第7話

 目が覚めた、という感覚はなかった。けれど、私は確かにほんの数秒前に瞼を開け、視界に広がる見覚えのある天井が寸前までみていた吸い込まれそうな程の壁の白さではなく、少なくとも今この瞬間は白い部屋の中にはいないのだと理解した。


「新奈」


 ベッド脇には沙羅がいた。椅子に腰をおろしながら見下ろすようにして私をみつめ、指先で涙を拭っていた。沙羅がいるということは、今が現実で、先程までみていた光景は夢だったのだろうか。そこまで考えて、いや、と思い直す。夢にしては余りにも現実味があった。指先で触れた机のつめたさも、椅子と腰が密着している感触も、そしてあの壁の白さも、全て覚えてる。あの場所にいたという表現の方が正しい気がした。けれど、廊下にいた私が瞬間的に別の場所に移動するなんてことはあり得えない。あの白い部屋。あそこがどこなのか、何故突然私はあの部屋にいたのか何も分からない。頭がぼぅっとして、うまく考えが纏まらない。なにか得体のしれない透明な物体を無理くり手で掴もうとしているかのようなもどかしさに駆られた。今は、やめよう。そう、思った。


「沙羅、ここどこ?」 

「ここは医務室。新奈は今朝方、廊下で倒れているところを職員さんがみつけてくれたんだって。朝起きたら新奈が部屋の中にいなくて、私も必死に探したんだよ」


 沙羅は思い出したかのように、わっと泣き始めた。私はそれをみながら、まだぼんやりとした頭の中で沙羅の放った言葉を咀嚼した。私は、何故廊下にいたのだろうか。いや、朝に目覚めた覚えはない。それどころか前日に眠った記憶すらない。最後に覚えているのは、と記憶の海に手を伸ばしていた時、ふっと思い出した。


「そうだ……湊はどうなったの? 愛莉と亮太は?」

「どうして新奈がそれを知ってんの?」


 沙羅は目を大きく見開いている。何か不思議な生き物をみているかのようだった。あぁ、そうだ。昨日も、雪が降っていたのか。


「そんなことは今どうでもいいから、三人がどうなったのか教えて!」

「愛莉と亮太は今朝の点呼の時にはもう部屋にいなくて、噂では施設から逃げたらしいよ。それと、湊は」


 沙羅が絞り出すようにしてゆっくりと喋り始めてから間もなくして、私は「ちょっと待って」と話を止めた。


「今、今朝って言った?」

「うん」

「愛莉と亮太が施設から逃げ出したのが今朝ってこと?」

「うん。いつもの朝の点呼の時間に二人が来なくて職員さんが呼びにいった頃にはもう居なくなってたらしいよ」

「待って今日って何日? 私どれくらい意識を失ってたの?」

「え、今日? 今日は十二月の八日で、新奈が意識を失ってたのは今が夕方だから半日くらいじゃない? それが何か関係あるの?」


 今日が十二月の八日ということは、血液検査があった七日からほぼ丸一日近く私は意識を失っていたのだろうか。訳が分からなかった。私の記憶では、二人が施設から逃げ出そうとしていたのはお昼前。血液検査の後だった。午前中であることに間違いはないが、少なくとも朝の点呼の前じゃない。


 基本的に朝の点呼は子供達が一同に集い始める朝食前に行われる。沙羅が言っている話がもし正しければ、二人が部屋から居なくなったことに気付いたのは、遅くても午前八時前くらいということだろう。いや、私の記憶では二人が部屋の中に居ないことに気付くうんぬんの話ではないはずだ。逃げ出した二人を職員達が追いかけていた姿を私はこの目でみている。沙羅の言い方だと、まるで私が血液検査の翌日である今日の朝方に二人が逃げ出したかのようだった。


「湊はどうなったの?」

「湊は、懺悔室ざんげしつに入ってる」


 沙羅が目を伏せながらそう言って、私はやっぱりと思った。あの日、湊は運動場へと向かおうとした職員に足をかけた。真意は定かではないが、私にはそうみえた。施設には幾つか禁忌とされているルールがあり、その内の一つに職員に手を上げるということも含まれている。禁忌を犯した人間が連れて行かれるのは、本館の地下にある懺悔室だった。


「出てこれるまで三日かかるって」

「何したの?」

 自分の記憶と答え合わせをする為に聞いた。

「職員さんに手を上げたらしいよ。それも今朝のことだって聞いた」


 そこまで聴いて、再び違和感に駆られた。湊が職員さんに足をかけたことは知っている。実際に私もこの目でみていた。だが、それも今朝に起きた出来事だというのか。意識の混濁した頭でこれ以上考えるのは無理だと思った。とにかく少なくとも身の安全が確保されている湊はともかくとして、まずは愛莉と亮太の二人が無事か確かめないと、それ以外のことは後でいい。そう思い、ベッドから床に足を降ろした。ひやりとしたつめたさが足裏から身体の奥底へと這い上がってくる。それと同時にくるぶしの辺りに何かが巻き付いていることに気付いた。金属製の輪っかのようなものだった。部分的に緑色のちいさな光を放つそれが、左の足首に巻き付いていた。


「あぁ、それはね」と沙羅が説明してくれた。今回の出来事を施設の館長である三島さんは反逆行為だと重く受け止めており、連帯責任として施設内にいる子供達全員に二度と今回のことがないようにと発信機が付けられることが決まったのだという。


「なんか皆さんの安全を確保する為ですとか上手いこと言ってたけど、結局は愛莉と亮太みたいに施設から勝手に逃げられたくないからでしょ? 帰る家なんか元からない私たちにとっての家はこの施設しかないのにさ、こんな風にされたら思ってもなかったことをやりたくなっちゃうよね。二人が逃げた理由は知らないけど、今になって愛莉と亮太の気持ちがよく分かるわ」


 沙羅は自らの足首につけられた発信機をみながらそう言ってから、途端に顔を曇らせた。私は不安な気持ちに駆られて「どうしたの?」と問い掛けた。


「今回起きた事は、去年のあの時と入れて創設以来二回目の出来事らしくて、あれからそんなに月日も経ってないでしょ? だから職員さんも含め、特に三島さんが口には出さないけど凄く気が立ってる感じでさ、新奈が目を覚ましたらすぐに集会を開くから連れてきてって言われてるんだよね」

「私を?」

「うん、すぐにって」

「分かった、じゃあもうすぐにいこ?」


 ベッドから身体を起こそうと、両の手のひらに力を込める。立ち上がったすぐそばから一瞬意識が溶けて、ふらりとよろけてしまい、咄嗟に椅子から立ち上がった沙羅が私の身体を支えてくれた。


「ほら、まだ起き上がるのは無理なんじゃない? 三島さんも新奈が目を覚ましたらって言ってたし、何も今すぐ行かなくていいのに」


 私に肩を貸してくれながら見上げるようにして沙羅が私をみていた。


「うん。でも、愛莉と亮太が心配だし、湊の様子も聞きたいしね。それに、ここにいてもどのみち三島さんが来るでしょ? 凜花さんのことで一番疑われてるのは、私なんだから」 


 目をみて言うと、沙羅は「そっか……それもそうだね」と納得した素振りをみせて、二人横並びになって足を進めた。


 私達の住む妖精たちの庭は、つい先日創設百周年を迎えた。その百年の間に施設から逃げ出したのは、ただ一人。一年前まで私と沙羅と共に寝食を共にしてきた凜花さんだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る