第4話

 礼拝の時間は、今朝方沙羅が言っていたように夜の六時きっかりに始まった。施設に隣接している礼拝堂の中は、三十一人の子供達が手にしている蝋燭ろうそくの火と天井から吊るされた涙型の照明で、蜜色に染まっている。祭壇には半円を描くようにして子供達が並んでおり、入口からそこに至るまでの道を村の人たちが列をなしていた。私は、祭壇に立つ三十一人の内の一人だった。


「雪の妖精のお嬢さん、おかげさまで今年も良い一年を過ごすことが出来ました。どうぞ、つまらないものですけどお納め下さい」


 年配の女性の声が、子供の泣き声に混じって鼓膜に触れる。窓に貼り付けていた視線を女性の方へと滑らせた。年は七十代くらいだろうか。腰が曲がってはいるものの、私に向けられている笑みはまだ幼女のようなあどけなさを残しており、可愛らしい女性だと思った。


「こんばんは」

「えぇ、こんばんは。いつも思うけど、その白いお洋服綺麗だわ。それを着ていると本当に雪の妖精のようね」


 女性の目が細められ、私の着ている純白の洋服を足先から頭の先まで順に舐めるようにみてくる。私はそれにため息を溢しそうになるのを必死に堪え、円を描くような形で高く抜けた天井や、装飾の施された壁、それから私と同じような服に身を包む子供達へと視線を順に滑らせた。丁度、五歳くらいの小さな子供が職員さんに手を引かれながら祭壇を降りていった。列に並んでいた何人かの村の人達がそれを見るなり途端に列から抜け出し、その男の子を囲んだ。それから両手を合わせて拝み、ゆっくりと頭を下げる。手を繋いでいる職員の男性は満足そうに微笑み、男の子は泣いていた。私はそれをみながら反吐が出そうだった。


 私も含め、今礼拝堂内にいる子供達には親がいない。皆この施設に捨てられた。それが私達が雪の妖精の子供と呼ばれる所以ゆえんだった。


 この村の人たちは、雪が降ると当日の記憶を無くす。些細な出来事であろうと、本人の人生を左右してしまうような重大な出来事があろうと、全て、細部に至るまで、雪が降った翌日には頭の中から記憶を引き抜かれたかのように当日の記憶をすっぽりと無くしてしまう。その為、この村の人たちには雪が降る日に記憶を無くすという概念すらない。


 ある日突然、身に覚えのない出来事が目の前に現れた時、この村の人たちは大概こう口にする。妖精の仕業だ、と。私はそれを聞きながらいつも馬鹿みたいだと思っていた。妖精なんている訳がない。いつからか、皆の信仰を根幹から否定してしまうようなその考えが私の頭の中にはあった。


 こんなくだらない言い伝えが信じられているのは雪が原因の一つであることに間違いはないが、村が位置する場所にも関係があると私は思っていた。標高の高い山々に囲まれているうえに、幾つもの山を超えた先にある隣町までは車で一時間も掛かり、外界との接触が皆無に等しいこの村だからこそきっと成し得たものなのだろう。この村は、世界から半分隔絶された、言わば陸の孤島のようなものなのだ。


 そんな陸の孤島にも、少なからず命は生まれる。だが、母親のお腹の中で十ヶ月という長い月日を経て、ようやく拝むことのできた我が子の顔は、この世に産声をあげた日と雪が降る日が重なってしまった場合、翌日家の中にいるのは見ず知らずの他人の赤子のそれへと移り変わるのだ。母親が命をかけて子を産んだ瞬間も、我が子が産声をあげた瞬間だって、確かに現実で起きているはずなのに、誰一人としてそれを覚えてはいない。記憶を失っているということすら、当の本人達は知らない。きっと、お腹にいた子は妖精が取り上げてくれたのだと、お腹を痛めて産んだはずの母親や見守っていた父親、更には出産に立ち会ったはずの医師までも、皆がそう信じている。それでも、母性や父性の力が作用するのか、翌朝家の中で泣き声をあげているのが見ず知らずの子だったとしても我が子として受け入れる人達が大半だった。雪が降る日に親となってしまった村の人達の多くは、ただ生まれてくる瞬間をみていないというだけでこの子はきっと自分たちの子供だと信じて子を育てている。一方で、私達の親のように実の我が子として受け止めきれない人達もいる。そのような親が子供を託す場所が、私たちの住む妖精達の庭だ。そして、私達のような子供達は、この村ではこう呼ばれる──妖精の忘れ物、あるいは雪の妖精の子供と。


「あの、私は雪の妖精じゃないですよ」


 この村の言い伝えにも、この村の大人にも嫌気が差したせいで、吐き捨てるようにして目の前の女性にそう言ってしまう。


「あら、そうね。お嬢さんは雪の妖精の子供よね。年を重ねると、どうにも言葉足らずになってしまうの」


 私が言いたかったのはそうじゃないのだと言いたかったけれど、それは言わなかった。女性が申し訳なそうに笑みを浮かべて、手にしていた白い封筒と一つの紙袋を差し出してくる。私の身長が彼女よりも幾分高い為に、袋の中身がみえた。中には幾つかのみかんが入っているようだった。皺の刻み込まれた手は微かに震えており、私は女性の手からそっと紙袋を受け取り、それから白い封筒を受け取った。薄いが、独特の硬さを持つ封筒だといつも思う。指から伝わるその感触だけが私が封筒から得られる情報で中身は知らなかった。 


「では、こちらに」


 私の後ろに立っている職員の男性に促されるままに、木製のバケットの中へと封筒を入れた。


「無病息災の祈りを、今年もあなたに捧げてもいいかしら」


 袋に目を落としていた私は、ふっと顔をあげると既に女性が瞼を閉じたまま私に向かって両手を合わせていたので、「えぇ、いいですよ」と喉元まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。それから、女性と同じようにゆっくりと瞼をおろした。去年も、一昨年も、この女性は私に祈りを捧げていた。雪が降る日には妖精が現れ、身の回りに悪戯をするが、その者にはいずれ幸福が訪れる。そして、雪の妖精の子供と関わりを持つとご利益がある。皆がこの言い伝えを信じている為に、毎年十二月の初旬になると、無事に一年を過ごせたこと、翌年も良き年になりますようにと感謝と祈りを捧げにくる。目にはみえない雪の妖精の代わりに、雪の妖精の子供と呼ばれる私たちがその日だけは崇められ、無病息災の祈りを捧げられるというのがこの村のしきたりだった。女性は瞼を開けると満足そうに微笑んで立ち去っていった。私はその姿がみえなくなるまで目で追いかけ続け、ようやく人混みに消えてみえなくなった所でため息をついた。


「ちょっと新奈、聞かれるよ」


 私の隣に立っていた沙羅が呆れたような顔をしてこちらをみていた。


「え、何が?」

「その大きなため息。ただでさえ私と新奈は村の人たちからあんまり良く思われてないんだから、せめてああいう人は大事にしないと」

「ああいう人って?」

「私たちに好意を持ってくれる人だよ」


 沙羅の足元には紙袋が三つあり、中には沢山の衣服が入っているようだった。村の人達は基本的に雪の妖精は勿論のこと、その妖精の子供として生きる私達のことすらも崇めてくれていた。礼拝の日には、皆が何かを包んだ封筒と共に色々なものをくれる。村で取れた果物や食べ物、衣服や日用品。けれど、どの子供にお祈りをし、それらの物を渡すかどうかは本人の意思に委ねられている為に、私と沙羅の場合だけは現在進行系で女性同士で恋仲になっている私たちを毛嫌いする人、雪の妖精の子供として崇めてくれる人で大きく二極化していたのだ。


 列は途切れることなく続き、私は目の前で両手を合わせてから満足そうに祭壇を下りていく村の人たちを、ぼんやりとみつめた。若い夫婦に、年配の男性、小さな女の子の手をひく女性、それから年配の女性へと続いた。


「来年も健康に過ごせますように。ささやかながらこれを」


 その女性が手にしていた封筒は、これまで受け取ってきたどれよりも厚みのあるものだった。手にしてから尚の事重いと思う。私は衝動的に中身をみたい気持ちに駆られた。中身も知らずに十年以上受け取り続けてきたのだ。少しくらいみても構わないだろう。目の前の女性は目を瞑っている。少しだけと、右手だけで封筒の中を確認しようとした時、目にも止まらぬ速さで手首を掴まれた。私がその掴まれた腕の先へと目を向けたのと、女性が声を上げたのはほとんど同じだった。


「あら三島さん、いらしたのね」


 気付いた時には、私の隣に施設の館長である三島さんが立っていた。パリッとしたスーツに身を包み、女性に向けて愛想の良さそうな笑み浮かべてる。私の腕はいつの間にか離されていたが、寸前まで掴まれていたところがじんじんと熱を持っていた。


「礼拝の日は極力顔を出すようにしていますよ。村の方たちと交流を深められる貴重な日でもありますから」

「そうね、そういうのは大事よ。村の人たちはね噂話が好きでしょう? 少しでも愛想の悪い人はすぐに恰好の的にされちゃうから。ほら、ここで働いてる恰幅のいい男性職員さんいるでしょ? あの人なんて愛想が悪いって皆言ってたんだから」


 女性が身振り手振りで話を説明している。三島さんは丁度いい所で相槌を打ち、聞く体制をとっていた。その間笑みを絶やすことはなかった。所々白髪の混じった髪を後ろの方へと綺麗に髪を撫でつけている眼鏡がよく似合う男性で、時折眼鏡に手をかけてその位置を直している。正確な年は知らないが、笑う度に目尻に浮かぶ深い皺から五十歳くらいにみえた。三島さんは人当たりがよく、大人には勿論子供達からも好かれていた。笑顔を貼り付けたような、いつも笑みを絶やさないイメージを皆が持っているのだと思う。でも、私はその笑みを向けた相手に対する眼差しの奥深くにあるものに、冷えた氷のようなつめたさをいつも感じていた。表面上では笑っているけど、心の奥底では笑ってはいない。そんな三島さんのことが、私は子供の頃から苦手だった。


「彼には」とずっと女性の話に聞き入っていた三島さんがぽつりと呟く。


「この施設を辞めてもらったんです。もう二度と私達の前に姿を見せることはないでしょう。その節は不快な気持ちにさせてしまい申し訳ありません」


 三島さんが深々と頭を下げる。


「あら、そうなの? だったらいいの。そんな、三島さんが頭を下げる必要なんてないのに。私はただ、ああいう大人が近くにいる事は子供達の教育上にも良くないって思ったのよ」


 女性が慌てふためくように言葉を矢継ぎ早に詰め込んだ。三島さんは頭をあげるのと同時に、そんな女性に笑みを向けた。


「おっしゃる通りです。ましてやこの施設で住む子供達はただの子供ではなく、雪の妖精の子供ですから」 

「そうなのよ! でも、この施設の子供達は本当にいい子たちばかりよ。きっと三島さんの教育がしっかりされているからでしょうね」

「お気に召した子はいましたか?」


 三島さんがそう問いかけると、女性は私の顔に指を向けてくる。もうずっと蚊帳の外に放り出されていた私は、一刻も早く会話が終わって欲しかった。


「この子!」

「新奈ですか」

「あっ新奈ちゃんっていうの? 二年前までは別の女の子に無病息災のお祈りをしてたんだけどね、凍結した地面でバランスを崩して転んじゃって咄嗟に手をついたものだから左手首を骨折したことがあったのよ。それからあの子はもう駄目だと思ったわ。使い物にならない。それで、誰でも良かったんだけど去年はたまたまこの子が目に入ってお祈りをしたら、今年も何事もなく過ごせたの。だから、当面の間はこの子で決まりね!」


 女性が胸を張るようにしてそう言うので、私は頬を張り倒してやりたかった。女性がそれまで誰にお祈りをしていたのかは私は知らない。だが、都合のいい時にだけ祈りに利用し、使い物にならないと思ったら捨てる。まるで物のように子供を扱うこの女性にとてつもない嫌悪感が湧いた。睨みつけるようにして私がみつめていると、「では、家族にお祈りをしましょうか」と三島さんが大きく手を広げた。


「家族?」


 首をかしげる女性に三島さんがゆるやかに頬を緩ませた。いつもの、作り物の笑顔だ。


「えぇ、家族です。この施設で暮らす私達、そしてその外で暮らす村の方々。私にとっては何よりも大事な、家族です。この施設の館長を勤めてからもう二十年になりますが、ずっとそう思って生きてきました。人は死ぬ時は一人だ。なら、せめてそれまでは出来るだけ多くの家族と過ごした方がいいと私はそう思っています。さぁ、祈りましょう。家族に」


 言い終えて、三島さんはゆっくりと瞼をおろした。女性は少しの間、まるで神か何かをみるかの如く崇めるような眼差しで三島さんをみつめていたが、やがて同じように両手を合わせ、瞼をおろした。私は物心ついた頃からもう何度も目にしてきたその光景をみながら、舌を噛み続けた。

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