話すのは、これが初めてではなかった。施設の中には女性の職員さん達だっている。でも、どの女性よりも柔らかくて温かみがあった。


「あの写真の私の隣にいるのはね、主人なのよ」


 話しながら、私はテレビ台の上に置かれている写真立てに何度も視線を送っていた。その写真の中の女性があまりにも幸せそうな顔をしていたからだ。百合亜さんは、それに気付いていたのだろう。


「百合亜さん、凄く綺麗です。幸せそうで」

「そうね、あの頃は本当に幸せだった」


 少しの間があった。それからその写真をみるにはあまりにも遠くをみるような眼差しを向けて、寂しさを孕んだ笑みを浮かべる。


「半年前に亡くなったのよ。膵臓癌すいぞうがんだった。若いから進行も早くてね、病気が分かってからはあっという間だった。私の妊娠が分かったのと、主人の病気がみつかったのは同じ時期でね、人生最高の瞬間と最悪な瞬間が同時に訪れて、あの時ほど神様を恨んだことはなかった」

「あの、ごめんなさい。私……知らなくて」

「いいの、謝らないで。あなたは何も知らなかったんだから。それにね、主人はこの世を去る前に私に贈り物をくれた。この子がいるから私は生きていける」


 ゆっくり持ち上げられた右手が、お腹の上に添えられた。それでも眼差しは、未だに写真立てに向けられており、もう二度と会うことが出来ないご主人に向けて手を差し伸ばしているようにみえた。その慈愛に満ちた眼差しをぼんやりとみつめていると、百合亜さんは穏やかな笑みを浮かべて「新奈ちゃんは天国ってあると思う?」と問い掛けてきた。


「分かりません」


 少しの間を空けてから、呟いた。どう返答すればいいのか分からなかった。


「そうよね、新奈ちゃんくらいの年の子がそんなこと考える訳ないか」

「ごめんなさい」


 私が小さく頭を下げると、百合亜さんは途端に目を丸くし、「えっ、何?謝らないで」と笑みを浮かべた。


「私はね天国ってないと思うの。いや、私が考えている場所のことを天国って呼ぶのならそうなのかもしれないんだけどね、私はこの世界で死んだ人たちは別の世界へと旅立っただけだと思うの。そこでは当たり前のように呼吸をして、笑って、泣いて、今の私達と同じように生活してる。きっとあの人だって、今はそっちの世界で元気に生きてるはず。だから私は悲しむことを辞めた。勿論、大切な人が亡くなって目の前から居なくなってしまう事は悲しいことよ。身体を真っ二つに引き裂かれたみたいにね。でも、だからこそこの世界で生きる私と別の世界へと旅立ったあの人、お互いの事を思ったらただ悲しむんじゃなくて、そんな風に今も元気に生きてるって思う方がいい気がしたのよ」


 私は一言も発する事なく百合亜さんの話を聞いていた。


──天国ってあると思う?


 百合亜さんにそう問い掛けられた時、どう答えたらいいのか分からなかったのは、物心ついた頃からあの施設で暮らしてきた私は考えたことすら無かったからだ。生き物なのだから始まりがあれば終わりがあるのは当たり前で、そんなことは分かっていた。分かっていた、つもりだった。でも実際にこんな風に人の死を身近に感じたのは初めてだった。何故か、沙羅の顔が頭の中で過ぎった。私なら耐えられるだろうか。今、いや今じゃなくても、たとえば数日後、数年後に、沙羅を失ってしまった私は、百合亜さんのように自分の両足で地を踏み前を向いて立ち上がることが出来るだろうか。いや、無理だ。私は沙羅のいない世界なんて考えられない。生きていけない。帰ったら真っ先に謝ろう。そう思ったのと同時に、百合亜さんは強いと思った。きっと今だって私には考えられない程の悲しみを背負っている。それでも、お腹の中にいる赤ちゃんの為、そして自分の為、旦那さんの為に、必死に生きている。気付いた時には、あの、と言っていた。百合亜さんは首を傾げて「何?」と微笑んだ。


「お腹、赤ちゃんのいるお腹を私も触らせて頂けますか?」


 服の上からでも分かる大きなお腹をみたのは、村の中でみた二、三度だけ。実際に間近にみたのはこれが初めてで、その神秘的な光景に少しだけでも触れてみたいと思ったのだ。


「勿論よ」と言って、私の手を取り自分の大きなお腹の上へとのせる。


「どう? 動いてるの分かる?」

「ええ、分かります。凄い……ほんとに、お腹の中に赤ちゃんがいるんですね」


 確かに動いていた。手のひらを通してそれを感じた。胎動と言うのよ、と百合亜さんは教えてくれた。人のお腹の中に人がいる。豆粒よりも更に小さな、とても小さな大きさでこの世に生まれた一つの生命は、母体となるお母さんから栄養を貰いながら日々成長していく。そんな我が子を想い、母親は日々を生きていく。これ程までに美しいものがあるだろうか。と涙が出そうになった。私のお母さんもこんな風にお腹の中で私を育ててくれていたのだろう。会いたい、と思った。顔も名前も知らないけれど、私をこの世に産み落としてくれたお母さんに会ってみたいと思った。


「泣いてるの?」


 言われるまで気づかなかった。私は泣いていた。指先で目元を拭うと、吸い付くように肌についていた水滴が指の腹を伝っていく。


「あれ、なんで?」

「大丈夫よ。ほら、おいで」


 肩に回された手が私の腕に添えられて、私は引き寄せられるようにして百合亜さんの肩に頭を預けていた。


「新奈ちゃん、今日会った時からずっと悲しそうな目をしてた。なんかあったんでしょ? そういう時はね、無理して笑わなくていいの。泣きたくなる程悲しい時は、心だって泣き叫んでるんだから、思いっ切り泣いたらいいよ」


 胸の中に降り注ぐ言葉が温かくて、より涙が溢れてきた。今日は、泣いてばかりだ。百合亜さんは、それから何も言わず、ただ優しく頭を撫でてくれた。涙を流し続けているうちに、何故こんなにも百合亜さんと話していると心が温かくなっていくのか分かった。私は、重ねていたのだ。顔も名前すらも知らない、自分の母親のその姿を、私は百合亜さんに重ねていた。

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