第8話

「ねぇ新奈。私のマフラー知らない?」


 私が丸テーブルの上に置いた三面鏡を前にして髪の毛をといていると、凜花さんがカーテンの隙間に目を向けながら少し怒ったような声色で言った。赤と黒のチェック柄のコートに身を包みながら、どこか遠くの方へと向ける眼差しは妙に色気があり、高い鼻梁の先には窓から差し込んでいる控えめな冬のひかりがまるで羽を休める蝶のように止まっている。


「マフラーだったら、昨日までそこの山積みのかたまりに置いてあったの見ましたけど」

「山積みのかたまりって何」

「それですよ」


 私はベッド脇に山のように高く積まれた衣服のかたまりに指を指す。そのベッドも衣服も、全て凜花さんのものだ。


「そうじゃなくて、その山積みのかたまりってそんな単語どこで覚えたの? ふつうは服が山積みになってるとこって言わない?」

「そうかな、私は山積みのかたまりって言っちゃいます」

「山積みのかたまり」

「はい、山積みのかたまりです」


 私にとってのそれは、ごく自然の、むしろそう表現することが当然だと思っていた為に、真顔でそう答えると、凜花さんは声を上げて笑った。大きな目が三日月形にくしゃりと崩れ、指通りの良さそうな髪が大きく揺れた。


「新奈のワードセンスってほんとおかしいよね」


 凜花さんがあまりにも笑い続けるので、つられるように私も笑った。沙羅が部屋の中に戻ってきたのは、そんな時だった。扉の開く乾いた音が鼓膜に触れて、私と凜花さんはほとんど同時に視線を向けた。


「あっ、それ私のマフラーじゃん。なんで沙羅はいつも私の服を勝手に着てんの? こないだも私のグレーのニット勝手に着てたよね」


 部屋に入ってくるなり、凜花さんに詰め寄られた沙羅は目を丸くする。何が悪いことした?とでも言いたげな表情だった。それからマフラーに手を添えて、「だって凜花さんの服可愛いの多くて着たくなっちゃうから」と悪戯な笑みを浮かべた。


「あきれた。全く反省してないし。せめて声かけてよ」と凜花さんはそんな沙羅をみながらため息をつき、「三人で散歩に行こうって自分から誘っといて勝手にどっか行ってるし、私の服は勝手に着るし、沙羅ってほんとにマイペースだよね。我が道を行くっていう感じじゃない?」と私に同意を求めてきた。私はそれに首を縦にも横にも振らなかった。


「じゃあ、そこの山積みのかたまりに服置かないで下さいよ。いつも着替えようとしてたら、可愛い服が目に入って気付いたら手に取っちゃうんで」


 沙羅がそれに指を指す。


「待って、あんたも山積みのかたまりって言うの?」

「え? はい」

「なに、なんかの伝染病?」


 言いながら、凜花さんが吹き出すようにして笑った。


「え、違う違う。私は新奈がよくその言葉を使ってるから言っただけで、私の言葉じゃないですよ」

 沙羅が顔の前で必死に手を振る。意地でも自分発信の言葉にはしたくないようだった。私は、ちょっと心外だった。

「でも感染うつってんじゃん。あれは山積みのかたまり?」

「はい」


 沙羅が向けられた指の先にあるそれをみて真顔で答えたその瞬間、部屋の中に三人の笑い声が転がった。二人のやり取りを黙って聴いていた私も沙羅の放ったその一言で笑わずにはいられなかった。私と沙羅と凜花さん、その三人だけでいる時の空気感が私は好きだった。年は二つしか変わらないけれど、私や沙羅にとっての凜花さんは大人で、実の姉のように私達はしたっていた。同じ部屋の中に偶然に割り当てられただけの関係だった私たちがいつしか姉妹のような関係になり、半年後には凜花さんが施設から出ていかなければならないという時期だった。


「ねぇ、今日さ三人で施設の外に散歩に行かない?」


 目が覚めてから、ベッドの上と下で、おはようという言葉が交差したあと沙羅が言った。提案していた沙羅がいつの間にかどっかにいなくなってしまったりと予定していた時刻よりも出発は大幅に遅れてしまったが、お昼前に私達は施設を出た。雪を踏みしめる音が鼓膜に触れて、家の屋根や木々や地面、村一帯が白く雪に染められたその中を、他愛もない話をしながら歩いて周った。


「凜花さん、施設から出たらどうするの?」


 冬の空気に満ちた澄んだ空をみながら思い出したように沙羅が言った。


「え? あぁ、どうしようかな。全く決めてないんだよね、職員さん達は何も教えてくれないし」

「まだ何も教えてくれないんだ。もう凜花さんが出ていくまで半年もないのにね」


 妖精たちの庭には、十九歳の誕生日を迎えると同時に施設の外に出ていかなければならないというルールがある。だが、施設の外に出てからどこに行くのか、何をするのか、そして施設にいた人達は今現在どこに住んでいるのか誰も知らなかった。


「まあ、なるようになるでしょ」と凜花さんはふわりと春風のように一瞬だけが笑みを溢したが、その風が突如として嵐に呑まれたかのように表情をころりと変えた。


「ごめん嘘ついた。やっぱり……言わないで行くとか無理かも。沙羅、新奈。私はね」と凜花さんがそこまで言いかけた時だった。民家沿いを歩いていた私達に老夫婦が軒先から声をかけてきた。


「あんたたち、この辺の家の子じゃないだろ? 妖精たちの庭の子かい?」

「そうですよ。こんにちは、今日は寒いですね」


 最初は、当たり障りのない、ごく自然な、軽い会話だった。だが、その内に女性が顔を曇らせた。その女性は明らかに私と沙羅の肩から伸びた腕の先をみていた。私と沙羅は、貝殻のように手を組み合わせ、手を繋いでいたのだ。


「もしかして一時期噂になっていた子たちかい? 女同士で愛を育むなんてけだもののすることじゃ。今すぐにやめな」


 眉間に深い皺を寄せたままに向けられた眼差しは、まさに獣をみるかのようだった。組み合わされた手に込められている力が次第に強くなっているのは、私から先だったのか、沙羅から先だったのか、分からなかった。


「おい、やめんか」


 隣に立つ年配の男性が伺うようにしてこちらをみてから、女性の肩にそっと手を置いた。


「全く、けがらわしいったらないわ」

「おい」

「じいさん、止めんどくれ。この子たちには親がらんから、こうやって道を誤るんじゃ。誰かが喝をいれてやらな戻ってこれんようになる」

「でもお前、思っててもわざわざ目の前で言わんでもいい。いつかこの子たちも自分でその過ちに気付くもんや」


 目の前で繰り広げられる二人のやり取りをみながら、私は一体なにを見せられているのだろうと思っていた。何の権利があって私達にそんなことを言うのだろう。私達よりも長く生きてるから? 自分達は男と女という正当な結婚をしているから? 考えていると、胸の中で煮えたぎるように怒りが湧いてきた。感情のままに叫んでやろう、そう思った時だった。


「……け……んな。」


 凛花さんが口を開くと、私達を包んでいた冬の空気が一瞬で張り詰めたものになった。


「どの目線でお前らはこの子たちにものを言ってんだよ」


 老夫婦の元へと詰め寄っていく。私はそれを咄嗟に止めていた。反対側の身体は沙羅が抑えていた。

 

「待って凜花さん」

「私達は大丈夫だから」

「良くないっ! あんた達二人を傷つけるやつを私は絶対に許さない」


 私と沙羅よりも背の高い凜花さんは二人がかりでも抑えきれない程に力が強いことを初めて知った。じりじりと距離が詰められていく。


「この子たちが女性同士で愛し合ってるからなんだよ? それの何が悪い。それの何がお前達に害を及ぼすんだよ」


 老夫婦は目を見開き、凜花さんの気迫に気圧されてしまったのか一言も発することが出来ないようだった。「あー駄目だ。私、なんで」と髪をかきあげながら一瞬冷静さを取り戻した様子だったが、凜花さんは再び老夫婦に目を向けた。


「今を生きてる私達に、先も短いお前らの干からびた常識を押し付けてくんな」 


 最後は吐き捨てるようにそう言った。施設に戻るまで誰も口を開かなかった。臙脂色の絨毯を踏みしめながら廊下を歩き、部屋のドアノブに手をかけた時、凜花さんがその沈黙を破った。


「新奈、沙羅ごめん。二人にも嫌な気分にさせちゃったよね。さっきのは……ちょっと言い過ぎた」 


 凜花さんが頭を下げた。艶のある綺麗な髪の毛が引き寄せられるようにすとんと落ちた。


「謝らないで下さい。」

「そうよ、私達の為に言ってくれたのに」


 私と沙羅は咄嗟に凜花さんの肩を擦り、頭をあげてもらった。申し訳なそうにする凜花をみて、沙羅が意を決したように「でも」と切り出したのはその後だった。


「確かにあそこまで言わなくてもいいのになとは思ったかもです。あっ勿論、凜花さんが私達の代わりに言ってくれて胸がすっきりしたのは事実ですよ? でも……先も短い、までは言わなくて良かったんじゃないかなって思っちゃって」


 私が思っていたことを、まるで胸の中を覗き見たかのように沙羅がそのまま言ってくれた。施設に戻るまでの間ずっともやもやしていたしこりのようなものが、薄くなって溶けていく。


「……だよね。あれは良くないよね。私、どうしちゃったんだろ?」

「とりあえずドアの前で話すのも変だし、部屋の中に入りません?」


 沙羅の放ったその言葉に私達は部屋の中に入り、それぞれが自分の楽な体制をとった。私はベッドの上に立てた膝の上に顔をのせたまま、向かいのベッドの背もたれに身体を預け窓に視線をやる凜花さんをみつめていた。凜花さんは激情するタイプではなかった。確かに少々気が強く男勝りなところはあるが、どちらかと言えば平和共存的なタイプだ。今日の凜花さんは、そうでないような気がした。何かに怒っているような、焦っているような、そんな感じだった。


 凜花さんはぼんやりと窓の向こうをみつめたままだった。みながら、ふいに凜花さんが言いかけていた言葉を思い出した。あれは、一体なにを言いかけていたのだろう。


「凜花さん、ちょっといいですか?」


 声をかける。疑問を解消せずにはいられなかった。何か、言葉には言い表わせないような妙な胸騒ぎがしたのだ。


「さっきの二人に話しかけられる前、私達に何か言おうとしてましたよね? 嘘をついちゃったとか、言わないでいくとか無理かもって。あれは何を言おうとしてたんですか?」


 私がそう言うと、上のベッドから「確かにそんなこと言ってた。私も気になる」と沙羅が呟く声が聴こえた。凜花さんは少し考える素振りをみせてから、「ごめん。もう何言おうとしてたか忘れちゃった」と嘘みたいに綺麗な笑みを咲かせた。沙羅は途端に、えー何それとおどけていたが、私は見逃していなかった。凜花さんの綺麗な顔から、曇天の空の下に咲くキンセンカの如く、可憐な笑みが咲いたその少し前、ひどく悲しげな表情を浮かべていたことを。

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