第5話

 冬の間、さみしさが胸の中に降り積もると、よくみる夢がある。それが夢だと気付く時には、泣き叫びたくなる程に愛おしい夢だ。


 その夢の中で、私はいつもぬるい粘液の中にいる。身体がすっぽりと収まる膜のようなものに包まれているそのちいさな世界は、粘液で満たされており、ひかりは差し込まない。けれど、くらげみたいに揺蕩う私は、安心して目を閉じている。その闇も、身体に纏っている粘液も、それら全てが私にとって害じゃないと知っているからだ。何故かは分からない。でも、魚は生まれた時から水の中を自分の世界だと認識するように、呼吸するように小さく瞬く星たちは夜空を自分の居場所だと知っているように、私はその場所が自分の居るべき場所だと理解している。身も心も全てを委ねたままに、その中を揺蕩っていると、いつもどこからか歌が聴こえた。女の人の、まるで子守唄のような、優しげで温もりを感じるその歌に耳を澄ませているだけで私の心は満たされていった。綺麗な声だな、と思う。その歌を、もっと近くで、私の為だけに歌って欲しい。その歌を奏でるあなたに、たった一度でいいから抱きあげてもらいたい。私は、待っている。目覚めの時を。いつかあなたに会えることを、私は待っている。だから、歌い続けて。私はその声を道しるべにするから。


 意識の深い所で聴こえていたその歌声が少しずつ小さくなるのと同時に、全てを掻き消す程の大きな鐘の音が聞こえた。それに引っ張りあげられるように目を開けた。


「新奈、おはよ。さっき鐘が鳴ったよ」


 沙羅は既に身支度を整えているようで、ベージュ色の生地が編み込まれているドロップショルダーのスウェットに身を包んでおり、艶のある綺麗な黒い髪が私の前で小さく揺れた。


「私が起きるまで、ずっとそこでみてたの?」


 目が覚めてまず目に映ったのは白い天井で、次に映ったのがベッドの階段に足をかけ手すりを掴んだまま私を見下ろしている沙羅だった。


「だって新奈がこんな時間まで起きないなんて珍しくない?」


 悪戯っぽく笑う沙羅に、もう行こうか、と声をかけた。身支度を整え、部屋をあとにする。この施設で生きる人間は、皆が時計のように生きている。午前七時の鐘と共に起床し、それぞれが皆の為に朝の用意をする。昼の時間は村の中にある小さなパン屋さんが焼き立てのパンを毎日届けてくれる為に私達は特にすることはないが、夜には女性たちで朝と同じようにご飯の用意をし、夕食を食べ終えてから夜の二十一時までは自由時間があり二十二時には消灯する。平日であろうが、今日のような休日であろうがその組み込まれたタイムスケジュールが変わることはない。そして、その流れに沿うようにして私達はロボットみたいに規則正しく動く。臙脂色の絨毯が敷かれた廊下を歩いていると、等間隔に並ぶ部屋へと通じる扉が次々に開き、中から女の子達が出てくる。口元に手をあててあくびをする眠そうな女の子、本に目を落としながら一人歩く女の子、三人で横並びに歩き何やら脇腹をくすぐりあって楽しげに笑う女の子達。年齢もばらばらで、三者三様の朝だが、皆が向かう場所は同じだ。またひとつ扉が開き、丁度廊下に出てきたばかりの愛莉と目があった。


「おっはよ! 新奈、沙羅」


 赤いニットに白のスウェットのスボンを身に纏っている愛莉は、サンタさんみたいだった。お団子のかたちに髪をくくっている為に、かたちのいいおでこが露わになっている。愛莉とは子供の時は水縹草でお花の輪っかを頭にのせて、よくお姫様ごっこをした。あの時から何も変わらない汚れのない笑みを私たちに向けてから、私たちよりも前の方を歩いていた愛莉のルームメイト達がちらちらとこちらをみていることを気にしたのか、「先に行ってて」と声をかけた。


「嫌われてんのかな?」


 私は、思ったままのことを口にする。前を歩いている二人が先程までこちらに向けてきた視線はとても好意的なものだとは思えなかった。そして、それが愛莉や沙羅に向けられているものじゃないことも分かっている。冬の間は、雪に怯える毎日を過ごすことで心が疲弊していき、どうしたって気持ちが沈みやすくなる。いつしかそれは冬の間のことだけじゃなくなり、私は極力皆と距離を取るようになった。もう、誰とも話したくない。関わりたくない。恐らく施設で暮らす私と同年代の子たちや職員さんだって、そんな風にずっと塞ぎ込んでいる私と関わりを持ちたいとは誰も思っていないだろうと思う。


「気にしてんの?」


 愛莉が大きな目を少しだけ見開いて、問い掛けてくる。口を引き結ぶ私に「マイペースなところが新奈のいいところでもあるし、まあいいんじゃない?」と諭すように柔らかい眼差しを向けてから、それにさ、と続ける。


「たとえばさ、箱の中に百人いてその百人全員と仲良くしてくださいなんて言う方が無理な話じゃない? 人に好き嫌いがあるのは当たり前で、どうでもいい人とかこの人苦手だなとか思ってる人に愛想振りまくくらいなら、端から人間関係遮断して、新奈みたいに自分が大切だと思う人のことをその分大切に思ってあげる方が余っ程いいと思うけど」


 動かしていた足を思わず止めた。愛莉は時々軽い感じで、私の心の深いところに言葉を届けてくれる。


「それに嫌われてはないんじゃない? まあ、でも絡みづらいとは思われてるだろうね」


 そして愛莉はいつもそんな私にオブラートに包むことなく、直線的に言葉をぶつけてくる。良いことであっても、悪いことでも容赦はしない。そんなさっぱりとした性格をしている愛莉のことが私は子供の頃から人として好きだった。


「まぁ、そうだろうね。新奈の良さを分かってあげられるのは私だけってことだ」


 沙羅が胸を張るようにしてそう言うと、私と沙羅の間に身体を入れ込んでから愛莉が肩に手を回してくる。


「私、たちでしょ? 幸せオーラ全開のあんた達ふたりの間に割って入れるのなんか私くらいじゃない?」

「それはあるかも」


 沙羅が言いながら頰を緩ませ、それにつられるように愛莉が笑う。館内で流れているオルゴールの旋律が綺麗だった。


「いろいろあったけどさ、愛莉が元気そうで良かったよ。まだ記憶は戻らない感じ?」


 沙羅が問いかけると、隣を歩く愛莉が小さく首を横に振る。その横顔がどこか寂しげで、目の奥に深い悲しみの色がみえた。


「私に出来ることがあったら何でも言ってよ。あ、そう言えばさ亮太りょうたとはどうなの……」とふたりが別の話題へと移り始めたので、私はぼんやりとそれに耳を傾けながら足を動かしていると気付いた時には食堂を前にしていた。


木島愛莉きじまあいりβベータです」

「佐藤沙羅。γガンマです」

「大城新奈。αアルファです」


 一日が始まる。今日も私は、闇の中へと足を伸ばした。

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