第9話

 凜花さんに突然起こされたのは、その日の夜のことだった。肩を揺すられ、目が覚める。すると、ベッドの脇には凜花さんがいて、立てた人差し指を口元に置いていた。だから、私は声を出さなかった。


「新奈、落ち着いてよく聞いてね」


 凜花さんは、いつになく真剣な顔をしていた。嫌な予感がした。部屋の中には闇が満ちていた為、伝わるようにと私は枕に頭をのせながらも大きく頷いた。凜花さんは、聞き取るのもやっとというような声で囁いた。


「私は今日この施設から出ていく」


 まだ声を出さなかった。


「本当は手紙だけ置いていこうと思ってたんだけど、新奈はもう気付いちゃったよね」


 私は小さく頷いた。今日一日を通して、凜花さんがいつもと違うこと、そしてもしかしたらどこか遠くへ行ってしまうのじゃないだろうかという予感めいたものがあった。


「新奈、ありがとうね。沙羅にもそう伝えて。二人と一緒に過ごせたことは、私の人生で一番の宝物になった」


 ベッドの上の方から沙羅の寝息が聴こえる。静かな夜だった。目が覚めたばかりなのに一瞬にして状況を呑み込んでしまった私は、鼻の奥がつんとして、目の奥に力を込めていた。


「これから先、二人は幸せを感じることもあるだろうけど、その分だけ辛いことも沢山起きると思う。今日の老夫婦みたいな考えを持ってる人はいろんな所にいるから、新奈と沙羅のような関係を良く思わない人たちから嫌なことも言われるだろうし、ひどいことをされるかもしれない」


 私は凜花さんの手を握った。強く、強く。もう、我慢することが出来なかった。少し前から、頬は濡れていた。


「それでもね、助け合うの。何があっても、どんなことを言われても、お互いに補える部分はきっとあると思うから。助け合って生きていくの。分かった?」


 凜花さんの声が潤んでいる。私はもう涙が止まらなくなっていた。施設から出るって? どこにいくの? どうして私達を置いていくの? 頭の中に次々と疑問が浮かぶ。いや、それよりも、と私はついに声を発した。


「凜花さん、いや、いかないで」

「新奈ごめんね。今はもう、この選択肢しか思いつかなかったの。私は自分と沙羅と新奈、三人全員が助かる道を選ぶにはこうするしかなかった」


 意味が分からなかった。ずっと声を出すことを我慢していたせいか、一度声を出したことをきっかけに嗚咽を漏らしそうだった。鼻の穴から流れ出てくる水を啜りたかった。でも、それをすれば沙羅が目を覚ましてしまう。そうなれば、私は一緒になって声をあげて凜花さんを止めてしまう。それだけは、絶対にしてはならない気がした。


「二人を置いていく私を許して」


 凜花さんのおでこが、私のおでこと合わさった。


「……いつから?」


 私は、涙ながらにそう問いかけた。


「いつからって?」

「いつから施設から出ていくって考えてたの?」

「一ヶ月前。いつか新奈と沙羅には言わなくちゃって思ってたんだけど、結局それをためらっている内に当日になっちゃった。ごめんね」


 ベッド脇にいる凜花さんが何度も頭を下げる。それをみている内に、気付いたら口を開いていた。


「いいよ、私は許す。許すよ。だから、もう……沙羅が起きる前に早く行って」


 言いながら、私は何を言っているのだろうと思っていた。何を理解した気になって、凜花さんを送り出そうとしているのだろう。何も理解していないのに。送り出していい訳がないのに。


「ありがとう、新奈。新奈なら理解してくれるって信じてた。一年後の今日、必ず迎えにくる。少なくともそれまでは沙羅と新奈は安全なはずだから。でも、もしそれよりも待てないようなら」とそこまで言ってから、凜花さんはポケットの中から紙切れを取り出して、私の手に握らせた。


「そこには私が今から言うことが書いてある。いい? 薪小屋のちょうど向かいにある柵から時計回りに数えて十四番目の柵には細工が施してある。女の子二人の力でも蹴れば柵を破ることは出来ると思う。繰り返して。薪小屋の裏口の向かいにある柵から時計回りに数えて十四番目の柵」


 凜花さんが何を言っているのか分からなかった。けれど凜花さんの綺麗な眼差しが促すように私を捉えてくるので、理由わけもわからず口にする。


「薪小屋の裏口の向かいにある柵から、時計回りに数えて十四番の柵」

「その柵の、四本目から十本目」

「その柵の、四本目から十本目」

「そう。万が一の時は沙羅と二人でそこを蹴破って逃げて」

「え、逃げるって、私と沙羅は誰から逃げるの」

「それは知らなくていい。何も知らないことが時に一番の武器になったりするものなの」


 私は小さく頷いて、頬を伝う涙を手のひらで乱雑に拭った。


「それと、その紙は絶対に誰にもみせたら駄目。出来ることなら沙羅にもみせない方がいいと思う。使える情報は、それを知っている人間の数を減らすことが一番有効的になるから」

「分かった」

「最後にいろいろ背負わせちゃってごめんね。じゃあ、私はそろそろ行くから」


 凜花さんはそう言ってから立ち上がり、扉の方へと向かった。私は、咄嗟に身体を起こしていた。凜花さんが壁のラックに掛けられていた一着のコートを手に取る。それから、「私が着ることはもう二度とないだろうから、これ良かったら着てね。いつかどこかでその服を着てる新奈をみれたら嬉しいな」と言って、手渡してくれる。私はそれを胸に抱きしめた。


「凜花さん、また会えるよね」 

「うん。約束する。一年後、必ず迎えにくるから」 


 闇の中、凜花さんの顔ははっきりとはみえなかった。けれど、そこに眩い笑顔が咲いている気がした。私の、いや私達の、一番好きな凜花さんの表情だ。扉の乾いた音が鼓膜に触れて、突如虚しさと寂しさに襲われた。行ってしまった。どこにいこうとしているのか分からない。何をしようとしているのかも分からない。私は、本当に引き留めなくて良かったのだろうか。そんなことを先程まで凜花さんが立っていたその場所に目を向けながら、ぼんやりと考えていた時だった。鼓膜を突き刺すような、とてつもない音量の警報が施設内に鳴り響いた。


 私は、それと同時にベッドから飛び出していた。蹴破るような勢いで扉を開き、部屋から飛び出した。靴は履かなかった。服は乱れていた。そんなことは、もうどうでも良かった。廊下には警報の音で目を覚ました子供達が部屋の中から次々と出てくる。私はそれを避け、裸足で駆け抜けていった。凜花さん。凜花さん。どうか、無事でいて。あの時に止めていたらなんて後悔なんかしたくない。逃げて。目の前に男の子達がいた。それを壁伝いにひらりと避け、再び走った。逃げて。息があがってる。逃げて。肺が、破裂しそうだった。


「凜花さんっ、早く逃げてー!!!」


 運動場に出たところで、夜空を切り裂くような大きな声を放った。すぐさま近くにいた警備員に私は身体を抑えられる。両腕を背中に回され、お腹から地面に叩き付きられた。冬の空気が染み込んだ砂が頬に触れて突き刺すようなつめたさと痛みを走らせる。「君も逃げようとしていたのか」と息を荒げながら警備員に問いかけられたが、私の意識はそんな所には向いていなかった。「凜花さんっ、逃げてー!!」闇の中、そこにはもう誰もいないと分かっているのに、黒い柵の更に向こうをみつめる私は壊れたように叫び続けた。

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