第6話

 二ヶ月に一度──偶数月の七日は、私たちは血を抜かれる。今日が十二月の七日で、その血を抜かれる日だと分かったのは、朝食を食べ終えてから湊と陽菜乃ちゃんと共に運動場に出てからだった。本当は昨日の内に遊びにいくと約束していたのだけれど、行く気分になど到底なれなかった私は断ってしまっていた。でも、今日もわざわざ厨房の中にまで顔を覗かせてくれた二人の顔をみていると、小さな罪悪感に駆られた私の方から「ご飯食べたら皆で運動場に行かない?」と声をかけていた。


 昨日は、雪が降った。記憶を失っている二人からしてみれば約束したことすら覚えていないのだから、私に勝手に罪悪感を持たれてもはた迷惑なだけだが、自分自身の為に言った。運動場に出ると遠くの方で何かが揺れた。目を凝らしてみる。運動場の地面から伸びている水色の茎は作り物かのように鮮やかな色を放っており、先端にはその色と紫色の混じり合ったぷっくりと膨らんだ蕾が風に揺られていた。周りに群生している雑草とは違って一際存在感を放っているそれをみて、水縹草みはなだそうだ、と呟く。名前に草がついているが、列記れっきとした花で、他の花とは少し違う。この水縹草は雪が降る日にしか花を咲かせない。まるで予めに知っているかのように、雪が空から舞い落ちてくる前後一時間の間に所々にほのかに紫色が混じった水色の花弁を開くのだ。雪が降る日には、小さな女の子達がそれを輪っかのようなかたちにして頭にのせて外ではしゃいでいる姿をよくみかける。


 陽菜乃ちゃんもそんな風に湊と共に水縹草を摘んでおり、私はベンチに座りながら眺めていると、沙羅が私の隣に腰を下ろしてから言った。


「外寒いし部屋にいようと思ったけど、今日は五日だと思ってたら職員さんから七日だってことを聞いてさ、七日ってことは検査の日じゃん? 今は冬だしあるかどうか分かんないけど、どうせゆっくり出来ないならって思って出てきちゃった」


 分かりやすく項垂れてみせる沙羅の姿をみながら、最悪だと思った。完璧に忘れていたのだ。この施設では、二ヶ月に一度検査がある。といっても、二ヶ月というのも曖昧で私以外の他の皆にとっては春や夏や秋の季節だけのことだ。冬の間は雪が降る。検査の日とそれが重なれば、本来であれば施設の職員さんも含め皆がそれを忘れているのだから翌日にはもう一度検査されてもおかしくないはずだが、何故か一度きりで終わった。その為、年間を通して偶数月に検査があると理解しているのは恐らく私だけだろうと思う。他の皆にとってのそれは春や夏や秋にするもので、記憶を失う日が続く冬の間はたまにというような感覚なのだろう。


 検査の内容は、身長や体重の測定から、血液検査まである。私達の身体の健康を維持する為らしいが、私は血液検査が何よりも嫌いだった。太い注射器が体内に入り、血を抜かれる瞬間に腕の神経すらもその注射器の中へと引きずり出されているのではないかと錯覚する程の痛みがあるのだ。


 ただでさえ雪のせいで気持ちが沈んでるのに血まで抜かれるなんて、どれだけ私は苦しまなければならないのだと思いながら、私は今血を抜かれる為の列に並んでいる。本館の中には医療室があり、その部屋の中へと順番に通され身体検査をされるのだ。廊下から医療室へと続く子供達の列が二列になって連なっている。


大城新奈おおしろにいなちゃん、佐藤沙羅さとうさらちゃん。次、お願いします」


 沙羅と横並びになって並んでいると、何やら書類を手にしている職員さんに私達の名が呼ばれ部屋の中へと通される。白い壁に囲まれた部屋の中は大きな仕切りとカーテンで二つに区切られており、「じゃあ、またあとでね」と沙羅はその片側の仕切りの中へと入っていった。私もカーテンをくぐり抜けて、足を進める。中に入ると、白衣に身を包んだ男性に出来るだけ軽装になって下さいと言われる。上に着込んでいたコートとニットを脱ぎ、タンクトップ一枚になった。寒い。剥き出しになった肌が、冬の冷気に襲われる。


「ではこちらに座って下さい」


 丸椅子に座り、腕を消毒される。白衣に身を包んだ男性がトレイの上に載せられていた注射器を手にしたのをみて、思わず身体を竦めてしまう。


「あー動いちゃ駄目だよ。すみません、誰か抑えて頂けますか?」


 男性が締め切られたカーテンの向こうにいる誰かに声をかけると、一人の女性が、はいはい、と入ってくる。


「すぐに済むからね。動かないでね」


 私の腕を抑えていたのは、昨日私に鶏肉と玉ねぎのスープを焦がさないようにと混ぜ方を教えてくれた女性だった。


 腕に針を突き刺されると鋭い痛みが走り、私の中を流れていた赤い鮮血でゆっくりとその容器が満たされていく。男性も女性も、貼り付けたような笑みを浮かべる。私はそれをみながら、「ありがとうございます」と呟いて部屋をあとにした。臙脂色の絨毯が敷かれた廊下を歩いていると、何人かのまだ身体も小さな子供達が泣いていた。「痛いよぉ。手、痛かったよぉ」と同じような事を口にし、職員さん達は宥めていた。いつもの光景だった。私達と同じくらいの年の子ならもう泣きはしないが、身体も小さくまだ幼い子供達にとってのそれは恐怖でしないないのだろう。検査の日の廊下は、いつも泣いている子供達で溢れている。私はそれから目を逸らすように窓の向こうに視線を滑らせた。時の流れ方が変わってしまったかのようにゆっくりと舞い落ちていた雪はいつの間にか勢いを増しており、外の世界は白く染まっていた。


「……もう、消えたいな」


 そんな世界をみたくもなくて、廊下の方へと視線を滑らせ、そう呟いた。その時だった。


「逃げたっ!」


 誰かの、空気を切り裂くような大きな声が鼓膜に触れた。私は身体をびくりと揺らし、咄嗟に声のした方に振り返る。廊下の突き当たり、医務室の手前で、二人の職員さん達が窓に手を添えたまま、運動場の方を食い入るようにみている。私も流されるように視線を向けて、絶句した。


 運動場には、愛莉がいた。一人の男の子に手を引かれながら、門がある方へと物凄い勢いで駆け抜けていくのがみえた。その後ろから三人の職員が追いかけている。窓越しにみても、その三人が必死な形相なのが分かる。


──逃げたっ!


 最初にその言葉が鼓膜に触れた時、真っ先に頭に浮かんだのは何かの動物だった。施設内に動物はいない。それは分かっている。けれど、逃げ出したのが動物ではなく人で、ましてやそれが愛莉だなんて、実際に今この瞬間も大きく両手を振って走り抜けていくその姿をみても、現実に起きている出来事だとは到底思えなかった。頭の中がぐちゃぐちゃになっていくこの感覚には覚えがあった。ふいに、あの日のことを思い出した。夜の纏う闇が満ちた部屋の中、泣きじゃくる私。それから、裸足で廊下を駆け抜けていく私。鼓膜を切り裂くような大きな警報音。頭の中で瞬間的に浮かび上がるあの日の記憶の中の一つが、今、目の前で起きている出来事と重なった。鼓膜を切り裂くような大きな警報音が鳴ったのだ。その瞬間、私は反射的に窓を開けていた。


「愛莉!! 逃げて!」


 喉が擦り切れそうな程に叫び声をあげた。私は、一体何をしているのだろう。分からない。今、目の前に起きている状況に理解が追いつかない。とにかく愛莉に、二人に、捕まって欲しくなかった。それだけだった。


「早く逃げてっ!」


 再び、叫んだ時に気付いた。みられている。廊下にいた職員さん、子供達、皆が私のことをみている。無数の黒い瞳から向けられる視線を感じながらも、私は叫び続けていた。


「新奈、どうした?」 


 左の肩に手を添えられて、咄嗟に振り返る。湊だった。湊は、寸前まで私が送り続けていた視線の先に目を向けると同時に「あの……大馬鹿野郎」と奥歯を噛み締めながら呟いた。


「湊、愛莉が」


 必死に窓の向こうに指を指す。


「あれ……愛莉の手を引いてるのって亮太だよね?」


 声が震えてる。


「二人は、なんで、逃げてるよ! 職員さん達から逃げてる!」


 私がみているものを、湊もみていると分かっているのに、私はそれでも必死に状況を伝えようとしていた。頭の中で言葉を組み立てている余裕なんかなくて、意味不明な言葉の羅列のかたまりを声にのせる。そんな私とは違い、一瞬にして状況を理解した様子の湊は、視線を運動場の方へと向けたまま小さく頷くと、「亮太、愛莉!!! 逃げろっ!」と大きな声をあげた。運動場を走り抜けていった二人は、門の手前にある守衛室へと差し掛かろうとしていた。あそこには、警備員がいる。向かってくる二人を迎え打つように両手を鳥のように大きく広げ、制服に身を包んだ男性警備員が掴みかかろうとしているのがみえた。だが、次の瞬間にはその警備員は地面に倒れていた。亮太が右手を大きく振りかぶって頰を撃ち抜いたのだ。


「おい、やばいぞ。逃げられる」


 廊下の奥にいる職員さんたちも咄嗟の出来事に動揺を抑えきれないのか、普段よりも幾分大きな声で手にしている機械に向かって話す声が聴こえてくる。それから、駆けていく足音が鼓膜に触れた時には、こちらに向かって走ってきていた。私たちを通り過ぎた廊下の先には、階段がある。運動場へと繋がっている。職員さんたちとすれ違いざまに湊はそれとなく窓から廊下側の方へと身体をひらりと向け、一人の職員さんに足をかけた。ように、みえた。職員さんは一瞬ふわりと浮かびあがり、すぐに前のめりに倒れ込んだ。


「あ、悪い」


 これっぽっちも感情の込められていないような声色で湊が言ってから程なくして、もう一人の職員さんに取り押さえられた。ここまでの出来事が、ほんの一瞬に起きた。時間にして恐らく一分。長くても、二分だろう。目の前で濁流のように過ぎ去っていく事象に、頭が追いついていなかった。ようやく、それを理解した時には、私は湊を羽交い締めにしている職員さんを引き剥がそうとしていた。すると、身体を抑えられながらも血走った湊の目が私に向けられた。


「新奈!! やめろっ、お前は手を出すな!」


 最後に聴こえたのは、湊の声だった。それが、次第に遠くなっていく。触れられる距離にいた。いた、はずだった。私は、職員さん達を引き剥がして、湊を助けようとした。なのに、誰もいない。気付いた時には、私の周りには誰もいなかったのだ。未だに鼓膜には先程の湊のあげた声がこびりついている。だが、それすらも次第に遠くなっていく。まるで、深い水の底へと堕ちていくかのようだった。声が聴こえなくなる頃には、私の心は静寂な湖面のように凪いでいた。落ち着いている。ついさっきまで、早鐘のように打ち付けていた自分の心臓の鼓動が嘘みたいに静かだった。ここは、どこだろう。ふと思う。周りを見渡す。細菌一匹すら住めないような怖いくらいに清潔感を孕んだ壁が目の前にある。その壁に、私は今囲まれている。部屋の真ん中には壁と同じ色のテーブルと椅子があり、私はその椅子に深く腰掛けていた。いつから座っているのだろう。ついさっき座ったようにも思えるし、数百年前からこの場所にいる気もする。周りを見渡す。静かだ。私は、白い部屋の中にいた。

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